未来世紀ブラジルのレビュー・感想・評価
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上階に住む美女を求めて飛ぶ
観始めて最初のころに二つの事を考えた。
1つは、夢を現実にした国で自分の夢を掴もうとする男の物語だろうと。
もう1つが、サムはイカロスで、おそらく彼が墜落して地面に激突し夢が終わるのだろうと。
しかし、ラスト20分くらいで、なんか違うかな?と思い始めた。というか、よくわからなくなってきた。そしてエンディング。一瞬、もう完全にわからなくなった。
けれど、一つ一つ紐解いていくと見えてくるものがある。
エンディングから受ける最初の疑問は、サムはいつから夢を見ているのかということ。
イカロスだと思っていたサムが墜落しなかったことも不思議に思っていたのだが、思い返してみると、サムはかなり最初の頃に、せり出してきた地面に激突しているのである。地面への激突は墜落と同じ。
これはつまり、相当最初からサムは夢を見ていたと考えられる。
サムが最初から夢を見ていた理由。それは、サムこそが誤認逮捕されたバトルだったからだと考えた。
ラストのサムの穏やかな表情に満足そうな施術者から想像するに、別人格を植え付け夢の世界に留まらせる事が、この管理社会の罰則なのだと思った。
全く管理できていない管理社会で、人々は自分で物事を判断することもできず、書類とサインで混乱しまくっている様は大いに笑えた。
本作の殆どがサムの見た夢であることを考えれば、自分を誤認逮捕したこの国の管理体制は、おそらくこんな感じでグダグダに違いないというサムの気持ちが反映されたもので、実際は、実際ってのもおかしいけど、もっとちゃんとしているんだろう。でないと、いくらこの映画の制作年を考慮したとしても、あまりにテクノロジーがアナログすぎるもの。
イカロスはテクノロジー批判の神話だそうで、それを考えても、管理社会とテクノロジーに対する皮肉満載のSFファンタジーコメディ作品だったかなと思う。
誰にでもオススメってわけではもちろんないけど、とても面白かった。
最後に、監督のテリー・ギリアムは有名な監督さんでファンも多い。
私は好きでも嫌いでもない監督だけど、この映画を観て、テリー・ギリアムが好きな人の気持ちが少しわかった気がする。それだけオンリーワン感のある作品だった。
今も色褪せないレトロフューチャーの魅力
初見は大学生の頃。
今はもうなくなってしまったが、松本市の縄手通りにあった中劇シネサロンで観た記憶がある。
若い人たちからすると信じられないと思うが、劇場内の至る所に灰皿があって、タバコを燻らせながら映画が見られた時代だった。
今回、Huluで久しぶりに観たが、自分の若き日に衝撃を受けただけあって、細かいところまで案外覚えていた。全編に漂うレトロフューチャーな雰囲気が大好きで、初見の時はそこに惹かれたのだが、令和の今、改めて見返してみても、全く色褪せない魅力を感じた。
この映画で描かれているのは、紛れもなくデストピアだが、社会のカリカチュアでもある。
途中で甲冑を身につけている巨大な武者が出てくるが、映画制作当時は「ジャパン アズ ナンバーワン」の頃で、日本に勢いがあったからチョイスされたのだろうと思う。今だったら、どこの国の、どんなものが選ばれるのだろうか。
ハチャメチャなディストピア
表題のブラジルは、この映画で流れる「ブラジル」という桃源郷のような世界を歌った曲と歌詞から来ているのだろう。皆、理想を求めて生きている未来が、果たしてどうなるかって問いの映画なのだろう。
1986年製作ということで、SFXなどが使えず、コンピューターも本格的に普及していない中での想像、創作は大変だったであろう。
この映画の中では、人間は終始、いい加減で適当、管理を統括する中央省庁による文書による指示や命令で管理されているかのよう。指示や命令は絶対的で、誤りを正すには膨大な時間を要する。そして、男は出世を求め、女は美と若さを求めているように描かれていた。
そんな無機質な世界で満足できる人ばかりであるはずもなく、主人公のサムは、夢に出現する理想の女性と結ばれることに運命を感じる。その夢の人物は、誤認逮捕されたバトルの上階に住んでいたジル。彼女のために、異動を願い出て、居場所を突き止め、抹殺命令が出ていることを知り、助けるために管理システム側の人たちとバトルをするって物語。情報剥奪省のヘッドは、多くの役人に囲まれ、情報に翻弄される様子は、現在を表しているかのよう。省庁は、階ごとに全く異なる様相であったが、この辺りは、この当時の予想の限界か。セットや建物が、グレーを基調とした独特の特徴を持っていて、チープな感じもドタバタにぴったりな感じだった。
後半、ジルを守るための逃走部分は、もうハチャメチャ。因果関係や心理的な経過がわかりづらく、混乱と行き当たりばったりが交錯し、収まったかと思いきや、捕らえられて洗脳装置にかけられてみた幻影だったオチ。耳障りのよい音楽、見た目を良くする整形女性、圧倒的な情報量とシステムなど、本当にそれが未来の理想郷に繋がるものなのかって問いが浮かんできた。自分たちが直面している問題でもある。マトリックスへと繋がるような映画だった。
カルト向け
中学のころ、わかってないくせにTVで放映中のモンティパイソンを「イケてる」と言って通ぶるのが流行ったことを思い出した作品です。
カルトな人だけが見るカルト映画なのでレビューの評価は高めですが、一般受けはしません。2001や時計じかけと同類。
管理社会の風刺、ってところだけはわかりますが、延々と繰り返されるワケわからないシーンの意味は全く不明。最後はどんでん返しらしいですが、そもそも初めから最後まで話が破綻しているので、何が「返された」のかもわかりません。
自分なりに解釈するのが好きな人向けです。
とは言いつつも、2001的な押しつけがましい哲学臭がなく、却ってドタバタギャグ的な演出をオバカ映画と捉えれば、独特な映像感覚も好ましいので「意外の4点」です。
テリー・ギリアムの特徴が分かった
初めて鑑賞して、テリー・ギリアム監督が先般作ったドン・キホーテ(主演:アダム・ドライバー)だなあという感想です。 逆に、こっちを先に観てドン・キホーテだったらとてもすんなりと入ってきたでしょう。
高度化された情報管理社会と間違いを起こさない(という前提の)責任所在が曖昧な行政機構に務める主人公が夢の世界と現実が徐々にシンクロしていく不思議な物語でした。 で、ラストを覚えてない・・・。
そんな程度な映画でした。お察し下さい。
【初鑑賞時には、何だか分からないが、物凄い熱量に圧倒された作品。テリー・ギリアムは寡作の監督であるが、歳を重ねて作品を鑑賞すると、凄い拘りを持った監督であることが良く分かるのである。】
■20世紀のどこかの国。
管理で、雁字搦めの情報局の小官吏・サム・ライリー(ジョナサン・プライス)の慰めは、ヒーローになった自分が天使のような娘と大空を飛ぶ夢想に耽ることだった。
ある日、善良な靴職人がテロリストと間違われて処刑される。
未亡人のアパートを訪れたサムは、そこで夢の中の娘と出会う。
◆感想
・初見時には、大学の友人で、映画館の息子及び友人達と、”レーザー・ディスク”で鑑賞したのであるが、物語の50%程度しか内容が分からず・・。
ー で、テリー・ギリアム=難解な映画監督という図式が、脳内に刻み込まれた。-
・唯一、覚えているのは、管理社会に背くがごとく、動くタトル(ロバート・デ・ニーロ)である。
が、彼は覆面をしているため”アレ、ロバート・デ・ニーロじゃないの?””いや、違うんじゃね?”等と言っていたモノである。
■久方ぶりに鑑賞して驚くのは、1985年の製作である、今作の近未来感の出来栄えの凄さである。
更に言えば、その後の情報統制社会を見越した作品構成である。
<今作から数十年後に「テリー・ギリアムのドンキ・ホーテ」を劇場で鑑賞し、貫禄タップリなジョナサン・プライスを見た際には、感慨深いモノがあった。
テリー・ギリアムは寡作の監督であるが、歳を重ねて作品を鑑賞すると、凄い拘りを持った監督であることが良く分かるのである。>
独特の世界観
雑誌の80年代映画特集で唯一観てなかったのでレンタルして観賞😆
開始から独特の世界観に引き込まれる。
情報が行き過ぎた社会の怖さを描いてるが、昔のSFあるあるで未来なのか過去なのか。
嫌いじゃないけど、つかみどころのないストーリーにずっと翻弄されてた2時間。
ラスト30分からがまた強烈、いやラスト以外もずっと強烈かな。
デニーロかっこよかった😉
近未来の社会において、手違いで別人が処刑されてしまう。 様々なこと...
近未来の社会において、手違いで別人が処刑されてしまう。
様々なことが自動化されている一方で、機械が故障してばかりだったり、妙に書類のやりとりが煩雑だったりというアナログな一面があるのは笑えた。
設定自体はおもしろかったが、後半はハチャメチャな展開で収拾がつかなくなった印象。
なんでブラジルなんだ
「1984」の世界観で、管理社会に翻弄される男のラブストーリー。
監督がテリー・ギリアムなので、ストーリーはよくわからないが、映像の素晴らしさは何回見ても感心させられる。
特に美術費がすごいSF
特に近未来的な建造物やセットでのロケが、見事な画を作っていると思った。
セットを作るのに当時の製作費2000万ドルの大半が投入されているそうで、思い切った価値はあったかも。そして、母親などの装いはロートレックの絵画の女達のようで、こだわりが感じられた。
ストーリーは現代の視点から描く小説「1984」。今日のような超情報管理社会が舞台。でもなぜかローテク気味の配管パイプの役割とロバート・デ・ニーロが出演を熱望したという配管工のヒーローが面白かった。
奇想天外とは、このこと!
午前十時の映画祭11にて。
昔々、私が学生の頃、新宿歌舞伎町の映画館でモンティ・パイソン3本立て(だったかな?)のオールナイト上映があった。
『バンデットQ』以降『未来世紀ブラジル』直前だったと記憶する。
当時、ちょっと映画通を気取った若造(=私)たちは、『バンデットQ』のテリー・ギリアムが、幼い頃の記憶に微かに残るモンティ・パイソンの奇っ怪なアニメーションのクリエーターだったと知って、モンティ・パイソンを伝説のムーブメントかのごとく崇めていた。
確か、次作『未来世紀ブラジル』の情報は海外から入ってきていて、若造たちの期待値が上昇していた時期だったと思う。
で、そこで観たモンティ・パイソンの内容は全く覚えていないのだが…😅
くだんの若造たちの熱狂をもって公開を迎えた『未来世紀ブラジル』たが、巷ではロバート・デ・ニーロが珍妙な役で出演していることが話題だった程度ではなかったか。
主題曲として用いられた「ブラジルの水彩画」から採用された映画のタイトル『Brazil』に特段の意味はないのだが、邦題を『未来世紀ブラジル』にしてしまったことで、意味があるかのように誤解されたフシがある。確か、「ブラジルとは南米の国のことではなく、理想郷という意味」みたいな説明があった気がする。「ブラジルの水彩画」は、ブラジルの美しさを歌い上げた(のだと思う)サンバのスタンダード曲で、日本人でも大抵聴いたことがある曲だ。リオ五輪開会式でブラジルチームの入場時に使われていたから、ブラジルでも国民的な歌なのだろう。だからと言って、「理想郷」的な意味はい…と思う。邦題をつけた配給側のこじつけだったのだろう。(記憶違いなら申し訳ない)
初観賞時は、期待に違わぬ強烈なイメージの具現化に感動すらしたし、奇想天外な小技の畳み掛けに心踊ったものだ。
ダクトの隠喩を仲間内で議論したりもした。
今回見直してみても、衝撃は色褪せていなかった。今日に至ってもギリアムのイメージ世界は真似することすらできない、圧倒的なハチャメチャさだった。
このギリアム印の映像バラエティーは、次作『バロン』にも引き継がれ、若造たちの熱狂は頂点を迎えることになる。
今回、本作が午前十時の映画祭にラインナップされたことは、正直意外ではあった。
映画史に一定の爪痕を残した作品に数えられたことは嬉しい限りだし、何より劇場でもう一度観賞できたことに感謝したい。
日本国内で昨今流行っている“悪ふざけ映画”の製作陣は、よぉ〜っく見習ってほしいと思う。
さて、その後のギリアムは『フィッシャー・キング』でも異彩を放ったが、若造たちは若造に毛が生えた者たちになろうとしていた。
そして、『12モンキーズ』でとうとう世間を振り向かせてくれたが、次世代の若造たちに熱狂することは譲って、若造に毛が生えた者たちは腕を組んで頷きながら観賞するのだった。
笑っていいの?
タイプライターていうのが時代を感じさせる。
現代を予言しているような内容だから、当時なら笑えていたかもしれないが今観ても笑えんのよなー。最後まで救われない映画。ジョナサン・プライス最高!
映画館で観れて感無量
大学生のときビデオで観て衝撃を受けた名作(怪作?)!
この映画を観て以来、ブラジルの音楽を聴くと、本来陽気な音楽なのに悪夢を連想するようになってしまった…。
まさかリバイバル上映で観れるとは!
この映画のラストがすごすぎて、それ以来、名作でもラストに驚きのない映画がものたりなく思えてしまうようになってしまった。
1985年の映画だが今観ても全く遜色なく面白い。ジェットコースターのようにドキドキハラハラでめまぐるしく展開し、悪夢のようなディストピアなのに皮肉たっぷりのジョークで笑わせる。
改めて観て脚本が練りに練られていることに驚く。散発的な出来事が有機的につながり、怒涛のラストに向かっていく。
CGを使わずによくぞここまでの映像が作れる…。いや。CGを使わないからこそ、カオティックなどろどろした生々しさが表現できるんだろう。
この映画のテーマは今でも普遍だ。情報化と管理主義と効率化と全体主義が人々の無知と欲望と無関心を増大させ、貧富の差を拡大し、人間としての本当に大切なものや、人間性をはぎとっていく恐ろしさ。
この物語では主人公が夢想するような明確な倒すべき「悪」などは存在しない。この社会では、人々はそれぞれの立場において自分の役割を果たそうとしているだけ。
しかしその役割を割り振っている「システム」は極めて不完全であり、たった一匹の虫(文字通りのバグ)によって容易に冤罪を生み出す。
意思のない「システム」に人々が翻弄され、悲劇が連鎖的に生み出されていく様は、シュールなリアリティがある。
ラストの主人公の妄想はこの映画のテーマを直接映像化したものだろう。
書類にまとわりつかれた人間が消え失せてしまうシーンは、各個人が社会というシステムの「部品」と成り果ててしまい、「自分」というものを消失させてしまう、ということを意味していると思う。
現代社会はまさにその通りの社会になっているように思う。人々は自分の生きる意味や目的を見出す前に、まず良き社会の部品であることを求められる。
主人公の母親が美容整形の極限にいたり、ついに肉体を捨ててしまうシーンでは、ステータスや外見といった「見える価値」「他人との比較で生じる価値」だけを優先させていった結果、最後には単なる「欲望」だけが残り、自分の本体は生ゴミと化してしまう、ということを意味していると思う。
この映画が作られた当時は、情報化社会や国家の管理体制が成熟していく過渡期にあり、この映画のような問題提起が盛んにされていた。
古くは「1984」や「モダンタイムス」でも同様の問題提起がされ続けていたわけだが、さて、現代は過去の人々が恐れていたようなディストピアを回避できたのだろうか?
Googleの行動規範が「邪悪になるな」であることや、ジョブズなどがコンピューターを人間にとって本当の意味で良いものでなくてはならないということにこだわっていたことは、これらの問題提起と無縁ではないだろう。
過去は美化し、未来は恐れるのが世の常だという気がするものの、ディストピアにならないように警戒するのは、コンピューターがもはやなくてはならない存在になってしまった今こそ必要な気がする。
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