アイム・ノット・ゼアのレビュー・感想・評価
全13件を表示
難解、意味不明、けどなんかおもろい
何度も見返している作品だけど、毎回集中できず、いつの間にかながら見になってしまいます。かなり難解だし結構長いし─。真剣に鑑賞しようとすると、本当につまらないと思ってしまう・・・でも、軽い気持ちでちらちら画面を見ていると、なぜかその度に結構笑えたり─決して嘲笑などではなく、この作品の面白さが至るところにちりばめられているということがよく分かったり─。 そもそも、いちアーティストをあらゆる設定、あらゆる人物で再構成しようなどと、どういうこと!?と思ってしまうわけで、それだけでも興味をそそられる。で、いざ観賞してみると、やっぱ複雑怪奇な印象で、ボブ・ディランを知っていようがいまいが、目の前に展開する様々な要素を集約して咀嚼することなど相当の達人でなければ、はっきり言って超むず、というか無理です、ということになってしまうと思うのです。まぁ、確かに、ケイト・ブランシェットとかベン・ウィショーなどは結構寄せてきているので、分かりやすくて素直に色々と楽しむことができるけれど、クリスチャン・ベールとかヒース・レジャー、リチャード・ギア、ウッディなどはどうしてもリンクさせることなど出来ないわけで・・・。それぞれを似せて表現しようとしていないというのは、理解できるし、ウッディやビリーの存在はそのルーツ的な象徴として登場させているということは何となく分かるのですが、それをディランに結びつけるにはかなりの知性や頭脳が必要ではないでしょうか。 だから、ディランを多少知っている程度の自分などは、途中から何を見させられているのか分からず、あっという間に集中が途切れるのですが、よく言えば、そうなって初めてこの作品の面白さが分かってくる気がするわけです。それが正しいのかどうか分かりませんが、楽しみ方は人それぞれだと思いますので─。 観賞の大部分は、何となく画面を眺めている形になってしまっているのですが、そうすると、すべての分身的キャラたちが、所々ではあるのですが、ディラン本人にちゃんと見えてくるのだから笑ってしまうというか実に面白い、いや凄すぎます。 正直、そんなに面白い作品だとは思えませんが、相当に考え込まれた野心的な映画だとは思います。知性に溢れた雰囲気をガンガンに感じるのですけれど、自分にはどんなに頑張ってもそのすべてをちゃんと理解することなど不可能です。
ディラン・ディラン
2021年8月21日 映画 #アイム・ノット・ゼア (2007年)鑑賞 #ボブ・ディラン の伝記映画となっているが、正確には彼の生き方や歌にインスピレーションを受けた作品という感じ ボブ・ディランに詳しい人は楽しめるだろうけど、そうではない人は楽しめない ボブ・ディランを意識せず見た方がいいですね
ボブディラン力が足らない
そもそもボブディランの何曲かと若い時の写真を見たことある程度の超初心者には、非常に難解でした。解説とWikiがない世の中なら、理解できたなかった…ただ、ほんまに驚いたのは、1番知ってるかんじのボブディランを演じてたケイトブランシェットの違和感のなさに度肝抜かれました。めっさかっこいい…すごい…
リッチー・ヘブンス
なんといってもリッチー・ヘブンスです。彼の演奏を見たのは『ウッドストック』の映像だけなのですが、久しぶりに拝見して、衰えを知らぬソウル・スピリッツをビンビン感じてしまいました。少年ボブ・ディランとの軽いセッション・シーンだけだったのに、ここまで印象に残るとは・・・やはりタダモノではない!
こんなに実験的な映画だとは思いませんでした。伝記(とは言え、ボブ・ディランは死んでない)映画と言えるはずなのにボブ・ディランという登場人物は一切なく、6人のディランはそれぞれ別の名前で登場し、モキュメンタリー的な作りになっています(虚実のようで真実なんだろうけど)。しかも、時代は行ったり来たり、ディランの6つの側面をそれぞれ強調する役作りに徹しているため、完結もしないし、むしろ混乱してしまうおそれもあります。
印象に残るのはまず“放浪者”を演ずる少年マーカス・カール・フランクリン。左利きギターも上手いし、天才ミュージシャンというイメージ。そして、女優賞でも注目された“ロックスター”のケイト・ブランシェットはソックリ度では一番だったかもしれない。役名はジュード・クイン。クイーンといえば、「アイム・ノット・ゼア」ならぬ「ナウアイムヒア」を思い出してしまいます・・・
この映画が遺作となってしまった“映画スター”を演ずるヒース・レジャーを見るとちょっと悲しくなってきました。結婚しているディランの一面も見れるのですが、妻を演ずるのがシャルロット・ゲンズブール。「ヒースの妻はシャルロット・ゲンズブール」などと茶化して悲しさを紛らせてしまいましょう。
残りは“無法者”のリチャード・ギア、“詩人”のベン・ウィショー、“革命家”のクリスチャン・ベイル。贅沢なキャスティングだけど、魅力は分散されているような・・・それよりも時代に応じたドキュメント映像、特にベトナム戦争が絡んでいると、ボブ・ディランが与えた影響も計り知れないと感じてしまいます。
6人をそれぞれ別人格としてとらえてしまうとわけのわからない映画。でも、すべてボブ・ディランなんだよな~と考えると、名前を隠し通すこととか、政治的プロテストソングの精神の考え方がわかるような気がしてくる。実は彼のことをよく知らないのですが、『USA for Africa』で他のミュージシャンから自分の歌い方を教えてもらうという微笑ましいシーンが忘れられなく、実は照れ屋さんなんだと思っているんです。でも神様・・・です、きっと。ちなみに“フォークの神様”と検索してみると、岡林信康、ボブ・ディラン、杉下茂、等々がヒットします。
ボブ・ディランの歴史
B・ディランの半生を六人の役者が演じる触れ込みで劇中にB・ディランという人物は出て来ないし名前すら呼ばれない。 ラストにハーモニカを吹くディラン氏のアップの映像のみである。 フォークの人気者C・ベイルにソレを演じた映画俳優の H・レジャーにA・ランボーを名乗るB・ウィショーにウディ・ガスリーと名乗る黒人の子供に姿形がまんまディランなC・ブランシェットに唯一実在の人物を演じた(まぁ年食ったキッドは実際には存在しないが)R・ギアのビリー・ザ・キッドとB・ディランに無知だと混乱する。 実在の人物は他にA・ギンズバーグは出て来てThe Beatlesらしきメンバーに名前だけウォーホルにニコ?らしきM・ウィリアムズも。 フェイクドキュメンタリー要素でJ・ムーアも出ているしキャスト陣はC・ゲンズブールも含めて豪華である。 監督の過去作「ベルベット・ゴールドマイン」と路線は変わらないような気もする感じでミュージシャンやアーティストにカルチャーと知識が無いと置いて行かれる。 バイクで事故ってる場面はまんまディランの事だしC・ブランシェットはドキュメント映画「ドント・ルック・バック」の雰囲気丸出し!? 映像に凝り過ぎで話の筋がメチャクチャなのは否めない。
6色の幻影
トッド・ヘインズ監督は、6人の盲人と象の寓話を意識して 6色の幻影を用意したのだろうか・・?。 子供の頃「風に吹かれて」を聞いた事があるだけで ボブ・ディランについて何も知らないまま見た。 ベン・ウィショーを見たかったのだが、ケイト・ブランシェット のニヒルで不敵な微笑に惹きこまれてしまった。 彼女の演じたジュードがボブ・ディラン本人に一番似ていたそうだが、 吹き荒れる風に向って立っている、痩せたライオンのような容姿が The Street Slidersのハリーにも似ていると思ったのは私だけだろうか。 理解できたとは言い難いが、幻想画のように美しい映画だった。
僕がしていることは抵抗(プロテスト)だ。
映画「アイム・ノット・ゼア」(トッド・ヘインズ監督)から。
6人のキャストが、伝説的アーティスト、ボブ・ディランを
それぞれ異なった角度から演じるという話題作だと言う。
確かに、フォークシンガー、ロックスター、詩人、
映画スターなど様々な顔を持つボブ・ディランなのだが・・。
「詩とは、裸の人間のようなもの」と言いながら、
「言葉を書かなくても詩人だ。
ガソリンスタンドの店員も靴磨きも」
「詩人という言葉は嫌いなんだ」とも呟く。
「歌は、ひとりでに歩きだす」と語ったと思ったら、
「歌で世の中が変わるとは思ってないさ」とも言いきる。
どれが本当のボブ・ディランなのか、考えさせられた。
そこで、作品内で語られてた
「お尋ね者の心得7カ条」を紹介したい。
その1 レインコートの警官を信じるな
その2 情熱と愛には気をつけろ。両方ともすぐ冷める
その3 社会問題への関心を問われたら、
じっと見つめ返せ、相手は黙る
その4 本名を隠せ
その5 自分を見ろと言われても、決して見るな
その6 目の前にいる人間にすら理解できぬ行動は慎め
その7 何も創造するな その誤解は一生付きまとう
決して解けない
この7カ条に「ボブ・ディラン」の心得を感じた。
総称すると「僕がしていることは抵抗(プロテスト)だ」
このフレーズが輝きを増してきたので、気になる一言。
ちなみに、
プロテスト(protest)とは「異議を申し立てること。抗議」
プロテスト‐ソング(protest song) とは
「反体制的な主張や抗議を歌詞に取り入れた歌」のこと。
ディランの本質に迫れている点では買えるが。。。
ボブ・ディランという人は、謎が深いというか、理解しにくい人です。わたくし自身、この人の魔力に取りつかれ自伝やら評論書やらドキュメンタリーやら2年くらい使って研究しました。自前の浅はかな解釈でいうと、この人は時代を笑い声とともに闊歩した道化師であり、今でも生きているのは卓越したユーモアのセンスがあったから。 この人を理解しだすと人生そのものが楽になるので、興味があるお方はかじるのでなく、踏み込んでみる事をお勧めします。この人に対するわたくしの感情は、愛そのものだと思います(笑)。 さて、本作はそんな謎の人物ディランを6人の俳優を使って描いた野心作です。時系列どおりに描くのでなく、監督のユニークな世界観で詩的に映画は進行していきます。ケイト・ブランシェット演じるディランは特に良く、女性なのに似てさえいる。 ただ、ディランのシュールな詩の世界どおりに映画を作ろうとしたのはいいですが、いかんせん長すぎます。これだけの難解な展開では、よっぽどのディラン信者じゃないとついてこないでしょう。 ゴダールを思わせるシュールさですが、ゴダールは映画を短くまとめた。そこに彼の意味不明な魔力があったのでついていけたのです。トッド・ヘインズ監督にはゴダールほどの魔力はありません。そこに2時間以上もやられると、寝るなと言われても無理な話です。
予習をしてからがいい!
和洋様々なアーティストに多大な影響を及ぼす偉大なる現役、ボブ・ディラン:Bob Dylan。 早くも彼をモデルにした伝記的映画「アイム・ノット・ゼア:I'm not There」が誕生した。 当人もこの出来栄えに満足し公認としている。 興味深いのは、一人のモデルケースを時代や設定によって6人の俳優に演じさせるという、その前代未聞な発想だ。 何も一人の人物をわざわざ6人で演じる遠回りさが必要か?疑問に思いつつ観始めると、次第にその演出の巧妙さを知る。 リチャード・ギア、クリスチャン・ベイル(この二人、もっともディランとはかけ離れたタイプだ)先日他界してしまった「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レジャー(2008年1月22日、マンハッタンの自宅にて薬の併用・過剰摂取による急性薬物中毒による事故死)等の豪華キャストが、各々独自な切り口でディラン節を披露している。 それだけ、ボブ・ディランというアーティストの刻んだ時代の膨大さ、懐の深さは、ポピュラー音楽史の断片そのものに匹敵するのだな・・・と感慨深くなる。 彼らの殆どは、当人を素のまま演じる意識ではなく、ディラン的フィルターを通した別人格を作り上げている。 6人の場面が独立した構図から始まり、それらに付随したノンフィクションと架空の設定が上手くブレンドされ、次第にストーリーが結合されていく。 何とも不思議な居心地になる。 正直に言うならば、この映画を観る前には予備知識を心得ておかないと、ついていけなくなるかもしれない。 単なる娯楽感覚やデートのつもりで、軽く映画鑑賞などでも・・・という発想で劇場に足を運ぶと、期待はずれなまま帰宅することになるだろう。 設定や役柄がバラバラな上、時制を無視したシーンが細かく交差していく描写は、やや混乱を招く。 例えば「プロテスト・フォーク」が何なのか?リチャード・ギアがビリー・ザ・キッド?そもそもビリー・ザ・キッドって誰?オートバイ事故って?・・・etc. 実は、ボブ・ディラン愛聴家にとって基本的な事柄こそが、普通の鑑賞者(つまりディランを知らないごく普通な人という意味)を、最も難解な世界に導く原因になり得るのだ。 なのでここは一つの提案として言っておきたい。 少なくともディラン作品を一度聴いてから観るといい。 DVDや書籍でも何でもいい、現代最も崇高な音楽家への興味を! そこで初めて相乗効果が出るだろう。 *後から調べるのもいいが、その行為はむしろディランを知っている人間のほうがしっくり来る気がする。 するとその厄介なストーリーの中に、光輝く存在感を放ったひとりの役者に注目できるはず。 ジュードというロックスターを演じたケイト・ブランシェット:Cate Blanchettの見事な扮装ぶりだ。 前作「バベル」では銃弾を受け瀕死な状態を演じた彼女、ここでは何と男役。 音楽性をフォークからロックへ移行する過渡期、彼はブーイングを一身に受ける。 マスコミからの執拗な取材攻勢、往年のフォーク・ファンからの誹謗中傷・・・それでも時代は変わることを身を持って証明し、やがてロックとフォークの重要な部分を繋ぎ合せたラウドなサウンドを確立する。 60年代後半に革新的な行動に打って出た頃のボブ・ディランをモチーフに、若く美しい反逆精神に満ちた演技をスマートに魅せつけてくれる。 この演技、タダものじゃない! 案の定、あらゆる賞モノでのノミネートやら候補に挙がっているようだ。 この怪演振り、彼女が最もリアルなボブ・ディランに近い。 *それに、途中で登場するアレン・ギンズバーグ(アメリカを代表するビート詩人、ディランとの親交の深さは有名)役のデイヴィッド・クロス;David Crossというコメディアン、彼の扮装ぶりも当人っぽく面白かった。 しかし、改めてボブ・ディランの半生の膨大さには驚く。 ミネソタ州の田舎の青年が、才能と再生を繰り返し開花させ、時代や世界と向き合い続ける。 当人は1941年5月24日生まれ、人生の集大成の時期に入った。 この映画を通じて人間の多様性を知った。 思った以上に様々な行動や判断が出来て、計り知れない深さを持っているのが人間だ。 一つのことに執着した凡庸な日々なんて、本当にもったいない話だ。 後悔・・・人生を同窓会の連続にしてはいけない。 僕らが多様性に満ちた有意義な人生を歩む為に、こんな合言葉を唱えよう! 時代は変わる。
彼の本性はどれ?
一言で言って「難解」です。 あまりに変化が激しくついていけませんでした。誰が誰でどうなっているんだろう。ただ、途中で睡魔に襲われたせいもありますが・・・。 ケイト・ブランシェットやリチャード・ギアなど、点々とした演技は上手さを感じます。が、転々とストーリが展開して、すっかりコンフューズし難解な思いだけが残ります。 勧善懲悪ものが観たくなりました。
ケイト・ブランシェツトはいたこを呼んだか?でも他はディランへの関心がないと???
<ストーリー> ボブ・ディランの半生を、各時代の様々な「顔」のボブ・ディランと捉え、俳優6人が演じ分ける。 <個人的戯言> 私自身も一時ボブ・ディランにははまりましたが、彼の個人的私生活のことには全く興味がありませんでした。この6つの「ボブ・ディラン」の中で、私たちが目にしていた表の顔は、ケイト・ブランシェット演じる「ロック・スター」のボブ・ディランのみ。特にこのフォーク・プロテスタント・シンガーのイメージからの脱却の時代は、とてもスリリング。しかもケイト・ブランシェットの立振舞いは、ほんとイメージ通りのボブ・ディラン。 しかし他の時代の話は、特別興味をそそるようなものではなく、あまりにケイト・ブランシェットが凄いため、他の役者は「誰の役?」ってくらい印象が残りません。 当時のフォーク・ファンから裏切り者呼ばわりされた、ロック・サウンドへの転身は、相当なスキャンダルだったようですし、実際彼の足跡をCDで追っていた私にとっても、その音の変化は衝撃的で、しかも超かっこよかったので、話的にもこの時代が、最もボブ・ディランの「音楽」に触れていたものにとっては興味深いです。 おまけにその時代を受け持つケイト・ブランシェットがとにかく凄い!私自身もいくつかのLIVEの模様しか観ていませんし、特にインタビュー等はほとんど観ていませんが、たぶん世間のイメージの中の「ボブ・ディラン」そのものです。その発言をする時の仕草、抑揚等はもう完コピ状態。 それに比べて、ボブ・ディランの音楽以外の、「全て」のファンというわけではない私にとっては、デビュー前の放浪や、バイク事故の後の隠匿生活、カトリックの洗礼を受けた時代(音楽的には興味深いですが)、そして結婚生活等は、かなりどうでもいい話で、更にナビゲーター的に挿入されるディランの考え方を表すようなシーンは、実際と同じように難解な上、この辺りは、やはりケイト・ブランシェットが何しろ凄過ぎて・・・ それぞれの時代の役名は、影響を受けた詩人や歌手等から取ったりしているのも、知っていれば面白いところなのかもしれませんが・・・
なんだかよくわからん。ただ見ていただけの私(わたくし)
これ試写でみたんですけれども。 売りは、6人のボブ・ディランってことなんですけれども。 私(わたくし)、そもそも、ボブ・ディランが好きでないので。 私(わたくし)にとっては、どうでも良い映画なのよね。 これが、マドンナだったら、きっと熱く語っていたんだと思いますけれども。 さて、どこからどうみても、みなさん、ボブ・ディランに見えない。 唯一すごいなと思えたのは、ケイト・ブランシェット、彼女は、どことなくボブ・ディランに似ていると思った。 やっぱり、彼女って、化け物女優の一人だと思う。 どんな役でもやるでしょ。 おったまげ~!!!なのよね。 ついに男の役までこなしてしまうのねって感じ。 そりゃ~アカデミー賞にノミネートされるわよね。 あとね、つい最近亡くなったヒース・レジャーが出演しているんですけれども、こちらの映画でも、ドラッグとかにハマっていく感じの役で、なんか、すっごくリアルに感じた。 実生活でもこんな感じで悩んでいたのかもしれないと、なんかかぶる感じ。 痛い感じだった。 とにかく、ボブ・ディランが好きな人は見たほうがいいけど。 あまり彼に興味ない人は、他の映画をおすすめしますわ!!!
全13件を表示