君のためなら千回でものレビュー・感想・評価
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色々な気持ちが複雑に絡み合い、胸が締め付けられる
観ていて所々に色々な想いが次々と出てきて、そのたびに自分の無知と言うか、見識の狭さになんとも言えない気持ちになった。
話はアフガニスタンから始まり、ソ連が進行して、、、と日本人がもしかすると一番苦手な地域のお話かもしれない。少なくとも自分は中東(これも一つでくくってしまっていのかもわからない)の国々の区別が非常につきにくいし、宗教観等も含めるとまったくわからない。
それだけに主人公アミールと召使いハッサンの関係もイマイチピンとこない。
今回はネタバレも含めて記載するが、凧揚げ大会の当日、ハッサンがレイプされアミールが目撃するが動けなくなり、またその事で拒絶してしまう展開は個人的には非常に理解できる。(拒絶は共感できなかったが、、、)
小さな頃に固まってしまうほどの衝撃を目の当たりにした際には体が思うように動かずにその場から逃げてしまうことが少なからずあると思う、しかもレイプを目の当たりにしたのならなおさらではないのか?自分にアミールを攻めることは出来ないと思う。(観ながらは「助けたれよww」と思っていたが、、、)
時代としても非常に苦しい時代なのだろうが、富裕層である父が召使いのハッサンやその父も大切に扱っているのは単純な主従関係ではない事を示していたし(その割には別れるシーンがあっさりすぎw)その父の威厳のある生き方がとてもステキで素晴らしい。(まあある理由があったけど、、、)
またタリバンの内容も少し描かれており、現地で生きていく過酷さや人間の尊厳そのものが踏みにじられている様子は観ていて不快であったし、言葉に表せられない。
いったいなんの権利があってその様な蛮行が許容されているのか?なぜ生まれた地域があの地であるだけで色々な物音に怯えて暮らさなければ行けないのか?
やはりこのような事を見聞きする度に遠い地の事に思いを馳せるが、結局は映画のレビューに書いて終わりで行動に移さないのは弱い人間なのだろう。
孤児院の管理者の言葉が重すぎて、頭から離れない。
映画としてはフィクションであるが、起こっている事は現実そのものであることにまた胸が苦しい。そして孤児院の管理者が放った様に選ばれた子供だけが、自由で恐怖とは遠く離れた地で凧揚げに興じることができるのを観て、また再び悔しくて、悲しくなった。
また「きみのためなら千回でも」と血縁関係を知らされずに亡くなったハッサンの気持ちを思うと、それはそれで苦しくなる。
それでもアミールとソーラブは美しく、輝いた人生を送っていくと信じてせめてこの子だけでも幸せになってくれたらと思ってエンドロールへと進む。
非常に重く、そしてまた中東に対しての個人的なイメージが強くなってしまう気がした。もちろん父の様な優しい人間が大半ではあるだろうが、強い衝撃を受けた。
勇気が心と人生を自由にして、罪を退ける
しみじみとこの作品に出会えた事の喜びを噛み締めています!
2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件以降は、特に中東諸国や、イスラム教圏の人々に対しては、危ない国々!危険人物と言う様なマスコミによるプロパガンダが盛んに行われた結果、欧米社会の価値基準に影響を受け易い国々に暮す私たちにとっては、中東には恐い人々が多数住んでいて野蛮人と言うイメージを抱き易くなってしまった。
しかし、冷静に考えてみれば、何処か特別の宗教を信仰する民族だけが、野蛮人であるとか、世界の何処かに暮す特定の民族だけが、危険な人々と言う事は有り得ない偏った考えで、自然とその思考回路が植え付けられたと言う事に思い当る。
普段、私達日本人は、数々の欧米文化の影響を受けて暮し、それらの国々の価値観の影響を多数受けている事から、それ以外の価値観を持った文化に対して時々間違った認識を持ってしまう事がある。そしてテロを行う人々と、そこの国に暮す一般人とは違うのだ。
そんな時に、本作の様な映画と出会う事で、私達日本人が日頃あまり情報を見聞きする経験が少ない国々の文化や、習慣・そして哲学や人々の考え方を学ぶ機会が与えられると言う事は幸せな事だと思う。そして本作の様な映画を観る事の自由が与えられている日本に暮らしている事にも感謝の思いが生れるのだ。独裁国家などでは、日本では想像出来ない情報のコントロールが行われているので、個人の自由な選択権は著しく制限されてしまう筈だものね。
そして、この作品では、改めてアフガニスタンに暮す人々の70年代頃の生活感と2000年になってからの政治的変化や、人々の暮らしの変化を知る事が出来るのは有り難い事だ。
こうして私達は直接、その国々を訪れるチャンスが自分の人生に無かったとしても、今までよりも、より他民族の異文化に対して否定的な目を向けるのでは無く、同じ人としてお互いの違いを認め合い、理解を深める事が出来る様になるきっかけを、この様な映画に出会う事で、得る事が出来るのも、映画と言う素晴らしい文化を築いて来た一つの遺産だ。
この映画が描いている、総ての罪は盗みであり、その総ての罪は盗みの変形であると言う考え方には恐れ入った。確かに、納得出来る考え方である。しかし、私はこの作品を観ている間ずっと考えていた事は、それでは人は何故盗みを働くのだろうか?と言う疑問だった。何故盗みを働かなくてはならないのか?
それは主人公のアミールが子供の頃気弱な少年で、中々勇気が持てなかった繊細な少年として描かれているが、そんな人間の弱い心が、時々自己にとって不利な条件に遭遇すると嘘と言う盗みを働き、そしてその後は、相手より自分が優位な立場を得る為にあらゆる盗みの変形した罪を犯して行ってしまうのが人の大罪だろうと言う想像を巡らせていた。
その後、苦難の末にアメリカへ亡命したアミールと父は、異国の地で苦労して、アミールも立派な逞しい大人に成長し、ハッサンの遺児を迎えに行く事になる。この旅が幼少のアミールがハッサンに濡れ衣を着せてしまった事への償いの行為なのか、それともハッサンとは兄弟だったと言う真実を知ったが故に家族を引き寄せる為の決死の行動なのか、或いは、その両方なのか定かではないが、あの決死の救出後の、アメリカへ子供を迎え入れた後の、妻と養子となったハッサンの遺児とアミールが3人で遊ぶ、あのラストの凧揚げを観ると、涙が止めどなく溢れた。
私は、凧揚げと言う遊びの文化は、中国から伝わって来たものと思っていたけれど、中国もその昔、きっとシルクロードを辿って、中東の何処かの国の文化から受け継いで来たのかも知れない。そう考えると、あまり最近では、正月でも凧揚げをする子供の姿を見る事が少なくなった日本だが、この凧揚げ一つにも多様な文化と歴史がある事を知ると、これからの正月の凧揚げを見る目が変化して、益々楽しくなる事だろう。映画は本当に異文化を知る上でも素晴らしい役割を担っていると思いませんか?
だから映画を観る楽しみは何処までも広がって行くんだね。是非みなさんも、沢山の良い映画との出会いを得て、心豊かな日々を送られます様に願っています。
ストーリーを紐解くと、結構ベタだったりする
鑑賞後、席を立ったとき、
うしろの老夫婦が「イイ映画だったねぇ」と
話されていたのが、耳に残りました・・・・・。
劇場は40代以上と思しき、
男女で7割の入りでした。同じ映画館なのですが
『リアル鬼ごっこ』の客層とは180度異なっておりました(苦笑)。
作品、私も老夫婦の感想に同感です。
実に、イイ作品でした。
クライマックス、最終シーンが
全てでしょうね。監督、絶対ラスト決めてから
逆算してますよ。そうとしか考えられない
ストーリーとタイトル、でした。
ラスト、本当読めちゃうんです。
それも、主人公が話すであろうセリフ、シチュエーションまで。
私、先読みして大泣き。
そして、主人公そのまんまのセリフを言って、大泣き
(これまでは、引いてたんですけど、泣いちゃいました)。
振り返り見つめ直すと、かなりベタな作品ですが、
それぞれの国の歴史背景や、文化について、
キッチリと触れられております。
映画の楽しさ、面白さは、
色々な町、色々な国、色々な時代を体感できること、
なのだと私は思っていますが、そういった観点からも、
グッドな作品ではないでしょうか。
アフガニスタンの戦争で、
若干マイナーな感は否めませんが、
是非、ご覧くださいませ。きっと、
気付かされることがあるはずですよ♪
世の中に罪は1つ、「盗み」だ。
映画「君のためなら千回でも」(マーク・フォースター監督)から。
まずは「邦題」を付けてくれた方に感謝したい。
原題「The Kite Runner」では、たぶん観なかったかも。(汗)
さて気になる一言は、父親から主人公の息子へ、教訓。
世の中に罪は1つ、「盗み」だ。他の罪は「盗み」の変形だ。
男を殺すことは、男の命を盗むこと。
男の妻から、夫を盗み、子どもたちから、父親を盗むことでもある。
人を騙すことは、その人から真実を盗むこと。
盗みは、何よりも卑劣だ・・と諭した一部分から、引き抜いてみた。
なるほど、今、私たちの周りで起きている犯罪の全ては、
「盗む」ことの変形かもしれない・・と納得できたから。
特に、この物語全体を包んでいる「無条件の愛情・友情」を、
「時計を盗んだ」という嘘で裏切るのは、悲しかった。
しかし、物語冒頭で主人公が耳にした「君のためなら千回でも」
というフレーズを、物語の最後に、今度は主人公自身が口にする。
その間に展開される、彼なりの罪の償い方が、彼にそう言わせたのだろう。
「君のためなら千回でも」・・この台詞、
あなたなら「言われてみたい?、言ってみたい?」
アメリカ映画は、変わってきた。
ドキュメント畑の監督らしくアフガニスタンの言葉で映画にしてます。かつてハリウッド映画でアメリカ以外の国々を描くとみんな英語をしゃべらさせられる。この不自然さにアメリカ人自身もようやく気が付き始めた。世界が狭くなった証拠でしょう。70年代のアフガニスタンを再現してます。主人公にとって、いい時代だったと思いながらも貧富の差と差別は、ひどそうだ。そしてソ連侵攻、タリバン政権下と翻弄されるアフガニスタン。甥を救い出すためにカブールへ。このあたりの音楽が安っぽい、話の叩き込みが足らない感じがして残念。多くのアフガニスタン人がタリバンに殺され、アメリカ人に殺されている中、子供一人助けた事で贖罪にならないとも思うが、この映画が世に出た意味は、深いと感じました。
いえ、一回でもいいから。
名画座にて。
…こんな台詞、いちど言われてみたいもの^^;
非常に効果的に使われているこの題名の台詞ですが、
作品中でこれが言われるのは、たったの二回。
しかも、違う人間が立場を変えて言うのが印象的です。
これは…どういう意味なんだろう。
ずっとそう思っていたけれど、ほぼ冒頭で見えてきます。
主人公二人の関係。
一人はお坊ちゃま。もう一人はその家の使用人の息子。
兄弟のように育った二人は、父親の公平な計らいにより、
まだ平和だったアフガニスタンで、凧揚げに興じています。
この凧揚げ競技の映像は素晴らしかった!
こんな風に相手を攻めて、糸を切るのを(昔あったかなぁ)
初めて観ました。スゴイ技だなぁ~と感心。
自分の小さい頃も凧揚げはお正月の定番だったし、
上手に揚げられる子はいましたね。凧にもよるんだけど^^;
自分が落とした相手の凧を、パートナーが拾いに行く時、
まずこの台詞を言うのだけれど、これを拾うのにも抜群の
勘が必要らしい。影を追うのではなく自然に分かるのだと。
そんなプロ?めいた二人の凧は見事に優勝。
幸せムードだった二人の間に、街の不良グループが嫉妬、
とある事件が起こって、二人の間に溝が出来てしまいます。
…そして現在。
アメリカに亡命し、小説家として成功、結婚も終えて
幸せな男に、親友の危機を伝える電話がかかってきます。
過去にソ連、現在はタリバンと、平和だったあの世界が、
まったく様相を変えてしまった現在、彼がとった行動とは。
長い長い物語(内容的に)で、主人公の半生が描かれていき、
二人(そして父親)が辿ってきた運命の過酷さが語られます。
この父親が本当に素晴らしい人格者で、息子のために働き、
母親のいない分をすべて埋めてきた存在感がありました。
彼がなぜ、使用人であった少年を息子のように扱ったのか、
そのあたりの真実もラストで丁寧に描かれていきます。
…政治的な描写は、かなりリアルで怖かった。
でもなにより、この主人公が過去にとってしまった行動への
懺悔に他ならない物語でもあります。
子供の頃、もしあんなことが目前で起こったら傷つくだろうし、
理解できない行動をとるかもしれない(父親は分かっていた)
…それがまだ、どこかで取り戻せるのなら。
自分に出来るすべてを相手の為に捧げようとする行為は、
過去に使用人だった彼が、自分の為にしてくれたことと同じ。
いつかしら人間は、巡り巡って誰かのために、尽くしとおす
時がやってくるのかもしれない。それでいいのだと思います。
悲しみと希望を胸に刻みつけるような作品でした。
(懸命に書いてくれた手紙って嬉しいよねぇ。私も嬉しい☆)
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