劇場公開日 2024年1月26日

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「物語が映像に従属する世界」ブレイキング・ニュース 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5物語が映像に従属する世界

2025年1月30日
PCから投稿

ジョニー・トーの世界ではマクロな整合性があまり大きな意味を持たない。それよりも、緊張が持続すること、矢継ぎ早に出来事が展開していくこと、要するにミクロな「流れ」が重要だ。

銃を構えた二つの集団が相見えるとき、カメラは瞬きを忘れる。登場人物たちが織り成す無数の動線を追いかけ、遠ざかり、また追いかける。

そこに駆動しているのは、長回しがしたい、という作家的欲望ではない。こんな面白い出来事を前に瞬きなどしている暇はない、というバカバカしいほど単純で前のめりな熱中だ。それゆえ、7分にも及ぶ冒頭のショットは非常に技巧的でありながらシネフィル的な衒学とは一線を画している。

あるいは画面がいきおい2つにスプリットされる。片方には犯人の投げ捨てた手榴弾が、もう片方には簀巻きの人質から零れ落ちた手榴弾が映し出される。

画面分割というとソフィア・コッポラ『ヴァージン・スーサイズ』やギャスパー・ノエ『ルクス・エテルナ』といった賢しらなシネアストの賢しらな作品ばかりが想起されるが、本作の画面分割には単に「情報を同時に提示できる」という機能性に根ざした目論見しかない。

そして犯人の投げ捨てた手榴弾は思い切り爆発する。一方で人質の手榴弾は不発。なぜ?と問う間もなくカットは切り替わり、事態は二転三転していく。整合性のためにいちいち立ち止まるような思慮深さ、あるいは言い訳がましさとジョニー・トーは全く無縁だ。映像が物語に従属するのではない。物語が映像に従属するのだ。

常識的に考えたら意味不明な行動や展開の数々をむしろ万雷の拍手で歓迎しているとき、私の脳裏に浮かんでいたのはブルース・リーの遺作『死亡遊戯』だった。

使えるものは何でも使う。観ていて視覚的に面白いかどうかだけを判断基準に据える。こうしたジョニー・トーの製作態度はブルース・リーやジャッキー・チェンの頃より連綿と続く70年代香港映画の精神性をしっかりと受け継いでいるといえる。

写真がハラハラと舞い落ちる終盤のシーンは後の『エグザイル/絆』にも踏襲される。こういうベタベタな演出を臆面もなく連発できるあたりがジョニー・トーの恐ろしいところだ。凝り固まったシネフィル的「映画史」を脱臼させることができる者がいるとすれば、それは彼をおいて他にいない。

因果