8 1/2のレビュー・感想・評価
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人生はお祭りだ!
「午前十時の映画祭」で鑑賞。
映画や美術作品を鑑賞して、その感想を述べるときに「わからない」という言葉は使いたくないのだが、この映画、何をやりたいのか、何が言いたいのか、ハッキリ言ってよくわからなかった。虚実綯い交ぜのストーリーに混乱するところも多く、たびたび眠気にも襲われ、「これが傑作と呼ばれる所以は?」などと考えながらスクリーンを見つめていた。
けれど――けれど、ラストシーンには感動してしまった。
なんか知らんけど、こころが震えた。
高揚感と悲哀、混沌と狂騒、炸裂するイメージとぶっ飛んだ演出……。何よりも、生命感にあふれている気がする。こんな映画なかなかないんじゃないか?
「うん、やっぱり傑作かもしれないな」と、さっき観たシーンの数々を反芻しながら、これを書いている今そう思うのだった。
いちばん印象に残ったセリフ――それは、グイドがラストに語る「人生はお祭りだ 一緒に過ごそう (“ともに楽しもう” だったかな?)」という言葉だ。
よくわからん映画だったが、このセリフが監督からのメッセージなのだろうと僕は勝手に受け取った。
そして、映画館からの帰り道、僕はちょっと元気になっていた。
観終わったあと、元気になる映画は、いい映画だと思う。
難しいが貴重なものを観た気がする
映画監督のグイドは、新作の構想で悩みクランクインを延期していた。温泉地を訪れたグイドは女性たちとの関係や仕事上の知人たちとの現実に悩まされ、様々な夢や幻覚が現われ・・・てな話。
これ、たぶんストーリーが有って無いようなものなんだろうと思った。
男も女も浮気しても良いってな雰囲気もあるし、哲学的だったり、政治的だったり、もちろん文化的で、凄く奥深い事を作品の中に散りばめてるように感じた。
映画を作るためにはそんな色々な要素を脚本に込め、キャストを厳選し、舞台美術に細心の注意を払い、音響やBGMを考え、凄く神経をすり減らされるものなんだろうと感じた。
タイトルの意味が観賞後もわからず、ググったら、作品数なんだと知れた。面白い事をする監督だなぁ。
クリエイターの迷宮
久しぶりに観たフェリーニの作品で、非常に難解ながらも映像やキャラクターの魅力に強い引力を感じました。次回作に行き詰まり湯治場に逃げてきた映画監督が、次から次へと現れる映画の関係者や愛人、女房に振り回されるのが何ともおかしいです。そこに、クリエイターの原風景となる幼少期のエピソードや今は亡き両親との会話などを挿入し、現実と幻想の区別を曖昧にしながら、フェリーニ好みの大道芸趣味の猥雑さが加わった独特の映像世界のインパクトが強烈です。映画監督として撮りたいものと周囲が期待しているもののギャップに苦しむのは、まさにクリエイターでないと理解できないのかもしれません。だからこそ、フランソワ・トリュフォーやボブ・フォッシー、北野武等のクリエイター達が同じタイプの作品を作っているのがよくわかりました。役者では、マストロヤンニの当て書きのような名演で、伊達男とコミカルさのバランスが絶妙です。女優も素晴らしい人ばかりですが、クラウディア・カルディナーレの息を呑むような美しさはダントツでした。
騒々しい夢のような作品の中で終幕の語りとその情景が強烈に印象に残る...
騒々しい夢のような作品の中で終幕の語りとその情景が強烈に印象に残る作品.これは僕の知っている映画ではない.フェデリーニが発明したなにかであると思ってしまうような唯一無二の存在だった.作品を作るときに重要なのは駄作を世に出さないことであるという事について深く首肯すると同時に,できる限り沈黙していられるようにありたいとSNSで自分を偽る時代にいる中で身にしみて感じた.
映画監督フェリーニの私小説的映画宇宙の、解体と再構築のイマジネーションのスペクタクル
これは正しく映画の大傑作である。映画の特質を生かした、映画監督フェデリコ・フェリーニの映画のための映画だ。あの「アマルコルド」の時と同じく、感動で全身が震える快感に身を委ねるが、フェリーニ監督の40代の若き作品だけに、その活気ある演出と表現力に圧倒されてしまった。「道」のリアリズムタッチは、幻想と感覚の大胆な発露によって内包化されている。替わって作者自身の自己批判と映画創作の苦悩、そして女性に囲まれる男の夢、そこから映画監督として新しい創造の世界に挑戦する使命感まで、フェリーニ独自の映画的宇宙の時空を自由自在に飛行していて、真に面白い。私小説の如き作家の内面を探る興味深さ。想像力豊かな映像の饗宴、そこにある研ぎ澄まれた映像感覚の独自性と内容の個人的な告白の両立によって、この傑作はフェリーニ映画の真骨頂として記録されるべきである。同じイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が耽美的映像美術を創造しながら、何処か映画形態を否定する教養が観客の足枷になるのに対して、サーカスに強い憧憬を持って映画人になったフェリーニ監督のスペクタクル性は映画そのものの魅力に溢れている。イタリア映画は、この二大巨匠を生んだことだけでも偉大であろう。
先ず導入部の主人公の幻覚シーンが、その当時の文明社会における人間の孤独を描いて見事だ。機械文明と情報氾濫の中に埋もれた一人の映画人の心情がイマジネーション豊かに表現されている。続いて湯治場の群衆シーンになるが、このスローモーション撮影による感情のない人形みたいな虚無感の演出には驚嘆した。音楽との調和も素晴らしく、この映像感覚には脱帽である。
主人公が少年時代を回想するシーンも面白い。大家族の様子や、海岸で出会う巨漢の女性とのダンス、そのことで神父から叱られる神学校の描写など。フェリーニ監督の記憶がノスタルジーに止まらず、常に現在の主人公の心理に反映されている。そして移動ばかりの映画撮影の裏側を見せながら、ラスト大規模なオープンセットのクライマックスとなり、一度失意のどん底にいた主人公が映画創作に全精力を注ぐ結末の、何とも言えない寂しさがいい。ラストシーンの印象的な幕切れは、この映画の製作成功を意味した心地良い境地に誘う。映画を愛する人なら、この傑作は貴重な宝ものになろうし、映画監督の大変さに想いを寄せるだろう。それだけの自己分析の厳しさが、フェリーニ監督の中に確実にあるからだ。
1978年 12月12日 フィルムセンター
明るくて悲しい。
映画
『8 1/2』
の感想をブログに上げました。
監督:フェデリコフェリーニ
制作年:1963年
制作国:イタリア フランス
アカデミー賞 外国語映画賞
【あらすじ】
スランプに陥った映画監督が、キャスト、スタッフ、妻、愛人、空想の人々と交わり苦悩しながら映画作りを進める物語。
現実、妄想、映画のイメージ、過去の記憶の4つの映像が混在する世界で進行する物語は明るくて悲しい。
フェリーニの自伝的映画。
【感想】
自分の中で最高の一本の一つです。
映画全体を通して、笑いの中に感傷的な思いが漂っており、穏やかにじんわりとした気持ちで酔わせてくれる映画でした。
映画史に残るラストシーンも素晴らしいです。
ダメ人間を愛してやまない方にもお勧めの映画です。
ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
ASA NISI MASA
はちとにぶんのいち⇨ようかとにぶんのいち⇨はつかにぶんのいち⇨はっかにぶんのいち
まず読めなかった。
未だに【はっ↘︎か】なのか【はっ↗︎か】なのか…
ずっと気になっていたフェリーニ作品。
高評価の一方で、「難解」「自分にはまだ早かった」「退屈」「眠い」との声もたくさんあり、「まさかねぇ」と。
まだアマルコルドしか観てないけど、あの雰囲気でそんな訳……ありました。
びっくりするぐらいその通り。
眠くなるまいと意気込んでいたのに、半分も行かずにウトウト。
ただ(また、矛盾文になりますが)、退屈なのに楽しいという謎現象。
分かりそうで分からない、難解映画特有のあの感じ。
あ、分かりそうと思って観ていたら、どんどん分からなくなっていくという。
ネタバレ解説を読んだら、意外にあらすじ自体はしっかり掴めていましたが、
謎、謎だ、謎すぎる、この映画!
簡単なあらすじとしては、映画監督のグイドが新たな映画制作のために温泉療養をするものの、良い案が思いつかず、周りから圧力をかけられ、女性関係ももつれ、ちょっとずつ病んでいくみたいなおはなし。
冒頭の車の渋滞(あのシーンの煙は、周りからの重圧ですよね)からの空中浮遊、そして自分が凧みたいになってしまうあの夢(?)で、これヤバイなと悟り…
その後も夢だかなんだか分かりませんが、幻想シーンが入るのですが、恐らくその幻想と現実が入り乱れ過ぎていて区別がつかないのが、難解さの最大の理由なんじゃないでしょうか。
映像、音楽はやはり良くて、そこはしっかりと味わうことができました。
フェリーニ節楽しいです(特に最後の円になって踊るところは最高)。
アマルコルドも徐々に好きになっていったように、これも反芻映画のような気がします。
今はこの多少のモヤモヤを持ち続けて、少し時間が経ってからまた観たいと思いました。
また違った味わい、良さが感じられるでしょう。
きっと。
映画化された自由連想・箱庭的なもの。
よくぞここまで己の内面をさらけ出したものだ。
尤も、映像や音響等他の人の手が入っているので、無意識の世界というより、ち密に再構成・再創造された表象の世界である。とは言え、その表象世界におけるそれぞれの布置等と考え出すと、興味をそそられてのめり込んでしまう。ひっくり返ったおもちゃ箱。
監督はユングに傾倒していたとか。ユング心理学や夢分析の知識でもあればさらに楽しめるんだろうな。
ミュージカル・映画『NINE』の原作。
難解。
映画『NINE』の方がミュージカル仕立てという特性もあってメリハリがはっきりしていてまだ解りやすく作っている。しかも『NINE』はハリウッド映画で有名どころがたくさん出演していらしたから人物を取り違えることは無かった。
けど、こちらは古いイタリア映画だけあって、インパクトある俳優以外は皆同じに見えてきて、1回見ただけじゃ把握しきれない。相当予習が必要かも。
かつ、飛ぶ鳥落とす勢いの監督グイドに群がる人・人・人。常に騒がしい。
かつ、グイドの現実・願望・妄想・思い出が入り混じる。どこからが現実でどこからが内的現実なのか定かではない。
スランプになった監督の悪あがき。人間関係も行き詰っている(こっちは自業自得だが)。
ものすごく身につまされる。
今までとこれから、周りからの期待と自分らしさの狭間で、押し潰されそうになっていた私には珠玉の台詞が満載。重苦しいべたべたとした雰囲気が、最期に少しだけ軽くなった。断捨離って必要ですね。
(自死を匂わせるシーンもあり、そういう解釈の方もいらっしゃることを考えるとぞっとするが、自殺のシーンが妄想・断捨離のある意味の比喩と、私は解釈)
これだけハチャメチャなのにもかかわらず、映画と成立しているところがすごい。他の映画なら時間返せと叫ぶのに、この映画からは何故か目が離せない。落としどころをどうするのかがすごく気になって、最後まで見てしまう。
女性のファッションも真似したいものから、反面教師的なものまで。
役者の所作だけでも見応え有る。
特筆すべきは、主人公にマストロヤンニ氏を起用。
『ひまわり』のようなシリアスなものから、『ああ結婚』のような喜劇役者までこなせる役者。
この映画でも、『ああ結婚』でも、女にだらしない自己中人間を演じながらも、徹底的な嫌悪感を抱かせない色悪を演じられる方。
超セクシー・かっこいいマストロヤンニ氏のあんなカッコが見られるなんて(ブブッ)。
スランプを扱っているにもかかわらず、重すぎない、でも、上記のような自死を匂わせる危なさをだせる役者。
つい放っておけなくて、グイドの顛末を見届けたくなる。
そして音楽。
『アマルコルド』と似た旋律もあるが、どちらもロータ氏なのでご愛敬。
見る人を選ぶ映画。合う人と合わない人がはっきり分かれる。
語り合いたくなる映画だが、お勧めしにくい。
分かり易さで言うなら『NINE』の勝ち。
蛇足と見るかはともかくとして、『NINE』はグイドが悔い改めて再生まで見せてくれるし。
でも分かり易いってことは「分けて」「整理する」こと。分断してラベリングする必要がある。リメイクなら、リメイクした監督によって整理されラベリングされている。
そこには混沌の中から、自分なりの宝石を見つける楽しさも、思いがけないものを組み合わせて生み出す楽しさもなくなる。
きちんと整理されている心の部屋は、心地良いし、利便性が高いが、錬金術的反応は起こりにくいし、アドベンチャー気分も味わいにくい。
何もかもを大事に抱えていると動けなくなるが、整理することで取りこぼすものも出てくる。何が必要で何を捨てるべきかは自分で決めるもの。私の人生なのだから。
どちらがお好みかは正解は無く、個人の嗜好の問題。
どうやら私は、整理された世界より、様々なものが行き交う世界が好きなようだ。
そしてそんな世界の中から宝物を探したくて、幾度となくこの映画を観てしまう。
面白かった✨
祝祭劇系の歌舞伎みたいだった。映像そのものを楽しめばいいんだな、と思った。TENETみたいに、考えずに感じろ!さらに、目で楽しめ!
ソレンティーノの映画が好きで、彼が「フェリーニの継承者」と言われる意味が、「道」と「甘い生活」しか知らなかった自分にはよくわからなかった。でも、この映画を見て分かった気がした。ソレンティーノの「グレートビューティー」も「グランドフィナーレ(原題:Youth)」も「LORO」も、妻または初恋の女性の存在が重要で、単細胞的幼児性から離れられない(いい年した)男性を、ママ(=妻)は全部認めてくれる?という願望と、それを許してくれない現実がせめぎ合っている。そして若さと老い・死が大きなテーマとなっている。
フェリーニの時代、多分どこの国でも、40代といったら立派な大人で中年。でも社会で貼られてしまった「大人」レッテルと、「実は自分、まだガキなんです」実態を映像にしてみたよ、がこの映画なんじゃないかなあ。
子どもの頃の呪文、大人の世界を垣間見たドキドキ感、王子様みたいに扱われた快感の記憶、妻がなんでも許してくれたらどんなに素敵でしょう願望、ハーレムへの憧れ、若い人だけ居ればいいから年寄り不要!、仕事でむかつくあいつ死ね!なんとまあ身勝手な。で、最後は大団円!歌舞伎とか長唄が大得意とする、色々ありましたが、明るく踊ってめでたくお賑やかにお開き~。なんかすごく慣れ親しんでる世界でびっくりした。こういう映画をドラマトゥルギーが大昔からあるヨーロッパで作るって、すごい大変で勇気がいったのではないかと想像する。
修道女やカトリックの坊さん、鳥の鳴き声、温泉療法での行列、番号で呼ばれる、美女、パフォーマンス、記憶・夢想・空想世界は、上で挙げたソレンティーノの映画にも出てくる。主人公は名をなした作曲家だったり処女作1本だけの小説家だったり政治家だったり。共通点は、老いている、超リッチである、知り合いは皆セレブである。
冒頭の渋滞道路で、動く映像が静止画像になるところがすごく好き。映像の面白さは抜群だと思った。
グイドの妻ルイザはアヌーク・エーメなんだ!全然わからなかった。美しい!清楚で純粋な感じが、フェリーニのパートナーのジュリエッタ・マシーナを彷彿とさせた。マストロヤンニは黒縁メガネがハンサム度を少し下げて、コミカル度を上げてた。
音楽は、いきなりワルキューレかー!くるみ割り人形のチェレスタ?とビックリしたので、ニノ・ロータの音楽がどれだかなんだかわからなくなってしまったのが残念でした。
"40代半ばにして自信を失い、身動きがとれなくなった男" というコ...
"40代半ばにして自信を失い、身動きがとれなくなった男" というコンセプトだけが自分の中で決定しているが、映画はちっとも進まない。有名監督になった男の苦悩を描く話。
主人公は、「思い描く理想の女性像と現実とのギャップに思い悩んでいる私」 を撮ってみようと思い立った。ありのままに自分を描いてみようと素直に撮っていった。そうして撮れたものは、「自らもすでに齢40に達しているくせに、『年齢が上になった女は2Fに登り、そこで静かに暮らせ。(俺が他の若い女たちと楽しむ1Fに降りてくるんじゃない)』 とほざく男。まるで "ハーレムの長(おさ)" の絵」 だった。まさに ”クズ” だ。 おいおい、さすがにこの絵では共感してくれる観客は多くないのではないかという、ようやく認められた映画監督としての、耐え難い恐怖。
フェリーニ監督本人が、前々作 「道」 でアカデミー外国語映画賞を受賞し、前作 「甘い生活」 ではカンヌ パルムドゥールを獲得。ここまで高めてきた周囲の期待を超える "次の映画" (本作である)はなかなか撮れず、毎日圧し潰されそうだ。そんな八方ふさがりで苦しみぬいていたある日、まさに天啓のように、主人公に光が降ってきた(もしくは、心の中に突然光がきらめいた、か)。
本作を観る前に、本作にまつわるさまざまなエピソードを、みんなのレビューから事前に学んでおいたおかげで、話に置いて行かれることもなく、観ることができた。きっと、"監督の思ったままを忠実に描いた映画" なのだろうとも思った。
ただ正直な感想は、「これが素晴らしいの?面白いの?」 だったなあ。俺にはあわなかったってことか。やっぱ、もっともっと学ぶことがあるらしい。映画の深さって、底知れないなあ。
追伸
L'ATALANTE というサイトで語られている、「『フェリーニの8 1/2』 という無敵の映画のこと」 という評が、いちばんしっくりきたかなあ。
おまけ
本作のオープニングが 「(煙草を吸う)大人たちの目から逃れたい」 というイメージを喚起するということは、いくつかの解説を読んで、事前にインプットしていった情報だ。なるほど。
しかし実際に観た俺は、どうだったか。まったくピンとこなかった。 「上のように感じた人は、よくぞ、そんな風に受け取ったな。受け取れた人たちの想像力が豊富だ」 という感想。自分の感受性の低さか、あな悲し。
どうせ死ぬから
難解だったので2回鑑賞しました。フェリーニ程の天才は妄想も逸品ですね。強すぎる感受性や内省心が頭の中で様々な物語を作り上げてしまう。頭の中のぐちゃぐちゃした自らの考え、恐怖や喜びをこういった形で表現するとは。苦悩したって人はどうせ死にます。だったら楽しく生きた方が賢い。苦しんだ人間の見つけた真理なのでしょうか。マストロヤンニが美しかった。
影響を受けていない映画監督なんかいるの?
タランティーノのパルプフィクションの例のダンスの元ネタの一つとしても有名な作品。
デビッドリンチの自宅の玄関先に唯一貼ってある映画のポスター。
渋滞シーンは、REMの名pvエビバディハーツや、
ララランドの冒頭シーンの元ネタ。
ラストシーンの人生はお祭りだ!が、
テレビ版エヴァンゲリオンのラストにどっれほど影響を与えたことか、アニオタのみんなは流石に知っているよね?
今敏からダーレンアロノフスキーに繋がって、クリストファーノーランに至るまで、一体どんだけ影響あるんだ!!
作品どころか、要所要所が各映画に影響を与え続けている作品。
映画どころか、アニメ、漫画、小説、ドラマ、昨今はどこを見渡してもその影が過ぎる。
本作は一頭の牛であって、そこのロースを切り取るかカルビを切り取るかタンを切り取るかはそれぞれだが、映画好きなら避けては通れない作品。
腐るほど語られ尽くしてきたし、これからも語られ続けるであろう。
古い名画をみる尺度
いまおもえば、昔は凝った映画があった。
現代人は忙しくて美学に与していられない。端的に面白がらせてくれる映画を好む。──ということ、なのかもしれない。
8 1/2を見返していると、その到達している値に感心し、ペーソスに共感する。
車の上で両手を開き帆のように風を受けているグイド。陽気にダンスする醜女サラギナ。黒縁をかけて黒いカウボーイを被り、シーツをトガのようにまといムチを振るグイド。マントを背に楽隊を連れて行進する幼グイド。それらは教典のように一般化したシンボルであり、こんにちの映画に、そのようなキャラクター設定を見ることはできない。
が、見ていて、正直な感想としては、まどろっこしい。
評点するなら、名画には天井がない。
が、じっさい見ていて、どうだろう。アベンジャーズのほうが楽しいんじゃなかろうか。古典と現代の映画の間には、この種のジレンマがつきまとう。新しけりゃいいってもんじゃないが、巷間ではつねに新しい映画が価値をともなう──わけである。
ただ個人的には、古典名画を面白かった/面白くなかったという観点だけで評点してしまえるほど、強くはない。
そもそも、古典に描かれた人情に与しなくなったのは、それが経年のあいだに、数限りなく模倣されてきたからだ。
誰の幼少時代にも、どこかにかならず存在する淫奔なサラギナや、ひとりになって幕間に消える子供のグイドが、それほどの哀感たりえなくなったのは、たんに、わたしが、年をとって、その間にもさまざまな創作に触れてきたからだ。そのことを度外して、古典に現在評価をつけることはできない。それは強いというより、不遜なことだと思う。
まったくのところ、現代社会から見るとき、グイドの低回や周囲にたいする狭量は、どうでもいいようなポゼッションに基づいている──と思う。感傷も過ぎる。
が、それは、わたしが苦悶する主人公という設定に、数限りなく触れてきたからにほかならない。
そして、なぜ悩める映画監督が、冗長なキャラクターになってしまったかといえば、世界中の人々が8 1/2のグイドのキャラクターを愛し、影響を受けてきたからにほかならない。
すなわち古典がまどろっこしく見えるのは、フェリーニが愛され、数多の創作の主人公のなかに伝播して宿ったからだ。──と思っている。
そもそも古いものを見て「古い」という感想を持つなら、古い映画を見たりはしない。映画と自分の間、1963年と今の間、それを埋めるのは鑑賞眼そのものである──と思う。
映画は、縦横に寄り道し、アイデアをはらみながら、言いたいのは追憶と悔恨であろう──と解釈している。
やくたいもない大人になって、振り返ってみると、愛憎と慚愧だけがあって、子供時代を脱してから、純心だったことはひとつもない。──という普遍の気分が描かれている。
がんらいペシミスティックな映画だが、フェリーニはほんとは道や崖のように、絶望に費えるのをやりたかったのだが、興行観点から多少の希望をかいま見せた──ような気がした。
君はこの映画がわかるか?
冒頭の部分.主人公が車に乗っているといきなりタバコの煙のようなものが湧いてきて苦しみ始める。そしてそれを周りの大人たちがじっと見ている。すると突然車から解放され、ふわっと気持ちよく空に舞い上がっていく。これで自由になれたと思ったら・・・ここで言うタバコの煙とは大人の社会の象徴であり、この映画の中で煙草を指に挟んでるやつから逃れたいという暗示である。まずこの部分をぼーっと見てしまうとこの映画はさっぱりわからなくなるだろう。私も初めて見た時、何がなんだか全くわからなかった。だからとてつもなく長い140分で苦行のようにつらかったの覚えている。私がこの映画をわからなかった一つの大きな理由は女性経験が少なかったからだと思う。その後私も少しはモテるようになり何人かの女性と同時に付き合い、結婚もしたりすると、この映画の面白さが身にしみてしまうのだな。
この映画の面白いところはそれを不条理で混沌としたストーリー構成で表現している点だ。ストーリーなんてものはそもそもない。どこまでが現実でどこからが空想なのかさえよくわからない。この後こういう感じの映画はずいぶんたくさん作られたがこれが最初の傑作かな。 カメラワークも実に面白いところがたくさんある。 例えば最初に愛人が現れる部分。 最初のカットではとてもキュートで可愛く見えるのだが、 他の物を映して、また彼女にカットが戻るとそのたびにだんだんアップが大きくなっていく。そうすると、かわいい→威圧に変わっていく。 また別なシーンでは 可愛い女がやってきてそれをカメラがフォローしていくと 突然て手前にその子そっくりな醜い年増女が立っていてびっくりする。 そんなカメラワークの工夫が 全般にわたって凝らされている
最後は盛り上がって楽しそうに監督をしているが、そこがそこはかとなく悲しく寂しいね。それまでのシーンでずっと彼の内心を描いてきたわけで。ラストシーンで彼は楽しそうに仕事をしてるが心の中はあーなんだなあなんて。
ただ、やはり長いので疲れる。体力の自信にない人は途中でいっぺん休むことをお勧めする。
映像と音楽が融合するってこういう事
現実世界も空想と過去の記憶やらが入り混じって、1度鑑賞したぐらいでは、作品の全てを理解する事は到底不可能かと思います。
少なくとも僕には理解できなかったのです。
そんな僕に理解できたところは映像と音楽がアンバランスなのに、何故か融合してしまっている事。
お茶を飲んでるところでワルキューレの騎行?と思うがそれが何故か物凄くマッチしてしまう。
映画が現実や空想からとユラユラ揺れてるので、映像と音楽が合ってなくても合ってしまうのかな。
頭がぼっーとして、何となく映画をみてしまっているのだが時折突き抜けるような鋭い台詞もある。
そんなときは現実に戻される。
現実と空想をユラユラと揺れるなんだか麻薬のような映画でした(麻薬の経験はありませんが)
いつかまた観てみたいと思います。
いつか。
なんなの!?ハーレムなの!?
映画監督の葛藤を描くだけの映画かと思いきや、ハーレム大サーカス的な映画でしたな。
マルチェロマエストロヤンニ、格好よすぎるわ…。あの佇まいだけで只者ではない感…。
ただ、この映画の幼少期と現在とのつながりとかよくわからなかった。同じ環境になったってだけ?
女の人では、やはり奥さん最強ですな。最初は電話でしか登場していなかった奥さんが画面に現れたときのしっくり感たるや。たしかに奥さんに選ぶべき人だわ…。って感じで。
ただ、監督も奥さんの一言一句には心を動かすんですよね、その感じも良かった。
フェリーニが映像の魔術師であることは分かったけど、実際のところ芯くった部分は曖昧に描かれ過ぎていてよくわからなかった。
とんでもない傑作
フェリーニ生誕100周年ということで開催されたフェリーニ映画祭。
こちらも名作であるアマルコルドと共に再鑑賞(20.8.13)
フェリーニ監督の映画はそこまで観てないけど、ダントツで今作が一番好き。映画、の概念がぶち壊される
ある批評家の解説で、フェリーニの映画で描かれるものは全て現実のメタファーであると書かれていて、確かにそれをひしひしと感じる
が、それを言葉で綴りたくない。
読み解けないから上手く文章にまとめられないのもあるが、フェリーニの映画は、映画に身を委ねてただ流れに身を任せて鑑賞するに限る。
真実と嘘
過去と現在
現実と妄想
男と女
人生と映画…
この映画に全て詰まってる。人間の全ての要素が、ごちゃ混ぜになって自分の前を行進していく
生涯ベストの映画に出会ってしまった
全41件中、21~40件目を表示