ファンタスティック・プラネット

劇場公開日:

解説・あらすじ

アニメーション作品として史上初めてカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞したSFアニメ。大人向けの長編アニメがほとんど作られていなかった1970~80年代のフランスで、独創的な作品を生み出したルネ・ラルーの長編監督第1作。

地球ではないどこかの惑星。その星には真っ青な肌に赤い目をした巨人ドラーグ族と、彼らから虫けらのように虐げられている人類オム族が住んでいた。ある日、ドラーグ人の知事の娘ティバは、ドラーグ人の子どもたちにいじめられ母を亡くしたオム族の赤ん坊を拾う。ティバは赤ん坊をテールと名付け、ペットとして飼うことになるが……。

フランスのSF作家ステファン・ウルの原作をもとに、幻想的な画風の漫画家・イラストレーターのローラン・トポールが4年の歳月をかけて描いた幻想的な原画を、ルネ・ラルー監督が切り絵アニメーションという手法で完成させた。日本では1985年に劇場初公開。2021年にリバイバル公開。2025年には特集上映「ルネ・ラルー ファンタスティック・コレクション」にて4K修復版が公開。

1973年製作/72分/フランス・チェコスロバキア合作
原題または英題:La Planete sauvage
配給:ザジフィルムズ
劇場公開日:2025年6月20日

その他の公開日:1985年6月21日(日本初公開)、2021年5月28日

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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(C)1973 Les Films Armorial - Argos Films

映画レビュー

3.550年前の映画でもここまで斬新とは! いやはや凄い。

2022年7月24日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

独特の雰囲気が不気味さを醸し出す。
西洋の宗教画がアニメになって動いているような感じ。

瞑想の仕組みや、知恵の輪、不気味な植物や怪鳥など、独自性のオンパレード。
今観てビシバシ斬新さを感じるって、50年前の公開当時は卒倒ものだったのでは。

最後が少しあっさりだな。

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momokichi

3.5星新一風味のサイケな夢のような

2022年2月28日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

 ファンタジーは自由だ。リアリティの有無などというせせこましいくびきから逃れて、解放された世界で無邪気に遊べる。そんな世界観で綴られた物語から、何を受け取るかもまた自由だ。何かの教訓でも、単なる筋書きの面白さでも、美しさでも怖さでも。

 星新一のショートショートが思い浮かんだ。星新一作品にはよく当然のように宇宙人が出てくる。高度な文明を持っていたり、青い皮膚だったり、人間を誘拐して動物園の動物のように見せ物にしたりする。ドライに描写された非日常の中に、押し付けがましくない寓意が見える。
 遠い未来の世界で宇宙人に飼われ、不都合が起きれば蚊やノミのように殺される人間の物語を見ながら、人間以外の動物から見れば人間の姿や振る舞いはあの宇宙人のように不気味で尊大に見えるんだろうなと思ったりした。

 ただ、分かったような気になれるのはその辺りだけだ。残りの大半は、超越したセンスのビジュアルと斜め上のクライマックスに呆然とするしかない。いちいち驚いている間に置いてきぼりにならないよう付いていくのに精一杯だ。
 ドラーグ族の姿はもちろん、次から次へと登場するよく分からない動植物とその生態。どれも独創的でアートセンスを感じるが、何故か見ていて不安になる。ティバの学習ヘッドギアや飼われている人間のファッションなど、ごく一部かわいい要素も点在するので余計にカオスだ。
 極め付けは、ドラーグ族の瞑想シーンだ。その色使いとサウンド、4人並んで瞑想する場面で体が変形する様子などは、何だか脳みその中を直接かき回されているような、催眠をかけられているような、謎の感触があった。ホラー映画のような怖さではなく、洗脳ビデオのような、うっかりすると取り込まれそうなちょっとした恐怖。

 夢野久作の「ドグラ・マグラ」という、読むと気が狂うという歌い文句の小説がある。なぜそのように言われるかというと、狂人の精神状態を主観で描写しているかのようなくだりがあるからだ(私の解釈です)。この本を読んだ時に感じた、脳内に不可解なものがぬるりと入ってくるような恐怖と、本作の謎めいた感触はよく似ている気がした。
 理屈では捉えきれないが、言葉にならないこの不穏な感触、嫌いじゃない。

 徹頭徹尾振り切ったイマジネーションとシュールなビジュアルで固められた中、アップになった時の人間の顔とお婆さんのおっぱいの垂れ具合だけがやたら現実味があるのがまた独特の雰囲気を醸し出していた。
 深夜にNHKBSで放送していたものを録画して観たが、リアルタイムで真夜中に観ていたら何かを持っていかれていたような気がする(妄想)。ドラーグ族の瞑想のように……

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ニコ

2.0もし見るならネットで下調べして見るべし。

2025年6月27日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

難しい

斬新

 地方ではまず見られない、そういう映画だ。1973年にフランスで制作された、今から52年前の映画は、作品全体を支配するシュールな雰囲気と、不気味で奇妙な音楽が相まって「サイケデリック」な感じとあった。私には
・現実感の薄い異世界の出来事を描いている点
・アニメの映像がのっぺりで、コマの切替も冗長。
・その映像と展開を見ててつい寝てしまっていた。

 ネットで検索すると沢山、解説したものが出てくる。それを見て初めて少し分かったような気になった。熱心でコアなファンがこの映画にはいるのは間違いない。「哲学的」「メーセージ的」「先見的」「実験的」な映画なんだろうけど、なんとも言えない違和感、分かりにくさが残った。

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アツサミー

4.0トポールの生んだボス風グリロスの魅力と、ゴラゲールによる魔性の付随音楽にめろめろ。

2025年6月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

30年ぶりに映画館で観直した『ファンタスティック・プラネット』は、思いのほか「まっとう」な正調のSFアニメ映画でした!

かつて僕が20代のころ、この手の映画はTSUTAYAのどの店にでも置いてあるというわけではなかった。新宿店と恵比寿店が品揃えの豊富な両巨頭で、こういう大店舗では「カルト」「クィア」「前衛」といったジャンルが一か所にまとめられていて、ホドロフスキーやシュヴァンクマイエルやブラザーズ・クェイや『ひなぎく』やジョン・ウォーターズやデレク・ジャーマンやケネス・アンガーあたりが一棚ぶん、ぎっしりと置かれていた。
そこは、TSUTAYAの一角としても特別な輝きを放つ、僕ら好事家にとっての「驚異の部屋(ヴンダー・カンマー)」だった。
そんな一角でビジュアル的にとくに異彩を放っていたのが、スーザン・ピットの『アスパラガス』とルネ・ラルーの『ファンタスティック・プラネット』 だった(笑)。
逆にいえば、僕のなかで『ファンタスティック・プラネット』は、単品としてではなく、これらのエキセントリックでビザールな西洋アートアニメ総体の印象のなかに位置づけられている。
今回の特集上映に足を運んだのは、あの頃のTSUTAYAのカルト棚に抱いていた、自らの抑えがたい羨望と焦燥に対する「供養」と「手向け」のようなものだ。

― ― ―

当時は、とにかく青面に赤目の宇宙人のインパクトと、異界の動植物や習俗を創造するイマジネーションの多様性に圧倒されて、「カルト」寄りの印象でこの作品を観ていた気がするが、飽きるほどのアートアニメを洋の東西を問わず観てきた末の今の感覚からすると、むしろ中身はしごく王道、「ど真ん中のSFアニメ」であるとしか言いようがない。

たぶん、この作品を「カルト」っぽく見せているのは、ローラン・トポールの原画のもつ独特の奇妙で面妖なテイストと、さらにそれをファンキーで馴染みやすい方向にうまくメタモルフォーズした作画監督ヨゼフ・カーブルトのとぼけた味わい、製作に当たったチェコスロヴァキアのアニメスタジオ(のちのイジー・トルンカ・スタジオ)の切り絵アニメの技法あたりから来る部分が大きくて、ステファン・ウルの原作(『オム族がいっぱい』)自体は「ザ・SF」といっていいようなまっとうなSFだし、ルネ・ラルー監督のアプローチもまた変に構えたところのない、真正面から原作と対峙したものとなっている。

描かれているのは、とある惑星の種族間対立を模した、現代社会の縮図だ。
支配階級と被支配階級の種族のあいだにある、圧倒的な文明格差。
支配者であるドラーグ族(一見半魚人にしか見えないが、もしかしてドラゴンが語源だから耳にヒレがあって目が赤いのか??)は被支配者であるオム族(オム=フランス語で人間)を虫けらのように扱い、遊びで死なせてみたり、ペットとして買ってみたり、害虫駆除のノリで掃討作戦を展開したりしている。
野良で増殖したオム族は、当初は呪術者をリーダーとする原始的な生活を送っているが、ドラーグ族の「学習器」によって「知識」を得た主人公テールが逃走し、群れに加わることによって、より高度な文明を手に入れる。
彼らは新天地を求めて「野性の惑星」にロケットを飛ばすにいたるが、やがてそこがドラーグ族の秘密の地であり、また最大の弱点でもあることを知る……。

ドラーグ族の専制は明らかに全体主義の恐怖を示していて、人を害虫のように駆除するジェノサイドもまた、ナチスやロシアが行ってきた人類浄化の再現といっていい。
大量殺戮の道具として「毒ガス」が用いられることも、ナチスの所業を彷彿とさせる。
圧政を敷く支配階層を打破するために必要なのが、種族の団結と「教育」と「文明化」であるというのは、いかにも啓蒙的であると同時に、マルクス主義的な理想論を前提とするものであり、ルネ・ラルーが共産主義的思想のシンパであったことが推察される。
それは、なにもルネ・ラルーに限ったことではなく、ゴダールを筆頭に、60年代から70年代にかけて文化人の多くが共産思想に共鳴し、支配階級の打倒という夢を紡いだ。
SFジャンルはその大きな受け口だったわけで、その意味でも本作は清く正しいSFと位置付けられるものだ。

― ― ― ―

本作最大の見どころは、なんといってもローラン・トポールの原画が示す独特のキャラクター造形および背景美術の美観だろう。
いかにも奇矯でビザールなその味わいには、一見忘れがたい吸引力がある。
そこには、ギュスターヴ・モローやオディロン・ルドンの象徴主義的な怪異性、オノレ・ドーミエやギュスターヴ・ドレのカリカチュアリスティックな風刺性など、さまざまな美術史的な影響が見て取れる。
とくに、平たく広がる荒野に林立する生体的な構造物(巨大樹)と、奇妙な合成感のある生物群は、明らかに15世紀フランドルの画家ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』祭壇画からインスパイアされたものだ。
巨大構造物から噴き出た小さな鳥が渦巻いて飛んでいくラストの描写や、「野性の惑星」におけるドラーグ族の「色のついた球形の頭部と裸体の取り合わせ」は、そのまま『快楽の園』祭壇画中央パネルに類似のモチーフを見出すことが出来る。
また、『ファンタスティック・プラネット』に登場する生物のいくつかで観られる、頭から直接手足の生えているような造形は、ヒエロニムス・ボスの創造した「グリロス」と呼称されるあまたのモンストルムと近接している。そもそも、描かれているメインの主題から離れて「この生き物はなんだろう?」と思わざるを得ない奇怪な生物が点描されること自体、ボスの作品世界と近しい感覚を共有しているといえる(ルイス・キャロル的ということもできるが)。

一方、人体の把握やアニマル浜口のようなファッションセンス、水色やアメジストを用いた独特の配色に関しては、ミケランジェロ以降の、16世紀のイタリア・マニエリスム絵画に源流がある感じがする。地獄堕ちや最後の審判で描かれる「古代風の」人体描写に発想を得て、「非文明化した人類」のモデルが考えられているのではないか(ドラーグ族の示す「過去の惑星イガム」の描写を観る限り、ここはもともと地球で、人間はドラーグ族が進出する前に栄えていた文明をいつしか喪失して野蛮化しているということのようだが)。
キャラクターデザイン的には、『神曲』の挿絵で知られる18世紀の画家ウィリアム・ブレイクを思わせるところもあるし、建築空間にはマウリッツ・エッシャーの影響も感じられる。
トポールの絵画センスは、基本的に西洋の正統な幻想絵画の美術史的伝統に直結している。だからこそ、チェコスロヴァキアのアニメ・スタジオでもすっと受容されたのだろうし、「切り絵アニメ」という手法にうまくはまったのだと考えられる。

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もう一つ、この作品で抜群に魅力的なのが、アラン・ゴラゲールの担当した音楽だ。
プログレ調のメロウなロック・バラードで、あちこちにノイズや効果音、ため息のようなスキャットが入って、いかにも60~70年代くさい。けっこうギトギトに電子音とかギターのベンドが入っていて、エンディングのギターソロの泣き節とか身もだえしてしまう(笑)。
しかも、本作の音楽って、最初から最後まで完全に映像とシンクロさせてあるのだ。
登場人物の動きやリアクションに合わせて、音楽が流れたり止まったりびっくりしたような音をだしたり……まるで、モノクロ時代のコメディでも観ているかのようだ。
(ダビングでというより、完成した映像を見ながら合わせで弾いているのかもしれない)
それを、いかにもアニメのBGMといった曲ではなく、プログレ調のメロウな曲でやるのが実に面白い。
僕は60~70年代のヨーロッパの犯罪映画やマカロニ・ウエスタンも偏愛しているので、なんだか「アニメとSFとあの時代の一番面白かったヨーロッパ映画のごたまぜ」を観ている感じがして、とても郷愁をそそられる。

― ― ― ―

●テールがティバのペットの時代に見せる、ちょっとドキッとするような「反抗」が、後半で展開される種族間闘争の「前兆」になっているのは明らかだ。
ただ、これだけ前半でじっくりティバとの交流を描いていたからには、終盤で必ずティバとの再会と対話があるはずだと思って観ていたのだが、肩透かしだった。
もしかすると「チェコのスタジオのサボタージュで完成できなかったラスト10分」には、ティバとのやりとりも含まれていたのかもしれない。

●初期のテールの衣装ははっきりと道化や剣闘士を思わせるもので、「高等人種」とはいえ、あくまで「奴隷階級」なんだよね。考えてみると、ティバはナイスロリータ(しかもバストむき出し)だし、テールはナイスショタだし、女闘美ック(メトミック)があったり、マジの拳闘(へんなトカゲを使った)があったりと、なかなかに60年代エクスプロイテーション・ムーヴィーっぽいテイストはちゃんとあるんだな、と(笑)。

●ティバとテールが散歩中に口笛でクリスタルを割っていくシーンや、かご状の巣に虫を引き寄せては食べずに殺して叩き落とす鼻行類のような怪物の描写、野性人種が満月の夜中に行う身体を光らせて性交渉をする儀式(聖体拝領のパロディか? このころからエッチなシーンになったらエロいサックスが吹き渡るんすねwww)、機織り虫による服づくり、アリクイそっくりの捕食行動を示す飛竜とのバトルなどなど、本筋と関係のない惑星での日常描写がとにかく魅力的で忘れられない。

●上で性交前の儀式を「聖体拝領のパロディ」と書いたが、本作には聖書や神話に由来すると思われるシーンがいくつもある。テールが倒した飛竜の血を頭から浴びるシーンは、まさに「洗礼の儀式」だ(倒した龍の血の洗礼で無敵の英雄が誕生するという意味では、ファブニールを倒して血を浴びたジークフリートを強く想起させる)。テールがいきなり後ろから頭を叩かれるシーンは「カインとアベル」の絵画的イメージ(たとえばティツィアーノ)を引用している。何より、「知恵(文明)を盗んで上位者に追われる」という物語の全体的構造自体が、知恵の実を食べたことで楽園を追われるアダムとイヴの物語や、火を盗んで人に与えたことで罰せられるプロメテウスの物語と相似形を成している。

●毒ガス兵器の使用法って完全にバルサンだよな(笑)。ガスマスクをつけた猟犬ふうの「高等種族」がなんだかせつない。彼らが先導役として走る様子が、何度も何度もカットインされる。妙に印象に残る演出だ。
で、あれだけ偉そうにしてたドラーグ族のあっけない脆さ! そして逃げ足の速さ!(笑)
そういや、巨人のカラリングが妙にウルトラマン(1966~)を彷彿させるのって、なんか関係とかあるのかな。あと、巨人を倒すのにアンカーのついたロープで戦うのって、なんか『進撃の巨人』に与えた影響とかあるのかな。

●二足歩行のグリロスが、卵から生まれた同じく二足歩行のグリロスをぺろぺろと舐めて、「ああ子供なのか」と思ったらいきなりぺろりと平らげるシーン、大好き(笑)。

●ドラーグ族の「新たに作り出した大量殺戮兵器」が、ぽわーんと音の出る殺人光線だったり、タツノコメカみたいな巨大ちりとりロボだったり、巨大掃除機ロボだったり、ハエトリ紙みたいな巨大球だったりするの草。「害虫退治」の発想の枠から逃れられていない。

●急転直下のラストはあまりに唐突すぎて、さすがに何かあったのかと思わせるが、先にも触れたようにチェコのスタジオに10分近く残っていたラストシーンの作業を断られてしまったらしい(撮影中に「プラハの春」が起こって、もともと受注した幹部連中はスタジオを追われていた)。
本当は、どんなふうに終わるはずの物語だったのか。
首のない野性の惑星の彫像群のように放置された尻切れトンボのエンディングは、逆に観る者のイマジネーションを喚起してやまない。

僕としてはやっぱり、成長した美少女ティバと「地球(テラ)」のリーダーたるテールの、少し胸をちくりとさす、せつないやりとりで締めてほしかったかな?

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じゃい