「傑作」ダークナイト @Ryota_yade27さんの映画レビュー(感想・評価)
傑作
第1作目のビギンズもヒーローものとしてはしっかりと正義を完遂していて充分に良作である。その中でもこの作品は群を抜いている。「過大評価」だけでは批判できないのだ。
ヒースレジャー演じる狂気のジョーカーとバットマンは、表裏一体の存在でありジョーカーという絶対悪が存在して初めてバットマンが存在する。(その逆も然り) このことは間違いない。ただ、バットマンは絶対的正義ではない。ジョーカーという怪物を相手にして辛うじてヒーローとして存在することができている。
さて、ここからが本題。
ジョーカーが病院を人質にとり、爆破されたくなければ特定の人物の殺害を促すシーンがある。
勿論、病院患者の親族はたまったもんじゃない。
多くの人間が殺害を躊躇する中で、銃を発砲する人物(ごく普通の一般人)も劇中では登場する。
この時点でジョーカーは勝ってしまっている。
まずジョーカーはただのサイコパスではない。(その一言で片付けられてしまうようになっているヒース・レジャーの怪演も言わずもがな凄まじい)
彼の行動は全て計画的であり、意図があり、そのほぼ全てが計画通りである。
そしてなによりも明確な目的をもっている。
人間の性善説や性悪説などといったものを根底から否定し、人間は生まれもって自由なのだという自由意志の信念のもとに、彼は混沌を巻き起こし、それを実際に証明してみせる。
彼自信が言う通り「混沌の使者」である。
人間は誰しも善と悪の揺るぎない価値観をもち、善悪の確固とした境界線を引いているつもりでいる。
しかし、その価値観は本当に正しいのか。
本当に揺るぎないものなのか。
いいや、時と場合によってはいとも簡単に崩壊してしまうような都合のいいものでしかない。と言いたげなジョーカー。
バットマンは不殺の誓いを胸に正義の信念を貫き、法で裁けぬ悪を裁くことができる。だがそもそも彼は自分の判断基準に則って正義と悪を判断し、夜にだけ犯人を裁くというのはご都合主義の一人自警団のようなもので犯罪行為にあたる。警察や法の存在意義が問われ、彼を不合理だとみなす者も現れる。(従来の特撮のヒーローものも同様だが、絶対的悪と絶対的正義の対比によってその矛盾を免れている)
そんなバットマンにジョーカーは言う。
「お前は今は必要とされているが、たちまち世間はお前を見放して怪物扱いするようになる。俺と同じだ」
バットマンは市民の善意の向上のために自らを正義の象徴としていたが、自身の強大な存在によってジョーカーという怪物を降臨させてしまった。
ここにまた新たな矛盾が生まれる。
さらに、ジョーカーはバットマンが正体を表さない限り毎日1人ずつ市民を殺すと宣言する。それでも正体を明かさないバットマンに対して市民たちは「バットマンのせいで…」と不満を募らせる。彼らにとってはアンチヒーローと成り果ててしまったバットマン。
ジョーカーという悪が存在するからこそ今は必要とされているものの、もしもいなくなれば不必要なのである。
そんなバットマンに対して正体を隠すことなく真正面から悪に立ち向かうハービーデントが現れる。
彼こそが光の騎士であり、その存在によってブルースはバットマンの引退を考慮したのだが、そこにジョーカーの魔の手が差しかかる。ニューヒーローとなったハービーデントを悪に染めてしまうのだ。
ようやく誕生した絶対的正義の存在が悪に堕ちてしまったこと。そのことが万が一市民に知れ渡った場合、市民はたちまち絶望し混沌に陥ってしまうだろう。
したがって、バットマンは自らハービーデントの濡れ衣を被り、彼の死後、彼を新たな正義の象徴とした。
市民の希望を絶やさぬように。
「真実だけでは満足しない、幻想も満たさねば」
幻想を魅せることによって偽りの平和をもたらした。
市民の善意を信じ、願って。
そうしてバットマンは暗黒の騎士(dark knight)としての道を選んだのだ。
豪華キャストによる魅了させられる劇。
そしてその土台となる脚本。
CGでなくアナログにこだわることで生まれる臨場感。
どれをとっても本当に傑作。