「鑑賞回を重ねる毎に、監督の意図した最終形態に迫っていくかのよう」ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ アンディ・ロビンソンさんの映画レビュー(感想・評価)
鑑賞回を重ねる毎に、監督の意図した最終形態に迫っていくかのよう
この作品には、レオーネ氏の言によりイタリア本国での「4時間半のテレビ版がある」という、その存在が示されていた。
現時点でBDにより鑑賞可能な、2回の劇場公開を経て復元修復された追加箇所の素材というのは、上記の経緯を辿った物である可能性が考えられ、従って素材の状態自体が元々、はじめから劇場公開フィルム版と同等のレベルを有していなかったのではないかとも推察される。
そのような事実をアタマの隅に入れて観てみると、劇場公開(元の完成)版に対し、どの部分がテレビ版に追加復元されたのかが判別が付くというのも、マイナスの要因とばかりも言えないかも知れない。
最も典型的で分かりやすい部分を上げると、エンドロールにその名を連ねながら、劇場公開されたどのバージョンにもその姿を確認する事が出来なかった出演者がいるという事である。
その一人が女優の“ルイーズ・フレッチャー”氏であり、その部分の映像にクオリティは、劇場公開済み本編の部分とは明らかに異なっている。
そのような紆余曲折を辿って、やっと我々の手元にたどりついてくれたレオーネ氏の遺作の“”究極版”が、そのクオリティ(画質)によって評価が左右させるような事などは無いだろう
初公開時には、「新宿プラザ劇場」の大画面で観賞した時とは、また違った感動がある。
またその後、そこから再公開鑑賞までの間には、サントラには未収録だったため、モリコーネ氏には異例に思えたThe Beatles の Yesterday が(インストゥルメンタル編曲版で)流れた記憶が「あれって、もしや記憶違い!?」と混乱状況に陥ってもしまった。
それを耳にした瞬間があれだけ衝撃的で、まさに「ガーンッ!」とした出来事だったにも関わらず?
むしろ、「えっ!、まさかっ!!」状態だったからこそ、ユメかウツツカ状態に陥って記憶の自信を持てなくなってしまったってとも言える。
(なぜかと言うと、その後の放映などで観た際にはそのようになっていなかったような.....?)
「完全版」を謳っての再公開時の鑑賞は日劇でだったと記憶する。
その時点で、記憶違いなんかじゃ無かった事を改めて確認して安堵したりと、この映画には色々な思いがある。
その後現在に至って、ただただ、興味深く、感慨深く、長い年月を経てやっと、その最終形態(作品の本来の姿)での「観賞できるその瞬間にたどりついた」という喜びに満たされる。
しかし今回、先日の「ドル3部作」の鑑賞を経て、この作品についても久しぶりに劇場での鑑賞で味わいたいものだという思いがつくづく、また湧き上がってくるのであった。