「現代の神話、ひとつの答え。」マン・オブ・スティール おとっつぁんアルファさんの映画レビュー(感想・評価)
現代の神話、ひとつの答え。
スーパーマンほど有名で、シンプルなアイコンもあるまい。胸に頭文字を付けるだけで彼の亜流たり得る。歴史が浅く、固有の神話を持たないかの国にとって、唯一無二の神話と言える。日本で言えば古事記の映画化のようなものか。いや、これは明らかに、桃太郎の実写化なのである。
桃が流れてきた川上には桃源郷がある。この映画はその桃源郷を、CGを駆使して描き出して見せる。もっともその設定の多くは、原作コミックで後付けされたものに則っている。日本では目新しく感じるが、アメリカでは周知の事で、いかにそれらしく見せるかに力を注ぐ。
おじいさんとお婆さんに拾われた桃太郎は村で評判の美丈夫になる。前半のハイライトである桃の拾得シーンをこの映画は一切描かない。これは周知の場面だからである。
代わりに、桃太郎では一行で済んでしまう主人公の成長を、この映画は丁寧に描く。それもよく知られた二重生活の姿でなく、超人として思い悩む一人物としてである。ここに現代的な新解釈がある 。おじいさんは仲間外れにならないためにその力を隠せと言う。そのためには犠牲を払っても構わないと言い残して、おじいさんは竜巻に呑まれてしまう。この辺りも映画のオリジナルで、ストーリーの根幹を占めている。
残された桃太郎に危機が訪れる。桃太郎と同じ力を持つ鬼の侵略。桃太郎は犬と猿とキジでなく桃源郷の父から授けられた装甲服をまとって退治に出る。
お供も仲間もいない桃太郎は肉弾戦を強いられる。相手も同じく超人であるから、描くには当然CGがいる。但しあくまで人物の格闘である。
ここで製作者は、一度通常人の格闘を振付け、それをCGで拡大するという手法を取る。アニメでよくある「早すぎて見えない」表現は使わない。物理的に、神とも言える能力を持った超人同士の死闘が描かれる。その前には、我々人間たちが作った建造物など、蟻の巣ほどの脆さに等しい。
長い闘いの末、桃太郎は鬼を降参させる事ができず、首を折って殺してしまう。ここにも現代的な解釈があり、最も賛否を呼ぶ所だろう。原作コミックでもスーパーマンはゾッドを殺してしまい、精神を病むという描写がある。
あの時はこうするしかなかったが、本当にこれで良かったのか?恐らく続編が作られる中で、何がしかの答えが現れてくるのだろう。現代の桃太郎は、鬼たちがいなくなってメデタシメデタシとはいかない。或いはこれはリブートの緒編であり、三部作が終わればメデタシになるのだろうか。
バットマンは伝説であり、スーパーマンは神話である。神話を現代的なリアリティで描く事は、伝説のそれより難しい。バットマンコミックの方が、スーパーマンコミックより圧倒的に多い事がそれを物語っている。
75年も描かれ続けた物語なのだから、いろいろ後付け設定がある。曰く、弱点はクリプトナイト。北極には孤独の要塞。そう言ったものを極力排除し、製作者は現代的な英雄神話の復活に専念してみせる。設定に囚われて、最後に子供ができるという逸脱を犯した、前作の反省もあるだろう。78年版を企画した時「現代の神話を作ろう」と言った作り手の精神が、この作品には息づいている。トリビュートやオマージュでは本質は継げないのである。
78年の公開の時、私はアニメ好きの中学生だった。今、50に手が届く年齢になってこの作品を見て、あの時と同じ感想を持った。あの頃の自分と同じ、私の子供と同年齢の人に、特に見て欲しい。きっとこう思うだろう。
“日本ではアニメしかやっていない事を、アメリカでは実写でやってる!”と。
追伸:より深く理解するために、スーパーマンコミックを二つあげておきたい。『スーパーマン:アースワン』と『スーパーマン:ラストエピソード』。『アースワン』は映画にかなり近い内容で、そっくりの場面も出てくる。『ラストエピソード』は映画の最後の“ゴキッ!うぉー!”の意味がよくわかります。
あ、それと、何処かの出版社で、“Man of Steel : Inside the Legendary World of Superman”邦訳してくれないかなあ…