「映画館で観れて感無量」未来世紀ブラジル SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
映画館で観れて感無量
大学生のときビデオで観て衝撃を受けた名作(怪作?)!
この映画を観て以来、ブラジルの音楽を聴くと、本来陽気な音楽なのに悪夢を連想するようになってしまった…。
まさかリバイバル上映で観れるとは!
この映画のラストがすごすぎて、それ以来、名作でもラストに驚きのない映画がものたりなく思えてしまうようになってしまった。
1985年の映画だが今観ても全く遜色なく面白い。ジェットコースターのようにドキドキハラハラでめまぐるしく展開し、悪夢のようなディストピアなのに皮肉たっぷりのジョークで笑わせる。
改めて観て脚本が練りに練られていることに驚く。散発的な出来事が有機的につながり、怒涛のラストに向かっていく。
CGを使わずによくぞここまでの映像が作れる…。いや。CGを使わないからこそ、カオティックなどろどろした生々しさが表現できるんだろう。
この映画のテーマは今でも普遍だ。情報化と管理主義と効率化と全体主義が人々の無知と欲望と無関心を増大させ、貧富の差を拡大し、人間としての本当に大切なものや、人間性をはぎとっていく恐ろしさ。
この物語では主人公が夢想するような明確な倒すべき「悪」などは存在しない。この社会では、人々はそれぞれの立場において自分の役割を果たそうとしているだけ。
しかしその役割を割り振っている「システム」は極めて不完全であり、たった一匹の虫(文字通りのバグ)によって容易に冤罪を生み出す。
意思のない「システム」に人々が翻弄され、悲劇が連鎖的に生み出されていく様は、シュールなリアリティがある。
ラストの主人公の妄想はこの映画のテーマを直接映像化したものだろう。
書類にまとわりつかれた人間が消え失せてしまうシーンは、各個人が社会というシステムの「部品」と成り果ててしまい、「自分」というものを消失させてしまう、ということを意味していると思う。
現代社会はまさにその通りの社会になっているように思う。人々は自分の生きる意味や目的を見出す前に、まず良き社会の部品であることを求められる。
主人公の母親が美容整形の極限にいたり、ついに肉体を捨ててしまうシーンでは、ステータスや外見といった「見える価値」「他人との比較で生じる価値」だけを優先させていった結果、最後には単なる「欲望」だけが残り、自分の本体は生ゴミと化してしまう、ということを意味していると思う。
この映画が作られた当時は、情報化社会や国家の管理体制が成熟していく過渡期にあり、この映画のような問題提起が盛んにされていた。
古くは「1984」や「モダンタイムス」でも同様の問題提起がされ続けていたわけだが、さて、現代は過去の人々が恐れていたようなディストピアを回避できたのだろうか?
Googleの行動規範が「邪悪になるな」であることや、ジョブズなどがコンピューターを人間にとって本当の意味で良いものでなくてはならないということにこだわっていたことは、これらの問題提起と無縁ではないだろう。
過去は美化し、未来は恐れるのが世の常だという気がするものの、ディストピアにならないように警戒するのは、コンピューターがもはやなくてはならない存在になってしまった今こそ必要な気がする。