「本当は「フォレスト・ガンプの世界」」フォレスト・ガンプ 一期一会 Biniさんの映画レビュー(感想・評価)
本当は「フォレスト・ガンプの世界」
映画評論家の町山智浩氏はこの映画をトンデモ映画のように批判しています。詳しくはそちらの方をご覧いただき、わたくしは別の視点でこの映画を深く楽しみ慈しむ者です。それははじめから終わりまでこの映画が「フォレスト・ガンプの世界」になっているからです。
彼はIQ 75の知的障害をもっている設定になっています。わたくしの長男は知的障害と烙印を押され、以来彼の視点からこれまで従来の社会を再検証する機会を得ました。その体験から考えると、この映画に写し出されるすべてのエピソードは、その語りと同時にフォレストにしか見えない、感じ得ない世界に他ならないのです。
一方的に他人に話しかける行為もその特性なのです。バスを待つフォレストは隣に座った黒人女性にチョコレートをすすめながら話はじめます。女性が聞いているかどうかは関係ありません。物語が進んで行くと共に隣に座る人たちが次々とかわってゆきます。それでもフォレストは話をやめません。
フォレストの世界にはアラバマ州の激烈な人種差別などは存在しません。黒人に対する過酷な仕打ちが微塵も出てこないと批判がありますが、そもそもフォレストには人種差別の感覚がないのです。だからババという黒人兵士と仲良しになれるのです。白人しか通っていない大学に黒人が通学するのを断固反対する空気のなかで、当の黒人女性が落としたテキストを「落とされましたよ」と拾ってあげるのは差別の意味がわかっていないからこそ自然に出来るのです。
キング牧師のことさえ出てこないと批判がありますが、フォレストがプレスリーのことを語るとき、「キング(プレスリー)になるのは大変だね」と隣の黒人女性に向かって言います。これこそプレスリーと同時にマーチン・ルーサー・キング牧師のことを示唆していると考えるのは、わたくしのアメリカの生活の体験から容易に想像がつきます。でなければ、黒人女性にわざわざキングという名前を言及する必要などないのです。
フォレストには好戦も反戦もありません。政治活動も存在しない。入隊してみたらと言われるとすんなり入隊してしまう。反戦デモに巻き込まれたのならそれはそれでベトナムについて語ろうとする。このシーンは本来キング牧師の有名な「I have a dream」スピーチが原型になっている圧倒されそうなシーンです。好戦派らしき男にスピーカーのケーブルを抜かれてフォレストの声が聞こえなくなりますが、何を語ったのかは想像がつきます。このシーンは観客にとり、周りから痴呆扱いされるフォレストと一体化できるか否かの踏み絵のような瞬間なのですが、批判の対象になっているのが残念です。
社会における既成概念など飛び越えて誰とでも親しくなれるのがフォレストなのです。問題なのはそういう純朴な個性を「間抜け」「気味が悪い」と邪険にする周りの人間たちなのです。ババはそんなフォレストを受け入れた、だから親友になれたのです。
ジェニーはふしだらでヒドイ女だという指摘があります。フォレストをいいように使っては放浪癖よろしく消えていなくなる。そんなジェニーを愛せるのはフォレストしかいないのもよくわかるのです。なぜでしょう。ジェニーはフォレストを受け入れたからです。邪険にしなかったからです。
ダン中尉もフォレストを受け入れたからこそ絆がつよくなったのです。両足を失ったダン中尉はその不自由さにフォレストに怨み辛みをこぼしますが、フォレストの空気のような抵抗感のない態度に惹かれてゆくのです。元々脚にギプスをつけていた少年フォレストは、自分のようにいつかダン中尉にもきっと「ミラクル」が起きるのではと考えていたのかもしれません。物語は義足をつけたダン中尉の立ち姿を見せるのです。なんという巧みなシナリオなことでしょうか。
この映画はそうした視点から見ると本当に分かりやすい作品なのです。そしてちょっと変わった人を自閉症だのアスペルガーだのとレッテルを貼り、疎んじる側のリトマス試験紙であることもこの映画の評価に関わっていると思います。
加えて、トム・ハンクスの演技と南部訛の英語が尋常ではありません。トム・ハンクスは子供時代のフォレストを演じた子役の見事な台詞の影響を受けたと語っていますが、なるほどと思わせる見事な南部英語を子役は自然に話していました。
本来、この映画は「フォレスト・ガンプの世界」として公開すべきものだったのではとわたくしは思います。しかしすでに「ガープの世界」という映画があり、Gump と Garp が似た音なので混同避けざるを得なかったのではと勝手な考察をしながらひとまずここで閉じたいと思います。