夜の人々(1949)のレビュー・感想・評価
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幼く未成熟な男女が織り成す、あまりにうぶでナイーブな恋愛と逃避行を描くフィルム・ノワール。
家人のコロナ罹患による濃厚接触者としての自粛期間が空けて一週間。
ようやく仕事の合間に、ひさびさに映画に行くことができました。
本日は、シネマヴェーラで「ウィスコンシン・スクール」二本立て。
一本目はニコラス・レイによるデビュー作、『夜の人々』。
トリュフォーら、ヌーヴェル・ヴァーグの監督・批評家たちも激賞した、フィルム・ノワールとしてすこぶる評判の高い作品であることは重々知っていたが、個人的には、そもそも原作にあたるエドワード・アンダースンの『Thieves Like Us』自体に興味があった。
アンダースンは『Hungry Man』(1933)と『Thieves Like Us』(1937)の戦前期の若書き二作のみで知られる作家で、前者は放浪生活を送るミュージシャンの物語(若き日の著者を題材としている)、後者は若いカップルの逃避行を描くノワール(刑務所に入っていた甥から訊いた話を題材とする)で、本作『夜の人々』(1948)と『ボウイ&キーチ』(ロバート・アルトマン、1974、原題はThieves Like Us)で二度映画化されている。
デイヴィッド・グーディスやジム・トンプスンのような、個の歪みと狂気の気配が濃厚な戦後期のノワール作家と異なり、戦前期のノワールは、大恐慌期のアメリカで生きる人々の苦しみと哀しみが、比較的ストレートに描かれているといわれる。
社会との軋轢と貧困の中でもがき苦しむ層の、やむにやまれぬ生存戦略としての犯罪が描かれ、そのなかで、決して根っからの「悪」とはいえない人間の転落と破滅が、一定の共感をもって描かれる。
戦前期のノワールに通底しているのは、そういったスタンスだ。
『Thieves Like Us』はまさにその典型として知られる画期作でありながら、いまだ日本で翻訳のない一書なのだ。
この小説が確立した『カップルの逃避行』というノワールの定型が、ニコラス・レイによってフィルム・ノワールに持ち込まれ、その成果作としての『夜の人々』が、アメリカン・ニューシネマの傑作『俺たちに明日はない』(1967)や、ロバート・アルトマンのリメイク、さらには『地獄の逃避行』(1973)や『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994)あたりの祖型になったことを考えれば、本書の歴史的価値はきわめつきに高いと言わざるを得ない。今からでも、どこかの版元で邦訳を出してはくれないものだろうか。
『夜の人々』のなかにも、本書のタイトルにあたる“Thieves like us”、もしくは“Thieves like me”という言い回しは、何度も登場する。
とくに印象的なのは、開幕早々、脱獄囚仲間のティーダブがいう「銀行や警察なんて俺たちと同じ泥棒さ」というセリフ。それから、ラスト近く、二人が逃げ込んだモーテルでボウイがマディに言う「あんただって俺たちと同じ泥棒だろ?」の一言。あと、インチキ結婚式場の男も、自分のことを「私のやっていることも泥棒と一緒だ」と述べる。
要するに、富裕層・権力サイドに対するむき出しの敵意と、同じ苦しみのなかでもがく層どうしの卑下するような感情を同時に表現している言い回しといえる。
第一印象としては、じつに瑞々しい映画だと思う。
とにかく主演のふたりの若さ、おぼこさ、無知さが、たまらなくいとしく、痛々しく、いたたまれない。
おそらく映画史上初めて行われたヘリコプターによるアクション空撮や、濃厚な闇とハイライトの勝った映像表現も、40年代作品とは思えないような画面の清新さにつながっている。
あえて、二度目の銀行強盗や、脱獄仲間の横死といった重要な転機をオフスクリーンのイベントにしてオミットする特異な構成も、ノワールでありながら一途な恋愛映画でもある本作のカラーを際立たせているといえる。
ただ、主人公ふたりが、掛け値なしに共感可能な人物かというと、そうともいえない。
映画のなかでたしか「無垢というよりバカ」といったフレーズがあったかと思うが、たんにイノセントで世知に疎いという以上に、ふたりにはなにか大切なものが欠落している気がする。
それはおそらくなら、彼らが育った劣悪な環境下で、はぐくまれることの妨げられた大切な何かだ。
ボウイは、16 歳で人を殺してから、何年も刑務所にぶちこまれていた脱走囚。本人は冤罪だと主張しているが、彼の口から人殺しの経緯が詳細に語られることは結局ない。物心ついたときから塀の中にいたので、年頃の女性と話すこと自体が生まれて初めてで、キーチとは最初、目も合わせられない。弁護士を雇うために大金が要るというが、そのために強盗をすることが「おかしい」と思っていないらしいし、いざ逃げる段になるとしきりに「メキシコに行こう」というが、ほぼ常にノープランである。要するに、まっとうな道徳観や人生設計がろくに育っていないうえ、おそらくならボーダーくらいの感じで知能がそもそも足りていない。いわゆる「ケーキの切れない」境界知能の青年なのだ。
いっぽう、キーチも重度のアル中の年老いた父親に育てられ、社会から隔絶された孤独のなかで、犯罪の片棒を担がされて生きてきた。目の前に現れたハンサムな青年とひと目で恋に落ちるものの、自分の内なる感情がなんなのかつかめず、持て余しているのは明らかだ。
彼女はしきりに、オウム返しの返事をする。そして、相手に「私どうしたらいい?」と訊く。命令されるとどこか安心しているようにも見える。彼女はおそらくなら、個としての自我がまだ確立していないのだ。
そんなふたりは、人から奪い、人を死なせて手に入れた大金をもとに、手に手を取って逃亡し、初々しい恋愛感情を急速に募らせ、ママゴトのような新生活を束の間過ごすことになる。
どこまでも純真でピュアなふたり。
でも言葉を返せば、ふたりはどちらも、驚くほど感情面で未成熟だ。
ほとんど、「子ども」と言ってもいい。
ふたつの孤独な魂が出逢い、一瞬で惹かれ合い、欲し合う。
それが、たしかに今ここで起きたことだ。
でも、それは本当に恋なのか? 愛情なのか?
驚くほどうぶで世間知らずの若者が、生まれて初めて同じ年ごろの相手と出逢って、わけもわからず舞い上がってお互いしか見えなくなる。底なしの孤独のなかで生きてきたふたりが、已むに已まれない衝動に駆られて求め合う。これは、そういう直情的で直観的な結びつきであって、必ずしも相手がボウイだから、キーチだから「選び合った」関係性ではない。なにせ、ボウイはキーチしか、キーチはボウイしか、同じような齢の人間を知らないのだから。
ボウイは「新しい人生」をいっしょに歩んでくれる、自分の欠落を埋めてくれる何かを切望していたし、キーチは窒息寸前の閉塞した生活から外へと連れ出してくれる誰かを求めていた。
だから、ふたりの心が強い絆で結びついているかというと、実は意外にあやふやで、曖昧なところがある。
ふたりの会話は、常に一方通行で、何度も断線し、結局尻切れトンボで終わる。
ふたりの視線は、カール・テオドール・ドライヤーの『ゲアトルーズ』のようにかみ合わない。
ふたりは、幼い心で夢に見ている「理想の恋愛」の「型」を必死でこなそうとしているように見える。
一緒に行こう。結婚するかい。田舎のコテッジでふたりきりで暮らすんだ。クリスマスだからプレゼントをあげなきゃ。ダブルのスーツを着てナイトクラブでデートしようぜ。ダンスは踊れないからきらい。メキシコで幸せになるんだ……。
ボウイは、キーチの妊娠についても、いったい何が起きているのか、今一つ実感がわかないらしいし、ボウイの冷淡で拒絶的なセリフをきいて憤るほどにキーチの心もまた成熟していない。
要するに、ふたりは見た目以上に、ただただ幼いのだ。
それでも。
未熟で、ナイーブで、浅はかなふたりの逃避行が、ただの恋愛「ごっこ」だったとしても。
ふたりは、切羽詰まったどん底の状況から何とか抜け出そうとあがき、
たったふたりの相方どうしで短い蜜月を走り抜けた。
懸命に、生きた。命を燃やし尽くした。
それはたしかだ。
映画としては、後半の展開にはしょうじき、ひっかかるところが多い。
コテッジから逃亡する最大の理由となった脱獄仲間が居なくなったあと、なんでコテッジに戻らずにメキシコに行かないといけないのかの理由がよくわからないし、終盤唐突にキーチの調子が悪くなって死ぬ死なないの話になるのは完全に映画製作サイドの都合である。しかも、キーチの実際の状態がよくわからないまま、ボウイはキーチをほったらかしにしてうろうろしているし、なんでマディに頼るのかも、なんで結婚屋に頼るのかも、わかるようでイマイチピンとこない。結婚屋のところに大金を置いてきているように一瞬見えるのも意味がわからないし、警察がキーチを確保しないで非常線を張ってるのもどうかと思う。これが最期みたいなことを言っていたキーチが普通に玄関に飛び出してくるのも、違和感があるし。
とはいえ、比較的あっさりした、――劇的な死を迎えることを許されなかったボウイの最期と、その亡骸にすがりつきながらひとりキーチがこの世に取り残される刹那的なラストは、やはり印象的だ。そこは、ファーリー・グレンジャーとキャシー・オドネルという二人の若い役者のフレッシュな魅力と、真に迫った演技の冴えがあってのことだろう。とくに、デビュー当時のミア・ファローやシシー・スペイセクを思わせる、どこか腺病質で嗜虐心をそそるオドネルのキョドった眼差しは、こちらの心の奥底を不思議な感じでゆさぶってくる。
総じて、恋愛要素を前面に押し出した初期ノワールの佳品という評価には大いに首肯するが、事前に想像していたのとは、少し印象の異なる映画だったかもしれない。
逆に言えば、主人公ふたりに必ずしも共感できないことそれ自体が、この作品を「ノワール」たらしめているってことなのだろうが。
彼らは、心の不具合、心の未発達も含めて、時代の被害者なのである。
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