「良い意味で原作を裏切ってくれたと思います」愛を読むひと 廣瀬さんの映画レビュー(感想・評価)
良い意味で原作を裏切ってくれたと思います
思いっきり期待を裏切られました。良い意味でね ♪
愛を読む人
見てきました。小説とははひと味違う趣きに甲乙つけがたく思います。
ネタバレを含むので要注意!
主軸が恋愛ではないという事は分かっていて見たはずですが、
映画では恋愛の比重がとても大切になってきていると感じました。
小説は 僕 の一人称で語られ、彼の目を窓にして読み手は世界を見ています。
その中で、
『彼が感じている事は違うんじゃないの』と思ったり
『なるほどな』と思ったり。
ですが映画では ハンナ の表現している部分がとても大きく感じました。
僕 の存在は 目 ではなく 独り言。
そこには小説では感じ得なかった
(これは今の段階で私が読み取れていなかったの意味です)
ハンナが彼に対して抱いている感情が有りました。
僕が恋をしているのではなく、
ハンナが恋をしています。
だからラスト、彼女がなぜその選択をしたのかにつながると思いました。
再び彼に会うまで、彼女の内には小さな花園が有って、
バラの蕾に蝶が踊っています。それは彼への恋心で、
文盲を返上し、彼に認めてもらい、対等になれる
それは彼女にとってこの上も無い喜びのはずでした。
ですが現実の世界は残酷で、
彼の中に有るのは過去の恋愛へ思いだけ。
目の前にした ハンナ への気持ちではない。
その事が彼女を死へと突き動かした、そう感じます。
特にテーブルの上に本を乗せ、それを素足で踏むシーン、泣けました。
彼女が受刑してまで克服したいと願ったその象徴たる本を踏む。
見ていて辛かったです。
小説と映画との大きな違いですが、
何よりも映画制作スタッフが
“ハンナを愛している”
部分だと思いました。
ですから彼女の持つ恋心をとても大切にしていますし、
如実に出ていたと感じたのは問題のラストでのセリフ!
小説では彼が放つ
『文盲はユダヤ人には相応しくない問題かもしれませんね』
を、ユダヤ人の生き残りの女性に言わせている点です。
『もっとも、文盲のユダヤ人がいるとは思えませんが』
この一言が、
この映画の質をがらりと変えてくれるキーワードになっていると思いました。
しかもその女優さん、レナ・オリン !
キャスティング、凄い!
これ以上無い存在感で見事に役を演じ切っていました。
映画というものはどうしても誰かの視点に頼りがちです。
正義の味方 VS 悪者。
見ている方はどうしても正義の味方を応援し、
自分が正義の味方になったつもりになります。
どちらが正しく、どちらが間違っているか。
その事はとても難しい事であるはずなのに、自分の都合のいい様に解釈するものです。
つまり、自分が属する世界を無条件で正しいと信じているのです。
(我々が目にする映画のほとんどはアメリカ資本の導入された、
アメリカ受けする映画であると忘れてはいけないと思います。
ですから、アメリカに取って都合が悪く、
アメリカの影響を受けている人々にとって感情を害する様な作品は
世の中に出てきにくいのです)
そんな歪みに、彼女の存在が
“均衡”
をもたらしていると感じました。
しかも悪い意味で。
ここは見る人によっておおいに意見の分かれる部分かと思います。
彼女はシェイクスピアのベニスの商人(第三幕 第一場)に出てくる
シャイロック 『それは何のためだ? それは俺達がユダヤ人だからさ』
→ 彼がユダヤ人である為に受けた数多くの社会的迫害を示す
の持つ意味と真逆の方向でこの言葉を発したと感じました。
そして同時に、
彼にあの残虐な一言を言わせなかった、それは
制作者がハンナを愛していて、彼女が愛した ミハエル に
“罪を犯させたくなかった”
そう感じました。
映画だから分かる事、それは視覚と聴覚の効果ですが、
その点も非常に効果的だったと思います。
文章の中では彼らの生活の違いをあまりはっきり感じません。
ですが映画の中で、
彼は裕福な(特権的な)家で高い教育を受け、
(なにしろ自分を出来が悪いと評価しているような少年が
弁護士になれる程の教育を受けれるんだから超エリート一家なのです)
反対にハンナは整っているけれど寂れたアパートに暮らし。
そしてユダヤ人の少女は大人になって、
ニューヨークのアッパークラスの豪邸で、
メイドのいる暮らしをしている。
(そうです。彼女が最後にここまでのし上がれたのは
彼女がユダヤ人だったからに他ならないと思います)
この三点を非常に効果的に、対照的に描かれていると感じました。
それはナチのした事を正当化しようと言う意味ではなく、
あくまで現実として描かれていると思います。
その背景(ユダヤ人の文化)が有って、この物語ができたと言う。
音楽も良かったです。
無駄にうるさくなくて。
その分、役者さん達の声や話し方、表情が
心に残りました。
またこの映画は裁判の部分をとても丁寧に描いていると思います。
私がこの前話題にした
『あなただったら、何をしましたか?』
このシーン、裁判官のうろたえた沈黙と、
彼女の言葉に鋭く反応したロール教授の表情を
しっかりスクリーンで見る事ができました。
そしてこの瞬間、私達映画を見る人間、評価する人間は
“ロール教授であれ”
そう問われている気がしました。
それは小説の中で表される
“知識だけでは問題を解決できない”
につながると思います。
面白かったですよ ♪
ラストで レナ・オリン 演じる生き残ったユダヤ人少女の生き残りが
口にするセリフが有ります。
それはハンナの事を彼が彼女の伝えるシーンですが、
『彼女(ハンナ)は文盲でした』
と言う彼に
『だからといってそれが(罪を犯した)理由になりますか?』
この一言!
それは確かに正しいのです。彼女の言う事こそが正しい。
文盲だからといって罪を犯した理由にも、言い訳にもならない。
でもねって。
この瞬間
『でもね』
そう思えるかどうか。
確かに
『でもね』
の後に続ける言葉は有りません。
彼と同じ、沈黙すると思います。でもね。
その不完全である部分が人間の人間たるゆえんだと思うし、
その不完全さを理解する事が、
“知識だけでは解決できない問題”
を解決できる糸口になるのではないか、そう考えさせられました。
ケイト・ウインスレット演じるハンナは
脆い内面を鉄の鎧で隠し、
『この映画はケイトの成熟を待っていて作られた』
の言葉に納得。
彼女がやって正解だったのではないかと思います。
デビッド・クロス君19歳は
思春期から青年期に移行する青臭い情熱を
余す事なく発揮していて、
次に何をやるのかとっても楽しみ!
レイフ・ファインズ様は言わずもがな。
人格形成期に複雑な体験をした影の部分を
それだけではなく奥行きのある人間に仕上げていると思います。
ブルーノ・ガンツ氏については知らないのですが、
ドイツ人が持つ理知的な部分と合理性、
加えてなぜその二つから展開する事ができるのか分からない
広がりを見せるリベラルな部分。
それぞれを上手く融合させ演じていたと思います。
レナ・オリンもこれ以上無い配役だと思います。
ユダヤ的思想の入門編として
ユダヤ人に学ぶ危機管理 (PHP新書 549)
こちら面白いのでお勧めです。
この時代・バックグラウンドを知る手がかりに
大変参考になりました。
レビュー、読ませて頂きました。重い映画でしたね・・
勉強は出来るがどこにでもいるごく普通のドイツ人の男の子と、字が読めなかった寄留の民ロマの女と、ホロコーストから生き延びた少女と。
ドイツを舞台にしたひとつの戦争の中で構造的に、自覚的に無自覚的に“巴型”に対立させられていた三つの立場が、戦後、自己精算の苦しみとどう向き合ったか ― 。
「庶民の戦争」を目をそらさずに見つめた優れた映画だと思いました。