「スパイに間違われる災難男をユーモラスに痛めつけるヒッチコック監督の悪戯」北北西に進路を取れ Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
スパイに間違われる災難男をユーモラスに痛めつけるヒッチコック監督の悪戯
観客を恐怖に陥れることに映画テクニックを磨き上げたヒッチコック監督の映画制作の当然の動機は、商業映画の最優先である興行成績での成功でした。これはサイレント時代から「駅馬車」や戦後多くの西部劇を制作したジョン・フォード監督も同じであり、フォード監督の本音では「わが谷は緑なりき」や「静かなる男」のような題材を、もっと手掛けたかったに違いありません。ヒットを目的に西部劇を撮るフォード監督のようにサスペンス映画を撮り続けたヒッチコック監督ですが、それでも趣味と実益を兼ねた映画監督の生涯を全うしたと言えます。ただ全盛期の1950年代のヒッチコック作品の中で日本での外国映画の興行成績を調べると、1954年公開の「裏窓」のみがベストテンに入る大ヒットを記録しただけで、他は及第点止まりでした。地味な冤罪告発映画「間違えられた男」と分かり難い恋愛心理劇「めまい」の後に続くこの「北北西に進路を取れ」は、観客に喜んで貰いたいスパイアクションに仕上げています。戦前の傑作「三十九夜」のアメリカ版とも取れる単純明快に特化した娯楽作品です。この時還暦を迎えたヒッチコック監督の演出は、136分の長尺を飽きさせることなく終始軽快に物語を進めていきます。そして、もう一つの特徴は、ケーリー・グラントを主役にした効果のユーモア溢れる会話劇の面白さでした。
政府機関のスパイ、ジョージ・キャプランがアメリカの各地を縦横無尽に渡り歩き諜報活動をしている痕跡を残しながら実在しないと言う、この荒唐無稽な設定のおふざけ振りに、主人公ロジャー・ソーンヒルが間違えられるプロットの発想が先ず可笑しい。敵国スパイの勘違いから命を狙われ災難に見舞われるソーンヒルが殺人容疑者の冤罪から逃げ回ることで、結局はキャプランの代わりにスパイ活動をして事件を解決してしまう。保険会社役員に過ぎないソーンヒルがスパイになり得るのかの前提を、映画はプロローグで簡潔に表現しています。それは秘書とのスケジュール確認を歩きながらするところや、タクシーの中でも時間を惜しんで公私の指示をするところ。多忙を極めながら機転と行動力があるマンハッタンの若き重役の身の軽さ。脚本を読んだジェームズ・スチュワートが出演を望んでも断ったヒッチコック監督は、グラント独特の品の良さと知的さとスマートさを買っていた。相手役のエヴァ・マリー・セイントがこの時35歳なので、ソーンヒルは40歳前後の設定と思われる。それを55歳で演じてしまうケーリー・グラントの若々しい演技が、スパイ代行役をやり遂げています。
アクションシーンで素晴らしいのは、セイント演じるイヴ・ケンドールに騙されて大平原の中のバス停留所でキャプランと待ち合わせる場面です。キャプランが来ないのが分かっている観客は、敵スパイがどんなやり方でソーンヒルを襲うのかの興味のみ。道路を行き交う車で緊張感を与えて、バスに乗り込む農夫の台詞で危機を煽る脚本と演出の妙。そして農薬散布の飛行機に襲われながら、身を隠すところが無い絶体絶命の平原でも、唯一トウモロコシ畑が近くにある。そこへ逃れるソーンヒルに降りかかる農薬の煙の絵的な可笑しさ。最後はタンクローリーの前に立ちはだかり、一か八かで助けを求めて、そこに飛行機が激突する派手な炎上シーン。でもソーンヒルが逃亡に選んだ車が、なんと冷蔵庫を積んだトラック。後ろにある乗用車を選ばないのから分かるのは、この災難に巻き込まれるスパイアクションをコメディとして味付けしていることです。同時に残された4人が乗れる乗用車を置いていくソーンヒルの優しさも感じられて、面白いシーンでした。
「傷だらけの栄光」「ウエスト・サイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」「ファミリー・プロット」そして「ブラック・サンデー」の多才な脚本家アーネスト・レーマンのスリラーにユーモアを織り交ぜて展開する脚本が素晴らしい。シカゴのホテルでキャプランがチェックアウトしていると分かってからケンドールを見つけて彼女の部屋で交わす会話シーン。寝台列車20世紀特急では警察の追跡から救ってくれて男女の仲になったケンドールは、ソーンヒルを命の危機に陥れた張本人だった。それなのに再び抱きしめてくる違和感に戸惑うソーンヒル。そしてメモの筆圧から行く先を調べるソーンヒルがスパイの如くケンドールを追い掛けてオークション会場に行き、ヴァンダム一味と再会する展開の驚きと面白さ。ケンドールがヴァンダムの仲間と分かればもう逃げ切れないと観念し、公衆の中で警察に連行されるようオークションを態と混乱させる。ここで面白いのはソーンヒルがキャプランとヴァンダムが思い込んでいること。しかし警察署に連れられると思ったら、連絡を入れた警察官は飛行場に変更する。この車内でのチグハグな会話が面白い。それでも観客は、オークション会場にいた政府諜報機関のボスが慌てて電話を掛けるカットで予想が付きます。この機関がFBIでもCIAでもONI(海軍情報局)でもない架空の組織。要は改めて言うまでもなく、この物語がリアリティを追求した話ではないし、あくまで映画を楽しむための想像のスパイアクションなのです。レオ・G・キャロルが演じる教授と呼ばれるボスが、ソーンヒルに全てを話してスパイに任命するのがまた可笑しい。そんなことはしたくないと拒絶するも、ケンドールがヴァンダムの情婦を装った政府諜報機関のスパイと知って気が変わり、彼女を救うためにソーンヒルは、スパイを演じるのを承諾するのです。
キャプランのソーンヒルとケンドールの仲を気にするであろうヴァンダムの猜疑心を心配して、ソーンヒルとケンドールが大芝居を打ってからの林の中では、相思相愛の関係を確かめる二人でも、ヴァンダムに付いて出国しスパイ活動を継続するケンドールの強い意志が分かります。それでも彼女と一緒になりたいケンドールは止めに入り、教授の部下に殴られ気絶してしまう。気が付いて閉じ込められた部屋から脱出して、ヴァンダムのアジトに向かうソーンヒルの想いの深さ。しかし、そこで分かったのはヴァンダムもケンドールの虜になっていた男で、手下のレナードのほうが大芝居の拳銃が空砲なのに気付いていた。自分に向って空砲を撃ち証明するレナードを殴るヴァンダムの心理。騙された自分を殴りたい男の衝動が表現された演出がいい。ケンドールが探し求めていたマイクロフィルムもオークションで落札した骨董品の像の中にあることが分るソーンヒル。そして家政婦に見つかり拳銃を向けられ身動きが取れない。この3度に渡る拳銃の使い方と、その拳銃を既にシカゴのホテルでヴァンダムから指示のメモをバッグに入れるショットで見せている細かさ。ヒッチコック監督の細部に行き届いた演出の巧さが光ります。
車で逃走するソーンヒルとケンドール。しかし門が閉められていて車を捨てるのは、偏にラシュモア山でクライマックスを迎えるためです。42年の「逃走迷路」の自由の女神のクライマックスと同じく、アメリカの有名な観光地をロケーションにするサービス精神と、絶体絶命を演出するヒッチコック監督の期待を裏切らない技巧の見せ場でもあります。
音楽バーナード・ハーマンと撮影ロバート・バークスの安定感とタイトルバックのソール・バスの斬新さ。国連本部から逃げるソーンヒルがタクシーに乗るまでの俯瞰ショットは、高層ビルの屋上からの眺めを見せて圧巻の眺望です。役者ではケーリー・グラントの申し分のない適役の嵌りが素晴らしく、アクションシーンも果敢に挑戦した力演。「波止場」「栄光への脱出」のイメージと比べて別世界の演技をみせるエヴァ・マリー・セイントは、配役としてベストとまでは言えないまでも、流石の演技力を見せつけます。シカゴのホテルのシーンが特に素晴らしい。敵国のスパイ・ヴァンダムのジェームズ・メイソンも地味に上手いし、貫禄もある。グラントより5歳下の50歳の時の氏の代表作の一本。ソーンヒルのマザコンの一面があるキャラクターを上品に見せた母クララのジェシー・ロイス・ランディスもいい。63歳には見えない若々しさ。エレベーターの中で敵手下に掛ける台詞の大胆さと気っ風の良さ。そして忘れてはいけないのが、「スパイ大作戦」でファンになったマーティン・ランド31歳の確りした演技力。目力のある表情が役に合っているし、メイソンとの相性もいい。
散々酷い目に遭いながら最後、三度目の正直になるのか良い伴侶を手中に収めたロジャー・ソーンヒルのスパイ体験のお話でした。でも彼女は一度、スパイの使命感から、ソーンヒルを抹殺しようとした敵に売った女性です。大丈夫とは言い切れないかも。