「男の二面性」美女と野獣(1946) komasaさんの映画レビュー(感想・評価)
男の二面性
野獣の屋敷にやってきたベルが、屋敷に部屋まで導かれていく光景が何とも幻想的。
動く腕の燭台達と美しいベルの対比。廊下を滑るように進む彼女がうかべる戸惑いの表情と、ローブが風になびいて作るドレープの美しさ。
(スローで再生されるこのシーンの為に、どれだけの試行錯誤がなされたのか。ここを観るだけでも、この映画を見る価値があった。これは詩からの発想を映像に忠実に落とし込んだのだろう。コクトーの詩は知らないが、百人一首にある「天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」という歌が思い出された)
恐らくどこからか彼女を見ていた野獣は、この時 彼女に一目惚れしたのだろう。気を失ったベルを部屋に運ぶ際、彼女の着物がドレスに変わるのは、その美しさが崇拝の対象になったということだろう。だから服装から髪型まで理想の形へと変えずにはいられなった。
崇拝の対象でありながら我が物としたい衝動。しかし自分は醜い野獣の姿。せめて見栄え良くしようと、普段以上に着飾って晩餐の席に望む。何ともどかしい事か。
ベルとしても驚きだっただろう。恐れていた野獣が自分にかしずき主人と崇め、耳をピクピクさせながら自分の手から水を飲む。父の見舞いに行くと言えば、一週間で戻らねば自分は死ぬと言いつつそれを認め、信頼の証に宝の眠る神殿の鍵を渡す。そんな姿にベルも心動かされていったのだろう。
しかし最後、野獣から戻った王子の能天気な事。そして最後には宗教絵画さながらに二人で天に昇っていってしまう。
しかしベルは、別の男を愛していたとは言いつつも、最後まで王子に愛していると伝えない。今後も主導権を手放すことはなさそうだ。
これは永遠の愛の物語ではないのだろう。男の中に潜む二面性と愚かさを、ジャン・マレーの一人二役で表現したかったのではないかと思う。
komasaさん、コメントありがとうございます。
フランス映画は恋愛至上主義で女性上位の印象があります。少女期の可愛らしさが成熟した女性になると、男性と対等以上な立場で自由奔放。「死刑台のエレベーター」「恋人たち」「突然炎のごとく」のジャンヌ・モロー、「嘆きのテレーズ」「悪魔のような女」のシモーヌ・シニョレと女性の怖さが映画の魅力になっていますね。イタリアは男の子が愛らしく母親から可愛がられてマザコンが多く、フランスは女の子が愛らしく父親から溺愛されてわがままに育つ。映画から得た私の偏見です。イギリス映画の男は威張って女性に冷たいし、イタリア映画の男は兎に角情熱的にアプローチする一途さ。フランスの恋愛映画は、女性がひとりの男性といい関係になるのかと見ていると、違う男が出て来て展開の先が読めません。それでいてフランス女性は人として自立している。
言語のイメージでも、ビジネスなら英語、歌を歌うならイタリア語、哲学・法律を語るならドイツ語、詩を朗読するならロシア語、喧嘩するなら中国語ときて、愛を囁くならやっぱりフランス語ですね。恋愛ものが特に好きでなくも、フランス映画は面白いし勉強になります。