「永遠が欲しく無い欲張りなんていない」スウィート・ノベンバー Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
永遠が欲しく無い欲張りなんていない
キリスト教に反撥してしまった現在世界(2001年)の映画のために婚前交渉に疑問が無いところは、他の映画と同様であって、良くは無いのだが、『スウィートノベンバー』は不治の病に陥った女性が少ない残り時間を自由に素敵に過ごすからと、一か月ごとの契約恋愛を繰り返しているところで、仕事中毒の男性と出会う。男性は仕事に失敗し、放っておいた恋人にも別れを告げられ、1ヵ月恋愛の契約を交わした。しかし、付き合う中で、男は女を愛してしまった。結婚しようと言った。だが女は断った。女が不治の病で無かったら結婚を承諾しただろうか。しかし、それ以前に男との遭遇の時点で無かった。いくら期日を決めた恋愛と言っても、愛し合ってしまうと期日が関係無くなる。そこから永遠となる。偽善的に肉欲で遊んでいたい人達があふれ出した現代において、そんな本質を垣間見せるところが嫌な映画だと反感されるのだろう。男も女も奔放な性を繰り返しているような劣ったあり方だったが、それを超えてしまうのが本当の出会いだった。それに気づくまでに汚れてしまっていたのだが。誰もが周囲にそんな感じの世間だったから。それは神様や天への恐れがわからなくなってしまった過程として、万能感の個人主義が作用していた。そこで本当に愛する人と出会ってわからなくなってしまった。わからなくなった後には、男は仕事よりも大事な事を感じ出し、ライバル会社の男とさえ友人となっていた。女のはかなさを知っても関係を変えたくなかった。(ただ、本当は男だろうが誰だろうがいつ死ぬかはわからない)女は、1ヵ月の契約恋愛なんて言っても永遠に愛したくなってしまった。そして、女の望み通りに、それは望んだ通りでは無く、どちらでもあったのだが、女は男の目前から去って行く。別れたくないのに別れる者たちと、別れたくなって別れる者たちには雲泥の差がある。差と言うよりも異質でさえあろうし、質と言って良いのかさえ感じられるところだろう。本当は思い出なんかになりたくは無かっただろうに。そして思い出す事さえない人は本当に愛したのだろうか。恋愛という過程は愛よりも余計に漢字を使いながら、愛よりも不完全な構想に過ぎないのか。