「「スペア」という宿命から見る王位継承の寓話」ライオン・キング(1994) しろふくさんさんの映画レビュー(感想・評価)
「スペア」という宿命から見る王位継承の寓話
『ライオン・キング』はアフリカを舞台にしているものの、その本質は王位継承というヨーロッパ的テーマに根ざしている。様々な王政が乱立し、血統と正統性をめぐる葛藤が繰り返された中世ヨーロッパの歴史を思わせる構造が、この物語には色濃く投影されている。
なぜスカーはあれほどひねくれていたのか。
その答えは、王室における「スペア(予備)」という宿命にある。
ここで、イギリス王室のハリー王子による回顧録『スペア』を取り上げたい。この書籍は、王位継承構造を考える上で示唆的である。全410ページにわたり、王室内の対立、個人的な葛藤、成長、そして王室との断絶が描かれている。ハリー王子は兄ウィリアムの誕生後、父チャールズ皇太子(当時)から「スペアを得た」と述べられたと記し、「ウィリーに万一のことがあったときのために、自分はこの世に生を受けた」と語る。
「後継ぎと予備」という概念は、長らく貴族社会で受け継がれてきた。長子が継承者として君臨する一方で、次子はその“もしも”のために存在する。しかし、「スペア」としての人生は明確な役割を持たず、しばしば社会の周縁に追いやられる。だからこそハリー王子は、この語を自著のタイトルに据えたのだろう。
この「スペア」という存在は、常に自らの役割を探し続ける宿命にある。
なぜスペアは王を継げないのか?歴史を振り返えると、兄の死後に弟が帝位を継いだ場合、王位の正統性をめぐる混乱が生じてきた。
たとえば中国の宋では、建国者・趙匡胤の死後、弟の趙匡義(太宗)が帝位を継ぎ、以後その系統が主流となった。この継承は当時から「千載不決の議」と呼ばれるほど不可解なものとされた。
またモンゴル帝国の分家・イルハン朝でも、第2代アバカの死後、長男アルグン派と弟テクデル派が対立し、内戦の末にアルグンが第4代ハンとなった。
このように、君主の弟が王位を継ぐ構図は、しばしば内乱と滅亡の火種となる。ゆえに、王位継承のルールを明確に確立した国では、たとえ君主の子が幼くても、その子が王位を継ぐことが原則とされた。
この観点から見れば、スカーはまさに「スペア」であり、シンバの誕生によって存在意義を完全に失った存在である。だからこそ、彼がシンバの命名式に姿を見せなかった理由も明快だ。スカーはすでに、自らの「役割を奪われた者」だったのだ。
もう一つ注目すべきは、スカーが結託するハイエナたちの描写である。
彼らは一見、物語上の単なる悪役に見えるが、その存在はヨーロッパの戦争史を想起させる象徴的な要素として読むことができる。統制は取れているが礼節を欠き、目的のために無秩序な暴力を振るう彼らの姿は、中世ヨーロッパにおける傭兵集団――スイスの長槍歩兵やランツクネヒト――を思わせる。これらの傭兵は騎士道や名誉といった理念から離れ、冷徹な戦術と集団戦で敵を殲滅した。彼らの戦いはしばしば「邪悪な戦争(マラ・グエラ)」と呼ばれ、秩序なき権力争いの象徴でもあった。
スカーがこうした“非正統な戦力”と手を組む構図は、ヨーロッパ史において、王位継承の正統性を失った者が傭兵を用いて王権を奪取しようとした事例――たとえば薔薇戦争期の貴族たちの動き――と響き合う。つまり、スカーとハイエナたちの関係性もまた、ヨーロッパ的な歴史構造を意識的にオマージュした演出として読むことができるのだ。この解釈はスカー王政において王国が荒れ果てた描写と整合する。
(※余談だが、悪役が主にドイツ歩兵からなるランツクネヒトを想起させる点は、アメリカ映画における「敵の造形」の一貫した戦略とも通じる。『スター・ウォーズ』の帝国軍がナチス・ドイツを想起させるのと同様に、『ライオン・キング』でも西欧史的モチーフを通じて、悪の側に「秩序なき軍事的暴力」のイメージを重ねている。このように、ドイツ的要素を暗に悪役と結びつける視覚的・文化的連想は、観客にとって理解しやすい善悪構造を形成する上で、極めて意図的な演出といえる。)
このように、『ライオン・キング』をスカーに注目し、歴史的・社会的文脈から読み解くと、それは単なる動物寓話ではなく、「スペア」という宿命を背負った者の悲劇であり、王位継承という普遍的テーマをヨーロッパ的歴史観の中に投影した寓話として浮かび上がる。
おそらく続編(2)においても上記の文脈の中で説明ができるだろう。
