「ヨブ記でなくてもいいじゃない」ツリー・オブ・ライフ harunoyonosukeさんの映画レビュー(感想・評価)
ヨブ記でなくてもいいじゃない
いい子でいたいのに、いつまでもいい子でいられない。この映画の主人公も、旧約聖書のヨブも同じである。いや、いい子でいようとしても、とかく「父」は自分のあらを探して、すぐに罰をあたえるのだ。
自分が自分のままでいると、罰せられる。「父」の言いつけを守っていてもやっぱり罰せられる。なぜなんだ!という問いがこの映画のテーマになっている。
この問いは思春期の少年の問いである。「非行」とは、少年の無意識の行動が悪として断ぜられることだ。ご近所の窓ガラスを礫で割るのは少年たちの狂騒の結果だし、お隣の女性の下着を盗む行為は悪ではなく恥辱として認識される。それは本人にとっては、生きる必然のさなかにある行いである。もし悪いことだと自覚してやったら、その作為はもう「非行」ではなく犯罪だからだ。だが、同時にその行いは、少年のイノセンスとは無関係に、大人のまなざしや世の掟から、悪とも見なされうる。
少年の無言の問いは、「僕のどこが悪い?」にある。
それはヨブが神に向かって発した問いと同じだ。
映画の冒頭に引用された旧約聖書ヨブ記の言葉は、そのときの神の答えである。
「わたしが大地を据えたとき、おまえがどこにいたか答えてみよ。」
おまえは善悪を判断する主体であると思いこんでいるかもしれないが、わたしが天地を創造したときには影も形もなかったんだぞ、という意味だ。宇宙や自然の大きな秩序の一部に過ぎない人間が、自ら「いい子」かどうか、罪をおかしたかどうか、罰せられるべきかどうか、判断するなんてことはできないという意味だ。
「いい子」だからほめられたり、「わるい子」だから罰せらるわけではない。それはほめられるために「いい子」を演じたり、罰をおそれて「わるい子」を忌避したりする作為を戒める言葉でもある。純粋に神への信仰とは「いい子」を演じて、何かを得ようとする作為から解放された無償性にあるのだと言う意味である。
映画はこのヨブ記を下敷きに構想されている。この信仰の無償性を説いた旧約聖書の一章を計算に入れておかないと、理解不能の映画になるかもしれない。
で、感想をいえば、つまらない。主人公の回想シーンに登場する少年は存在感があってとてもいい。見事なキャスティングだと思う。思春期の少年がぐれる話だと思えばなかなかよくできている。しかし、大方の感想にあるように宇宙創生から現代に至る長丁場の映像は無駄に長い。キャメラワークも同じ。台詞の少ない映画なのに、映像の「おしゃべり」がうるさいのだ。
なぜこんな映像が必要だったのか?宇宙創生以来はじめて、自らに善とはなにかを問う人間という存在が現れる。宇宙の大きさに比べて塵芥ほどの存在が、不遜にも神の秩序を問い詰めるのである。その人間たち、つまりこの映画の家族たちが地球上にドラマを演じるまでの天文学的なひろがりと時間とを映像化した意図はわかる。わかるけれど、気持ちはちっともついていかない。
同様に、成長した主人公が天上的な幻想の中に踏み込んでいくシーンがラストに出てくるが、気持ちは高ぶらない。この映画のクライマックスなのに、よくできたカレンダーのグラフィックを見せられているようで、視覚的な美しさを除外すれば、ほとんど空っぽの映像である。そこはおそらく、死後の世界であり、天上的な場所であり、家族が和解していく場所でもあり、その和解を静かに受け入れようとする主人公の心象でもある。だがこの静けさはうわべのものだ。映像を作り出した技術者たちがその粋をこらして、舌なめずりしながら、どんなもんだいと作為している悪趣味の映像である。
ヨブ記のテーマはたしかに普遍的なものだ。しかしその物語をトレースしたところで、人の気持ちは動かない。ヨブ記を知らなくても、ドストエフスキーのカラマゾフは読める。
ならばなぜ、この映画はヨブ記を知らないアジアの東の果ての人たちを感動させないのか。
理由は簡単だ。物語はトレースしてみたが、テーマの普遍性には届かなかったということだ。「ヨブ記を扱いました」といえば、それだけでヨーロッパやアメリカでは受ける。日本で「戦艦大和の最期」をテーマにすればどんな陳腐な映画でも興行収入にめどが立つのと同じである。
結論。この映画は西欧人しかわからない(?)ローカル映画である。