ピアノ・レッスン(1993)のレビュー・感想・評価
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手が触れるかなしみ
手が触れると悲しくなるときがある。
強張った感触を得れば、〈あなた〉の声は美辞麗句を並べただけで、〈私〉を許してないことが分かるし、安心の感触はその柔らかさと共に〈あなた〉との隔たりを自覚させる。手は声よりも本当のことを語り、〈私〉と〈あなた〉がどこまでいっても一緒になれないことを告げる。その悲しみ。
エマニュエル・レヴィナスが同様のことを既に言っている。
「愛撫は、そこに存在するものを、いわばそこに存在しないものとして探求する。いうなれば、この場合、皮膚は自分自身の撤退の痕跡であり、それゆえ愛撫とは、このうえもなくそこに存在するものを、不在として探求し続ける焦慮なのだ。接触しつつも合致しえないということ、つまりは限りない露出(デニュダシオン)が愛撫である。隣人が隙間を埋めることはない。皮膚の柔らかさ、それは接近するものと接近されるものとの間隙にほかならず、この間隙は離散性、非志向性、非目的性である。その結果、愛撫の無秩序が、隔時性が、現在なき快楽が、憐憫が、苦悶が生じる。近さ、直接性、それは他人によって享受し、他人によって苦しむことである」(p.216 、 E.レヴィナス『存在の彼方へ』)
本作では「触れる」運動が重要だ。声を発しないエイダがピアノに触れる。夫のスチュアートがエイダに触れられる。スチュアートのビジネスパートナーのベインズやマオリ族の皆がピアノに触れる。その触れあいは、愛撫にも暴力にも転化する。しかしその時、嘘や本当が顕わになって、快楽と苦悶が生じる。
だから私は本作の嘘と愛撫と本当の〈声〉が発せられないスチュアートについて語りたい。
現在において、本作に触れた私は、本作について語られた多くのことが嘘のように思えてしまう。
「エイダは家父長制に抗った人物だ」「エイダはピアノの音色で声を発している」「エイダはセックスによる性的快楽で主体性を獲得した」「レッスンと引き換えに手に入れたのは、世界にひとりだけの「私」」「自分らしくありのままに生きようとするヒロイン像の原点」
このようなことを本作は描いていない。本作には嘘が多すぎる。そもそも「ピアノ・レッスン」が、ベインズがエイダに近づくための取引であり、嘘であるわけだし、娘のフロラがエイダの声を「翻訳」するが、でたらめといって過言ではない。劇中劇の影絵による斧の切断も嘘なのだ。
だから上述の語りをひとつひとつ検討すれば嘘はすぐに分かる。
エイダはスチュアートに対して妻として所有化を拒否しただけで、ベインズに対する所有化はむしろ望んでいるから家父長制に抗ったわけではない。
エイダは音としての声は発していないが、〈声〉は常に発している。それは手話としての身振りであり、何より「顔」だ。彼女の顔は声以上に多くのことを発している。さらにピアノの音色が代弁しているわけではない。なぜエイダは演奏中にベインズに弄られても「美しく」弾くのだろうか。その音声イメージを聴いても苦悶は読み取れない。むしろエイダが〈声〉を発するのは、ピアノから手を離し、演奏を中断し、後ろを振り向く顔でしかないだろう。
セックスによって主体性を獲得したのも間違いだと思う。それならば娘のフロラの存在やその関係をどう説明すればいいのだろう。エイダが「産む機械」としてフロラを出産したならば、なぜ前夫との出来事を楽しげに語り、娘と添い寝するほど親密なのだろうか。
別にレッスンと引き換えに「私」を手に入れたわけでもない。ピアノはエイダのモノであって、エイダ=ピアノの等号は成立する。だから、レッスンごとに黒鍵を手に入れて「私」を手に入れる≒取り戻すことは言える。けれどそれならば、なぜレッスンはベインズがエイダを「手に入れたこと」で中断し、ピアノは返されるのだろう。そこにエイダの家父長制に抗うアクションも努力も「主体性」も見出せない。
自分らしくありのまま生きようとしたわりには、社会規範から全く逃れていないし、「ありのまま」を「性愛に奔放」と捉えていいのだろうか。
本作には嘘が散見される。しかし私は嘘が決して悪いこととは思わないし、むしろ嘘と本当の混濁した様を巧みに描き、女性性以上に人間性を的確に語ったことが本作の素晴らしさだと思う。
フロラの翻訳はでたらめかもしれない。けれどエイダの本当の心情を語ってはいる。劇中劇の斧の切断は、観劇者のマオリ族に本当のことだと思わせ、劇と劇中劇の攪乱を行わせている。物語自体の「本当の」悲劇にも転じる。嘘は本当と化す。けれどベインズの〈声〉は、エイダを恋い焦がれる「本当」を語ると同時にセックス後、再会を望む騙りに転じる。本当もまた嘘に転じる。
本当と嘘の白黒は、ピアノの白鍵と黒鍵にリフレインされる。ピアノは白鍵と黒鍵の両方がなければ美しい音色は奏でられない。だから私たちもまた本当と嘘を奏でて生きていかなければならない。それこそ人間性だろう。そしてこのことを本作では衣装の白黒でも巧みに描いている。
エイダはポスタービジュアルのように日常生活では黒色のドレスを着飾る。それは本当を語らず、嘘で取り繕っていることだろう。けれどそれはスチュアートとの夫婦関係を穏便に済ませるひとつの手段であるし、スチュアートも髪を整え、取り繕うのだから誰しも日常生活で行っていることだ。しかし嘘は綻びるし、本当は現れてこない。本当との隔たりを生じさせ、訝りを生む。だから私たちは嘘の衣装を、幕を、ベールを脱がなければならない。それがエイダにとって、ベインズと出会うことやピアノ・レッスンであり、黒色のドレスから白色の下着への着替えだ。そして白色の素肌を露出させるのだ。
手が肌に触れる。愛撫し合う。その時、エイダは声を発せずとも、手が、顔が、肌が〈声〉を発する。その〈声〉はベインズに本当のことを語る。それはエイダにとって喜びであるが、スチュアートではなくベインズであることに物語上の悲しみが伴う。
本作で最も〈声〉を発していないのはスチュアートだ。スチュアートが家父長制の表象であることも嘘だと思っている。それはラストにさしかかるスチュアートがエイダの指を斧で切断させる暴力性に裏打ちされている。しかし彼がそのようなアクションに向かってしまったのは日常生活で家父長らしく振る舞えずエイダを支配できなかったからだ。スチュアートはエイダの嘘を、影を、背後をみれない。彼はエイダが声を発しないから、正面を向かざるを得ない。しかしそれも二人の結婚記念写真のように互いが正面を向いても、視線が交わることはない。結局、スチュアートは何もみていないし、本当のことを言い出せない。本当はエイダがピアノを弾く後ろ姿をみなくてはいけないのに、本当ではない予感に、訝りに拘泥してしまっている。
エイダはスチュアートに背後をみせないのだが、スチュアートはエイダに背後をみせる。それは、寝ているスチュアートの背後をエイダが触れる時だ。
スチュアートは訝しむ。なぜ触れてくるのかと。手を繋ぐことはできたけど、キスすることもセックスもできていないのに。触れられる快楽はある。けれどその快楽はすぐに過ぎ去り、訝りに転じる。なぜ触ってくるのか?これはエイダなりの愛情表現であり愛撫なのか?私はエイダに許されているのか?なら私も触っていいのか?と。けれどその出来事をみた私たち観賞者は分かる。エイダはスチュアートの肌でベインズの不在を、その痕跡を触っていることに。スチュアートはベインズになれないし、スチュアートとエイダも一緒になれない。深い悲しみが横たわっている。そして何よりスチュアートはエイダに素肌をみせることができない。本当を曝け出すことができない。ならば黒色の衣装を纏ったままのスチュアートがエイダを「貫く」ことも、衣服を着たままの野外でのセックスが未遂に終わることも必然なのだ。
だから本作が悲劇に転じたのは、エイダがありのままに生きたからではなく、スチュアートがありのままに生きられなかったからだと捉えることはできるだろう。
そしてラストは真偽を放擲させている印象を感じてしまう。エイダが死んだとしても、水中に沈む彼女は衣服を着たままだから嘘のように思えるが、光が射しているから本当とも思える。エイダが生きているとしても、彼女は別のピアノと等号が成立しているし、家には白いカーテンがあるから本当のように思えるが、彼女が纏うベールは黒色だから嘘のように思える。死んだのならば彼女がナレーションとして語る時間はどこに存在するのだろうか。けれどそれが映画なのかもしれない。
白黒は別にもある。それは私たち観客が溶け込む闇の劇場とスクリーンの白だ。私たちはエイダがピアノを弾くように、正面を向いて本作をみなければならない。映されたものは本当だ。では私たちの生きる時間は嘘なのか。嘘と本当が混濁している。訝りが生じる。本当が背後にあるかもしれない。私たちはどこまでいっても本作に触れることはできない。触れたことを知覚することと同一化して語る/騙るしかできない。それもまた悲しみかもしれない。でも必要なのはスチュアートができなかった背後をみることと本当を曝け出すことだ。スクリーンの背後にある本当をみること、曝け出すこと、それだけが私たちの生が悲劇に転じない手立てかもしれない。これが本作で描かれていることだ。
年をとって初めてその良さが理解できた
映画館で、初めてこの映画を観たのは18歳の時。あの時は何とも言えぬ後味の悪さというか、ダークな映画を観てしまったという感想だけが残った。
今改めてこの映画を観ると、エイダと彼女を取り巻く悲惨な環境、ピアノへの狂気的な依存、ベインズとの許されざる恋、自分を理解しない(できない?)夫への虚無な感情、全てが静かな波のように押し寄せてくる。
だが後半、あれだけ人形のように押し殺してきたエイダの感情が、周囲を巻き込みながら大きく揺れ動く。その感情に、ただただ引き込まれていく。
あのメロディーも最高にいい。エイダの感情の緩急によって、静かであったり、力強く響いたり…。初めて聴いた時から、大好きでずっと頭に残っている。
ラストのシーン、エイダがやっと、初めて柔らかな笑顔をベインズに向ける。エイダと共に辛い時間を過ごしてきた気分になっていたので、幸せそうなその笑顔を見て、私も幸福感に包まれた。
不倫は勿論よくないけれど、これは不倫という簡単な言葉では括れない映画だと、私は思っている。
ピアノで結ばれ深く落ち、ばれたあと、ピアノと結ばれ落ちてみる
Huluにて字幕版(オリジナル音声)を視聴。
いつか日本語吹き替え版も観たいと思う。
他人が喋る言葉は分かっても自分は口が利けないエイダ・マクグラス(ホリー・ハンター)が娘のフローラ・マクグラス(アンナ・パキン)を連れて、未開拓のニュージーランドのアリスディア・スチュアート(サム・ニール)のところに嫁ぎに来るところから物語は始まる。
時代は19世紀のニュージーランドはイギリス領。
テーマは束縛からの解放。
土地の男ジョージ・ベインズ(ハーベイ・カイテル)がピアノを弾くエイダに魅せられていき、深みにはまっていく様子がエロティック。
硬い衣を脱いで體を自由に解き放ち、硬い男の體を包み込むシーンは萌えずにはいられない。
エイダの氣持ちの変化も見どころのひとつである。
べインズは、土地よりピアノよりエイダを愛していることを言動で示す。
ピアノと共に沈もうとしたエイダであったが、残されるフローラやべインズのことも頭によぎったのか、もがきながら苦しみの状況から抜け出す展開がとても良い。
天使の羽をしょって走り回るフローラのビジュアルが印象的。
原題『THE PIANO』とだけ題された今作のBGMは全てマイケル・ナイマン。エイダが演奏するピアノの曲は、エイダの出身地スコットランドの民謡や19世紀らしさを考慮して作曲したものであることは言うまでもない。
4kデジタルリマスター版上映に感謝🙏´-
こんなにも叙情的で美しく
変態的でエロティシズムに溢れた作品とは
思っていませんでした。初見です🔰
無骨で粗野なベインズ(ハーベイ・カイテル)の方が
成金夫スチュアート(サム・ニール)よりも
エイダを重んじ愛し紳士的だ。
そしてふたりともが変態だ🤣
海に沈みゆくピアノとエイダ
きっとエイダは生まれ変わったんだなぁ。
鑑賞してから3日経過したいまも
the heart asks pleasure first(楽しみを希う心)が
頭の中でずっと流れていて口ずさんじゃう。
名曲だ🎹🎵
ママは自己中
今回初見。以前から評判が良いので見に行こうと思っていたが、よくある香り高いだけで???な「芸術作品」である可能性も頭に入れて観に行った、なにしろカンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作だから
でも、見事に杞憂でした。
ジェーン・カンピオンは、人間の心の複雑さを、セリフに頼らず第三者である観客が見て納得できるように、曖昧にぼかすことをできるだけ避けて、的確に描く達人だと思う。「パワー・オブ・ザ・ドッグ」でも同じようなことを感じたので、彼女の作風なのだと思う。
こぶ付き出戻り(死別らしい)のすでに若くなくさらに障害ある娘を抱える家、イギリス本国の上流家庭から嫁を迎えたいが来手がない未開のニュージーランドの入植者、両家の利害が一致してエイダ母子の輿入れとなっただろうが、体の良い厄介払いで、仕方ないのは分かっていてもエイダには納得がいかない。その上言葉代わりの大事なピアノの回収を拒まれ、あろうことか夫は土地と交換に下心丸出しの他の男に渡してしまう。彼女の所有物なのに。なので、夫に心を開かない気持ちは分かるが、夫の親族、使用人たちにすら頑なだ。
エイダには彼らをひとまとめにして「嫌悪」と「蔑み」があるようで、なかなか嫌な感じの女性だと思った。
幼い娘もそんな母の気持ちを代弁するように、生意気で何様!?な口の聞き方。
この母子にげんなりしたが、娘・フローラがそんな言い方をするのは、母の前でだけだと気づいた。
幼い娘は物心ついたときから口の聞けない母の通訳、それどころか代弁者としての使命を課されてきたのだろう。母の心の動きに細心の注意を払って意図を的確に汲み代弁する、それが染み付いているのだ。
娘は母が大好きなので、細々と、気持ちのケアも含めて母の世話を焼く。それを喜んでいるよう。母の方はずっと、娘を自分の都合で振り回して、しかもそれに気づかないくらい当然と思っているのだ。
生意気な口を聞いていたフローラがいつの間にかスチュアートを「お父さん」と呼んでおり、自分をないがしろにする勝手な母のことを告げ口する。これが子供だ。その時々で後先考えず思ったとおりに行動してしまう。
自分の告げ口で母は指を失い、大事になってしまって泣き叫ぶのは、自身の罪悪感が大きいと思う。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」もそうだったが、母親に翻弄され、母が大好きなばっかりに幼い考えからとりかえしのつかないことをしてしまう子供が描かれている。
彼らは罪悪感に苦しめられる人生を、愛する母に課されてしまったと言える。
こういう子供は、表立たないが時代を越えてずっと存在し続けていると思う。
自分の幸せを追い求める親の影で、犠牲を強いられる子供はどうしたら良いのか。
色白で華奢なホリー・ハンターが、艶かしく妖しく美しい。口が聞けないのでボディーランゲージが豊かで、姿の艶かしさがさらに増しているよう。これでは男たちが虜になるのは当然だ。
夫スチュアートは、利益優先。
利益>妻 なので、妻の大事なピアノを土地と引き換えにベインズに渡した上に、妻には彼のところにピアノ・レッスンしに行け、などと平気で言う。下心ミエミエの男一人のところに美しい妻を行かせて一対一でピアノ・レッスンって、どう考えてもヤバい予感しかないが、それよりも利益が重かったようだ。
で、やっぱりなるようになってしまった。
粗野で顔に入れ墨入れて現地人に同化したようなベインズだが、「君を淫売にしたくない」と、エイダの尊厳を優先して欲望を我慢するジェントルマンな心があり、これをやられたらベインズに惹かれるのは必然。強引なようでエイダの気持ちが追いつくのを待ち、決して無理強いしない態度は一貫しており、女の気を引くためにその場限りで良いこと言ってるわけではないと分かるし、そんな芸当ができる器用な男でないのも分かっている。朴訥で誠実、しかもガタイが良いと来たら、心身ともに惹かれるのは必然だ。
男女が不倫に落ちる過程に納得してしまった。
妻と盟友(商売仲間?)の不義を知っても、その場で踏み込むことをせず床下に侵入してまで見届ける夫の気持ちはよくわからないが、彼はどこか自分の男としての魅力に自信がなく、強く出られないように見えるので、妻と妻を悦ばせているベインズの反応とか確認したかったのかも。ただの興味本位かもですが。
ふたりの絆を見せつけられて、妻が絶対に自分に靡かないのを確信したら、夫としては妻を解放するしかない。とどめておいても惨めなだけ。ただ妻に意地悪するためだけに手元に置いたら自身の幸せも程遠くなる。指を切り落として妻に忘れられない印を残したことで、もう良いじゃないかと判断したのだろう。計算高いスチュアートらしい。
ベインズと共に出ていくエイダが「ピアノを捨てて」というのは、新たな自分となる決意が分かりやすい。ピアノと一緒に沈んだ片方の靴は、今までの自分を脱ぎ捨て、ピアノとともに置いてきたということでしょう、そして自力で浮上する。これが人生、これが生きることだ。
幸せは、自己中と言われようと自身で掴みに行くものだ、というこれもまた分かりやすいメッセージを感じました。
(個人的には、不倫しても、娘を良いように振り回しても、いっさいの罪悪感をもってないようなエイダがサイコパスのようでちょっと怖い)
その後、3人で幸せに暮らしている様が語られて、温かい気持ちで見終えることができた。
こういう話とは思わなかった。
海底に沈んだピアノに繋がった女性の姿にぎょっとしたけど、これは、ピアノと共に古い自分を沈めたエイダのイメージと思いました。
実は彼女は浮き上がれずに死んでいて、ということではないと思う
スチュアートの母だかおばだかが、エイダのピアノの弾き方が気持ち悪いようなことを言っていたが、私もそう思った。
不穏で気持ちをざわつかせるような、神経を逆なでするようなものに感じました。
ハーヴェイ・カイテルが悪徳警官とかイタリアン・マフィアとか、粗野で無神経、即物的なイメージなので、本作も「強引に美しい人妻を奪ったら、人妻も彼に溺れるようになった」ような話かと思ってしまったら、良い意味で裏切られた。
顔つきが、荒々しい中にも朴訥で思慮のあるジェントルマンぽく変わっており、さすが俳優。
演技だけでなく雰囲気までなりきる役者ぶりに感心しました。
疑問点
DVDで見ましたが、凄い映画でした。
ただ他の人も提示していると思いますが以下の疑問があります。
1.なぜホリーハンターはハーベイカイテルを好きになるのか
ピアノの回りを裸でうろついたり、ホリーハンターの腕を触ったり
足の間に潜り込もうとしたり、ハーベイカイテルは一見単なる変態で
す。なぜこんな男をホリーハンターは好きになるのでしょうか。
2.ホリーハンターとサムニールの関係
ホリーハンターが、サムニールのベッドに入り足に触れて、彼を「その気」にさせようとするシーンがありますが、その時はハーベイカイテルが好きになっていたはず。なぜこういう矛盾した行為をするのか理解できません。
3.死にたかったのかどうか
ホリーハンターとその娘、ハーベイカイテルらが船で島を脱出しますが、ピアノが海に落ちるシーンがあり、その時ピアノを船に結び付けていたロープにホリーハンターは自ら足を突っ込み、海に自分も落ちてしまいます。自殺しようとしたのかなと思ったら、自分でロープを足から外して浮かび上がり、助けられます。死にたかったのかどうか、これも私には謎のシーンでした。
閉塞的状況からの解放
噂にはかねがね、という有名な映画ではあるが今回が初鑑賞。
最初からラスト直前まで圧倒的に閉ざされ窮屈な状況が続く。
どんよりとした暗い海、打ち捨てられたピアノ、鬱蒼とした森の奥地での生活、望まない再婚、理解力に乏しい夫、枷のようなドレス・・・
そこにベインズがピアノを通じて突破口を与えてくれるのだが、どうもピアノ云々より結局性欲で通じ合った??という印象。
娘は勝手な母にいろいろ利用されて可哀想に思えた。
鑑賞時、べインズはマオリ族だと思っていたのでエイダと荒海を渡るエンディングでは、
「白人と結婚した有色人種の死」フラグを恐れていたが、生きて新生活を迎えてくれた点は良かった。
勝手にもう少し色々ピアノ音楽も聴けるかと期待していたが、そのような映画ではなかった。良く纏まっているのだが、個人的には観ていてどうも疲労感が溜り、何度もリピートしたいとは思えなかった。
19世紀半ばの物語。 エイダ(ホリー・ハンター)は6歳の頃にしゃべ...
19世紀半ばの物語。
エイダ(ホリー・ハンター)は6歳の頃にしゃべることを拒否し、その後は手話やピアノを弾くことで周囲とコミュニケーションをとって来た。
結婚し、娘も生まれたが、夫とは死別。
ニュージーランドの入植者スチュアート(サム・ニール)のもとに嫁ぐことになり、娘フローラ(アンナ・パキン)とともにスコットランドから移住してきた。
当然、エイダの魂ともいえるピアノとともに。
しかし、海岸まで迎えに来たスチュアートは、屋敷までの悪路を理由にエイダのピアノを海岸に放置していった・・・
というところからはじまる物語で、今回のリバイバル上映の予告編で流れるピアノ曲は、海岸に放置されたピアノをエイダが崖の上から眺めるシーンで初めて流れる。
この演出で、ピアノがエイダの魂・心であることが象徴され、スチュアートとエイダの関係が示されることになる。
数日のち、エイダはスチュアートが留守の際に、先に入植し、現地人との通訳も兼ねている粗野な地主ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に頼み込んで、ピアノのある海岸までフローラとともに連れて行ってもらう。
久しぶりに自身の魂に触れたエイダは心からピアノを弾き、フローラは波打ち際で楽し気に踊る。
その様子を見ていたベインズは、エイダの人間的な表情に惹かれ、この女性を自分のものにしたいと願う。
ベインズは策を弄す。
自分の土地とピアノを交換しようとスチュアートに持ちかける。
エイダは、ピアノは自分のものだと主張するが、スチュアートは受け入れず、結果、ピアノはベインズのものになってしまう。
が、ベインズはエイダにとって、どれほどピアノが大事かを知っている。
エイダからピアノのレッスンを受けたいとスチュアートに持ち掛け、レッスンに来たエイダには、レッスンごとに鍵盤ひとつ分ずつエイダに返却すると申し出る。
しかも、自分に教えるのではなく、エイダの自由にピアノを弾いてよい、自分はそれを見るだけだ、と。
そして、奇妙なレッスンがはじまる・・・
と展開するわけだが、ここまでではエイダにとってピアノが魂・心であることは、ベインズは(たぶん)知らない。
大事なものだが、そこまでのものとは知らない。
が、観客はピアノがエイダの魂・心だと知っている。
エイダは自分の心を取り戻したいのだ。
エイダが欲しいベインズの要求は次第にエスカレートする。
弾いている腕に触らせろ、上半身のドレスを脱げ、スカートの裾をあげろ、と。
それまで禁欲的だったエイダは、ピアノを弾き、自分の魂を取り戻しつつある中で、異性に触れらることによって、性的な欲求が湧きだしてくる。
ここの描写、初公開時に観たときに、かなりエロティックと感じたわけです。
今回もエロスを感じたわけだが、こちらは歳をとった。
やや冷静に観れるようになり、ジェーン・カンピオンの演出に注目できるようになりました。
禁欲的な黒いドレスの上半身を取ったエイダの下着は白く、その対比が上手い。
ピアノを弾くエイダの腕に触れるベインズの手の描写も上手い、と。
この後の展開はドロドロの嫉妬の物語。
スチュアートもさることながら、これまでエイダを独占してきた娘フローラの疎外感は強くなり、エイダを裏切り、スチュアートに不貞を密告してしまう。
ピアノを介在してエイダの肉体を手に入れたベインズは、結果、エイダの心も手に入れる。
エイダも肉体が先だったかもしれないが、結果、閉じ込められていた心をベインズに対して解放する。
最終的には、エイダはピアノを弾く手にパッションを受けるわけだが、それを補完するものがベインズから与えられる。
これまで、エイダの閉じ込めらた魂・心の象徴だったピアノは、閉じ込められていたエイダとともに海の底に沈む。
いやぁすごい映画だった。
こんなにすごい映画だったとは、初公開時の若い自分にはわからなかった。
今年観た中では最上級の映画でした。
説得力のある名作だった
この作品が公開された1993年は映画凍結期であり今回が初見。キネ旬のベストワンになったのでメチャ気になっていた作品。
19世紀半ば、スコットランドからニュージーランドの孤島に嫁いだ口のきけないエイダ(ホリー・ハンター)、娘のフローラ(アンナ・パキン)と1台のピアノと共に。
夫となったスチュアート(サム・ニール)はエイダの命とも言えるピアノを土地と引き換えに地主のベインズ(ハーヴェイ・カイテル)に渡した。
エイダの心をベインズに引き渡すが如く。
レッスンと称しベインズのもとに通いピアノを弾くエイダ。
回数を重ねるほどに愛情あるいは欲情を募らせるベインズ。彼の思いを背中でもれなく受け取るエイダ。
渇望する二人がいた。甘美なピアノの音色とともにこの上ない前戯となった。
観る我々は最高のまぐわいであったことを確信する。
う〜ん、これは凄い。
全てが必然。
エイダと結ばれることなく嫉妬に狂いながらも二人を解放する夫と共にねじ伏せられた
なにこれ…全然綺麗な話じゃなかった
変態プレイを強要してきた人を好きになっちゃうってどういうこと?
そういうシチュエーションに興奮したってこと?
むしろ自分の大切なピアノを利用して近づいてきたことに怒るべきでは?
あんなに他人にピアノを触らせることを嫌っておきながら、調律してもらっただけで簡単に心開いてしまうのかい?
全然理解できん。
ピアノの音が言葉よりもこんなに雄弁だなんて…!という感動なんかどこにもないし、主人公にとってピアノがどれだけ大切な物なのかさえイマイチ伝わってこない。
そもそも嫁ぐ時にピアノを持っていくことを事前に相談していれば済んだ話にも思える。
娘の方がずっと大人だ。
絶対呼ばないと言っていたのに、ちゃんとパパと呼ぶようになったんだから。
どうしても、ヒステリーでひたすら自分勝手な主人公を最後まで好きになれなかった。
とんでもなく愛すべき映画だった
素晴らしかった
もう笑ってしまうくらいに素晴らしかった
鑑賞後もとんでもなく幸せな気分でにやにやしながら帰った。
もう、ジェーン・カンピオンを敬服します。
心から崇めたい
倫理と映画は切り離せないものだけど、
ここまで真っ当から描き切り、
エイダの眼差しを観てしまっては何も言えない。
ピアノと共に海に沈むシーンでは
もう口あんぐりでしたよ。
ここまでやってくれたらもうオールタイムベストです。
しかも、エイダは沈まずに這い上がってくるという。
それが出来るのが人間だからね。
あの上品な妖めかしさを、
ピアノを使ってあれ以上に表現できる人はいないよ。
それでもって笑えるんだから、すごいよね。
人の欲望を見ちゃうと笑っちゃうのかね。なんだろうね。
ギリシャ神話
苦手なジャンルなのだが、予告編にすごく惹かれたので観ることにした。
チャタレイ夫人的な?
今の時代だったら違う表現になっただろうなー、と思うところが多々あり、ここ最近で急激に男女観が変わったということを思った。
男ならではの愚かさ、女ならではの愚かさ、というのを描くとステレオタイプだと批判されてしまう昨今だけども、ぼくはそういう物語も抒情的で良いと思う。
主人公の病的で耽美な演技も良いのだけど、娘の明るく無邪気な感じもとても良い。
美しい母子というのは、ギリシャ神話のアフロディーテーとエロスを連想する。
娘が天使の翼をしょっているのでなおさら。
アフロディーテーは愛と美と性を司る、海の泡から誕生した女神である。
主人公がその美しさで男性たちを魅了したり、海からやってきて海に還っていくのも、主人公が美の神であるという暗喩だろうか。
また、アフロディーテーとエロスは怪獣におそわれたときに魚に変身し、逃げた、という物語がある。このとき、母子がはなればなれにならないように、「ひも」で結んだ。この「ひも」で結ばれた二匹の魚の姿が魚座の由来になったという。最後、主人公とピアノを結んだ「ひも」を思わせる。
言葉を話せないとか、黒鍵の数だけ来るように約束させるとかも、なんか神話っぽくていい。
最後、「悲劇」ではなく、「再生」の物語になるところも良かった。ピアノは海中に捨てられることによって、永遠になったのだなあ、というか…。「タイタニック」のエンディングを思わせる。
スチュアート夫人の恋人、または、NZ南島の精霊
観たか未見かの記憶さえ曖昧な作品がかなりあるのだが、本作もその一つ。
『海の上のピアニスト』の方は観たところ、どうやら再見らしいと結論したが、本作は、たぶん初見っぽい。
マイケル・ナイマンのテーマ曲だけは、聴き馴染んだ、いわゆる知ってる曲だったが、本作サントラは全世界で300万枚以上の売上げを記録した大ヒット曲だったので、未見でも知ってて可笑しくはない。
クラシック絡みの作品だなと思って気にはなってたけど、ちょうど今の仕事に就いて忙しい時期だったんで観られなかったんじゃないかと思う。
で、とにかく観はじめると驚くことばかり。
主人公エイダ(ホリー・ハンター 公開時34歳)が発話障がい者であること、
彼女はスコットランド生まれながら、一女フロラ(アンナ・パキン 10歳)を連れて(未婚の母か再婚かは説明されない)、嫁入り先として海を越えて渡ったニュージーランドが舞台であること、
も初めて知って驚いた。
荒れ狂う波が寄せ来る浜辺で、エイダがピアノを弾く姿や、その遠景、
器械体操よろしくフロラがクルクルと回転する様子の構図が美しいな、幻想味があるな、アートだな、
と思って観てたら、もっと驚く展開が待ってた。
‥‥邦題にもなってる「ピアノ・レッスン」は真のメインテーマでは全然なかった。
本当の主題は、スチュアート(サム・ニール 45歳)夫人となったエイダと通訳のベインズ(ハーヴェイ・カイテル 53歳)との性愛のレッスンだったってことだ。
*最後まで、入墨姿のベインズはマオリ(族)だと思って観ていたが、パンフレットの原田真見北大准教授によると白人でありながら自らマオリの世界に入って行った人物であるようだ。
それより、演じているのは、かのタランティーノの出世作『レザボア・ドッグス』(1991年)のいかついMr.ホワイト、ハーヴェイ・カイテルではないか!
どうも、どこかで観たような顔だけど、マオリの俳優って知らないしなぁ、とか思ってたら、その前提からして間違ってたって訳だった。
最初は、エイダが命より大事にしていたピアノをスチュアートが浜辺に放ったままにしておいたのを譲り受けて、まぁ本当にエイダのピアノ・レッスンを始める‥
ってか、実際は、彼女にだけ演奏させて、その姿を情欲の目で眺めることを日課にし始める訳だけれど‥‥
ここまで、妻となるエイダの意志を全く尊重しようとしないスチュアートも無理なら、
この人妻を我が家に通わせて肉欲の対象とするベインズも、「無ぅ理ぃっ!」てな感じで、‥
ベインズがひとり全裸になって着ていた肌着でピアノ全体を撫でまわすように拭き始めたのを観て、
なにぃッ、この変態はッ、
って思ってたら、いよいよエイダに、
裸になってこっち来い、
ってなるし、‥‥
‥‥かと思ったら、その様子を夫スチュアートが床下に潜んでうかがうだけで、介入して止めようともしないし、‥‥
何じゃ、こりゃ、変態映画か、
ってな感じで、‥‥
‥‥仕舞いには、エイダ本人から進んで、ベインズとセックスしに行くようになるし、
それを幼いフロラがしっかり覗き見るし、 エイダはベインズへの伝令役としてフロラを使おうとするしで、‥‥
もう、このあたりまでは、
何だか障がい者をエロの対象としてもてあそんでるし、
(ベインズがマオリだと思ってたんで)レイシズムを悪用した発情シーンがヤマ場になるわ、
子どもに不倫セックスを見せるわ、
で、
出て来る登場人物、主人公のエイダ含めて皆んな変態ちっくでマトモな人間ひとりもいないし、
と、いくら名作の誉れ高かろうと、パルムドール受賞作だろうと、スコア2点台は決定だな、の勢いではありました。
スチュアートは、てっきり性的不能者なのかな、と思ってたら、突然、エイダの方から性的な愛撫を受けるようになって一応喜んではいるし(でも、自らそれ以上に進もうとしないから不能説もまだありかも知れないが‥ まぁチャタレー夫人の要素はあるかな、と)、‥‥
それなのにスチュアート、エイダが、ピアノのハンマー抜いて、ベインズへの愛を伝えようとしたことを知ると怒り狂って、彼女の指を斧で斬り落とすし、‥‥
何ちゃら島の精霊かって‥
で、ああ、こりゃダメだ、この映画はッ、
て思いかけたところで、急転直下、
ベインズの家を訪ねたスチュアートが、曰く、
俺は、エイダが話す言葉が、この頭の中で聴こえたんだ。
エイダが本当に愛しているのはベインズ、お前だってことが、さ。
で、本当に、スチュアート、エイダをベインズのもとに送り出した。
‥‥ えッ?
これって、ハッピィエンドだったん??
マオリの伝統的な舟で、北(首都ウェリントンのあるノースアイランドならむ)に向かうベインズとエイダ。
エイダの大切なものだからと、横幅の狭いマオリの舟に、ピアノを無理に載せている。
エイダは、
もう壊れてるから要らない、海に捨ててよ、
ということで、ピアノを海に投じると、
それに引っ張られて解けた縄がエイダの足に絡んで、
ドボーンッ!
あぁ、やっぱりバッドエンドなのね、
って思ってたら‥
What a death !
What a chance !
What a surprise !
のナレーションとともに、エイダは自力で波の上に泳ぎあがり‥‥
無事ふたりはノースアイランドで、仲睦まじい夫婦となって、ピアノ・レッスンを糧とする生活を送るのでありました。
と本当に、ハッピィエンドで、めでたし、めでたし。
やれ、障がい者差別じゃないか、レイシズムじゃないか、登場人物みんなマトモじゃない、
とか思い込んでたら、障がいの壁も、民族の壁(ベインズが白人だとしても入墨して自らマオリとなったので)も乗り越えて、スチュアート(彼のその後は描かれないが)も、エイダも、ベインズも、最後には、ベストの選択をして、自ら望んだ幸福をつかみ取ったという結果に、まぁ、正直、うならざるを得なかった訳です。
とにかく望まない結婚に始まった不幸が、 エイダの、発話障がいも、不倫のそしりも、ドロドロのぬかるみも、物ともしない強い意志と行動によって、スチュアートをはじめとする全てを動かし、幸福に反転していく、っていう展開は、あっぱれと言わなくてはならないでしょう。
してやられたなぁ、って。
これは、3.5 以上でないと公平じゃないよなぁ、って。
脚本も自ら書いたジェーン・カンピオン監督(1954- )、女性監督初のパルムドールですって。
さすがは、カンヌです。
そうそう、マオリの血も引くNZのタイカ・ワイティティ監督の『ネクスト・ゴール・ウィンズ』にファファフィネと呼ばれるサモアの第三の性が出て来ましたけど、本作でもマオリのそれが登場してましたね。
ではまた。
あの名曲はここから誕生
よく耳にするピアノのフレーズ。
この作品の曲だったのか!!
4kデジタルリマスターで初めて見ました。
当時の時代背景を考えると、このような出来事は少なくはなかったのかも。
愛されたい、愛されないがゆえに過激な行動をとったスチュアートの気持ちも分からなくはないが、斧で指を切り落とすのはやりすぎ。怖すぎ。
父が決めた結婚、先住民との出逢いから知った本当の愛……。
彼女が海にピアノを沈めて、自身も身投げするシーンは、過去の自分、前の夫たちたちとの決別を意味している。
そこから自力で這い上がって新たな人生と幸せを掴もうという決意の表れだと。
淀川長治さんの名批評があった!
19世紀の中頃、スコットランドから旅立って、娘を連れ、ピアノを携えて、当時未開のニュージランドに、入植者との結婚のためにやってきた口の利けない女性。結婚相手がありながら、現地の男との間で、ピアノを媒介として愛を育んでしまう。筋立ては、少しだけ「チャタレー夫人の恋人」に似ている。
ただ、主人公エイダ(ホリー・ハンター)の夫スチュアート(サム・ニール)と、彼女の愛人ベインズ(私の好みのハーヴェイ・カイテル)には、キリスト教の軛があったように見える。ベインズも、一度はピアノをエイダに戻している。また、スチュアートにしても、たしかに斧を持ち出したことはあったが、最終的に、二人に出奔することを許してさえいる。
本来ならば、荒海に船出したエイダとベインズを待ち受けていたのは、海に沈むことだったのだろう。しかし、エイダは自らピアノを海に沈めて、二人は助かった。ピアノの代わりに、エイダは愛情の対象を得た。これが、この映画の本質である。
エイダは、6歳の時、一度は、完全に話す力を失ったのだと思う。内的な言語はあって手話に移行しているし、ベインズと一緒になっても、話すためのトレーニングが必要だった。精神的に不安定なところも見受けられ、父親もそれを認めていた。
エイダの娘、フローラ(アンナ・パキン)は、母親の6歳の頃の面影を引き継いでいるのだろう。アンナは小柄で、撮影当時9歳、よほどおしゃま。おそらく、エイダは6歳の時、フローラが見たのよりも、ずっとひどい情景に接し、強い精神的なストレスを受けたのだろう。その後、ピアノに対象を見出したことから考えると、父親の愛情関係だろうか。
私が淀川さんの言葉に足すものは何もなかった、との思いがつよい。残念ながら、淀川さんの言葉を記すことはできない。今より、もっと活気にあふれた日本の当時を察してほしい。河出文庫などで読むことができる。
哀しき人生にあらわれたタツノオトシゴ
品のある重厚な色彩が作りだす19世紀半ばの世界観。
人肌の温もり、鼓動をも伝えてよこすリマスター版に改めて驚嘆しながら4人の運命を息をのみ見守る。
音楽とともに1人の女性の逞しさとその娘の目線が身にしみてくるような作品だ。
ーーーーーーーー
幼少期に自ら声を出さないようなったエイダには父との関係性に相当なトラウマがあったのではないかと察する。
そんなわけありを匂わす当時のエイダの声が綴る心の声と回想シーン。
そして今、辿り着いたニュージーランドの浜辺のただならぬ様子。
じわりと伝わる負のオーラがエイダとフロラ、スチュアート、べインズの出会いにあり、後ろの物憂げな雲がすんなりと混ざり合う。
押し問答の末、浜辺に残されたピアノを丘の道からみるエイダのまなざしの不安気なことよ。
ここまでで既に感情を直接音にできるピアノがエイダのどんな存在かということがよくわかる。
自分の行く場所にピアノがないことは一心同体の崩壊を意味する。
対して初対面で夫になる男スチュアート。彼はそれを察知できず理解しようともしなかった。
この時点でエイダがスチュアートに惹かれることはなく実父の政略的な結婚がますます仕方ないものになっだろう。
話せない母の気持ちを瞬時にすくい取り表してきた利発な娘・フロラは、母が気のない結婚することもわかっているし、母をとられるような気持ちが相まり拗ねている。
そんなフロラが、エイダに興味深々のスチュアートの叔母たちに話すエピソードは噂話に尾びれをつけるには格好の出だしだったのではないか。
夫婦として慣れていくことを気長にまとうとする善良な性格がみえるスチュアートの不安が湧いてくるのを煽る。
ピアノを諦めきれないエイダは原住民のごとく土地に馴染む厳つい雰囲気の白人ベインズに頼み込む。
一旦は断りながらも良心が動いたのか浜へ案内したベインズ。
波打ち際でのびやかな感情を鍵盤から紡ぎ出す姿は美しく、楽しそうに合わせて踊る娘をみつめるエイダにすっかり魅了されてしまう。
間も無くベインズはスチュアートに土地とピアノ+エイダから受けるレッスンを交換する約束をとりつける。
彼女のためにピアノを取り戻す方法だったが、彼女に近づく下心もあったようだ。
そんなベインズは、潮にさらされ、険しい山道の樹木にぶつかりながらやってきた傷んだピアノをきちんと調律させて待つ誠実さをみせ、喪失感で放心状態だったエイダをさらによろこばせた。
そして魅力的な彼女を前に彼の理性はきかなくなる。ピアノがなくてはならない心理につけ込み彼女に巧妙に、しかしストレートな思いを徐々に表しながら近づきはじめるのだ。
エイダに触れていくベインズに愛情が募り出すとそれが伝わるかのように、取引の壁を越え次第に彼女も彼に惹かれ出す。
ついにエイダの気持ちを振り向かせると互いを奏でるような繊細な時間が2人の心のひだを寄せて深めていく。
エイダは夢うつつで夜明け前にピアノを弾き、フロラやスチュアートに触れながら、我を忘れベインズを思い描くほどのめり込むようになるのだ。
妻の異変に気付きつつも真意にせまったり心の距離を縮められずにいるスチュアート。
母の意識が自分やピアノレッスンから離れベインズに向いているのを感じたフロラはこどもの素直さ故に父に告げ口した。
浮気の現場をこっそり覗いたベインズはすぐには割入らず彼女の様子をみているが、妖術使いだと周りに噂されるなか真実味を感じますます不安になる。
その状況でも「そのうち私を好きになるだろう。」と自分に言い聞かせるようにする彼は非常に健気でもある。
そんなある日、ベインズが引っ越すことを知りエイダは鍵盤を抜きベインズへのメッセージを書く。
あれだけ大切にしたピアノよりベインズへの想いが重要になっている決定的なシーンだ。
そしてそれを渡すように託されたフロラが湿地の踏み板をすすむが、逆方向の父の居場所へと進路を変える。
あの学芸会のごとく躊躇なく斧を手にする夫が急ぐのは妻の元だった。
たしかに気の毒なスチュアートではあるが、よりによってエイダの代弁者である娘の前で、エイダの心を謳うためのそれを容赦なき罰として切り落とす。
血をしたたらせながらも沈黙のまま水溜まりにふらふらと座り込むエイダが、私には残酷ななかに逞しい野生の本能を開花させていく美しい黒鳥にもみえた。
そして怪我からの発熱で苦しむエイダにの目がようやく覚めたときのスチュアートの姿。
エイダの黒い瞳は言葉以上に雄弁だった。
その動かぬ強い意志を受けとり、
彼はそこに映った自分の不甲斐なさを自覚せずにはいられなかったはずだ。
完敗を覚悟したスチュアートはベインズの元に向かい妻子連れてこの土地から去ってくれと告げる。
ベインズの指示の元、再び舟にピアノを積み荒波を出航した。
ベインズににぎられたちいさなエイダの手は彼の愛に満たされ、難航を予測し重いピアノを海に捨てるように言うが、ベインズはエイダの大切なピアノを最後まで運ぶという。
恋愛が成就してもエイダの大切なものをどうにか守りたいベインズの彼女に対する思いやりを噛みしめながらも
海面を撫でる哀しげなエイダが決心のあとの内心を垣間みせた。
無理もない、自分をひきちぎられるようなエイダ。
原住民たちの力強いかけ声とともに斜めに深い海の底に向けて滑り落ちていくと、とっさにピアノにつながる縄の穴に自分から足を入れたエイダは一瞬で海中へ。
あまりの唐突な展開に恐ろしいこれ以上ない絶望感が襲う。
しかし、一転。
見開いたエイダの目。
〝意志が生を選んだのか〟
靴を脱ぎ捨て危機一髪で垂直に浮かび上がり大きく息を吐くエイダ。
〝何という死〟
〝何という運命〟
〝何と言う驚き〟
予想を覆すクライマックスに
エイダの心の声が語る。
〝その力は私と多くの人を驚かせた〟
エイダ自身も驚いたその力とは、ようやくみつけた真実の愛の力だった。
心の声はまた語る。
〝夜は海底の墓場のピアノを想い
その上をただようじぶんの姿を見る
海底はあまりにも静かで
私は眠りに誘われる
不思議な子守歌
そう 私だけの子守り歌だ
音の存在しない世界を満たす沈黙
音が存在しえない世界の沈黙が
海底の墓場の
深い深いところにある〟
あの時エイダの過去は死んだのだ。
そして今もそれはピアノと繋がれて海に漂う。
そして、生まれ変わったエイダの幸せな笑顔が北の地にある。
再び出はじめた声。
そのままのエイダを愛するベインズ。
不安を目の当たりにして心配したが相変わらず元気なフロラの姿もみえた。
母娘とベインズが歩いた浜辺に貝で描いた美しいタツノオトシゴが、この数奇な運命の道すじを示唆していたかのように思えた。
修正済み
追加済み
すべてがピアノに集約されるシナリオのうまさ
よく名作として名前のあがる作品なのだが、未見だった。
さすがに高い評価を得ているだけあって、すばらしい。
登場人物は少ないし、ジャングルの奥地にある集落みたいなところでほとんどの物語が展開する。それでも歴史大作を観たような気分にさせられる。ちなみに製作費は700万ドルで、chatGPTに聞いたら、当時の為替で8億7500万円相当だそうだ。どこで使ったのかわからないが、さほど低予算でもない気がする。
それはともかく、主演のホリー・ハンターは、観ていてずっと「こんな顔だったっけ」と思っていて、観終わってからネットで画像を調べたのだが、映画に出ていた彼女とどうしても一致しなかった。この感覚は「ゴッド・ファーザー」でアル・パチーノがマイケル・コルレオーネにしか見えないのと似ている。
時代は1852年。主人公のエイダは、娘のフローラとともに、スコットランドからニュージーランドへ。そこには入植者のスチュアートが待っていた。彼は、エイダの夫になる人物だった。
エイダは6歳の時から話すのをやめていた。そのかわり、ピアノを弾くのだった。
スチュアートはエイダのピアノに理解を示さず、到着した海辺に放置したまま、彼女をジャングルの奥地にある自分の家につれていく。そこには先住民のマオリ族もいた。マオリ族の男べインズは、エイダに興味を持つ。スチュアートが土地を欲しがっているのを知っており、エイダのピアノと引き換えに土地を売る。そして、エイダには、自分にピアノを教えてくれたら、ピアノを返そう、という。
エイダはピアノを弾くが、べインズは本当はピアノを習う気はなくて、エイダとふたりきりになりたかった。彼の要求にこたえるたびに、少しずつピアノを返していく、という取引をする。
やがてエイダはべインズに惹かれていく。
これは行きて帰りし物語の構成で作られた恋愛映画だ。
作中でエイダが弾く曲は、彼女の心境を反映しているのだろうか。なんという曲を弾いているのかわからないので、気になった。物語が進むにつれて、演奏する曲は、どのように変化していったのだろうか。べインズに対する気持ちを、曲の変化に沿って感じることはできるのだろうか。
エイダがピアノに執着しているのは、映画の冒頭からあきらかで、海辺に迎えにきたスチュワートに、どうしてもピアノを運んでほしいと頼んだにもかかわらず、スチュワートはピアノを放置する。しかし、べインズはエイダを手にいれるためにはまずはピアノを手にいれる必要があると見抜く。やっぱり、女性は自分を理解してくれる男が好きになるよな、と当たり前のことを思った。男も、自分を理解してくれる女性を好きになるわけだし。
ただ、スチュワートがだめな奴かというとそうでもないのかもしれない。当時はまだ女性は所有物だったのかもしれない。そうは言いつつ、スチュワートがなぜエイダをめとったのか、疑問は残る。スチュワートは他の人間に対して「金はないぞ」という発言もしている。エイダは家事もしなくて、ただいるだけなのだ。金もないのに、なぜスコットランドからエイダを招いたのか。これは疑問だった。
他にも謎はある。
なぜ、エイダは6歳で口をきけなくなったのか。
フローラの父親はもちろんエイダの夫だろうが、それは誰なのか。というか、フローラが父親について語るくだりがあるが、それは本当なのだろうか。
説明されない疑問が多々あるにもかかわらず、本作はすばらしい。役者や音楽の良さはもちろんある。それだけでなく、「The Piano」という原題の通り、物語のすべてが一台のピアノに集約されるというストーリーテリングのうまさにあると思う。
ピアノの音という言葉を理解すること
6歳の時に、自分でも説明できないが、声を出して話をしなくなったエイダ。前の夫は無くなり一人娘のフローラと一緒に、未開の地ニュージーランドへ嫁ぐ。荒れる海、ぬかるみの密林に「チャタレイ夫人の恋人」に似た雰囲気を感じた。半分現地人のようなべインズは、彼女のピアノと土地を交換して、ピアノのレッスンをしてくれるよう願い出る。
流麗なピアノの調べを聴きながら、べインズが少しずつエイダに近づいて、触れて、匂いを嗅ぎ、服を脱がせていくのは、女性にとってエロチックな時間。エイダの言葉であるピアノをずっと聴いてくれて、見つめられ、少しずつ距離を縮めてくるべインズは、エイダのルールを尊重しながら、口説いてくる逞しい男性に見えたのではないか。逆に夫のスチュワートは、彼女の大事なもの、ルールを理解しようとしていない。エイダとスチュワートが結ばれるシーンを覗き見しているのも、エイダの性的能力を確認するかだけのようで、その後、無理やり関係を結ぼうとするのも、エイダを理解していない。娘のフローラも、周囲の人々の価値観に染まり、エイダのことを本当に理解していなかった。スチュワートが逆上して、エイダの右人差し指を切り落としたのには、「やっちゃった」感。エイダがスチュワートに触れていたのは、彼女の性が解放され、べインズを求める気持ちからの行動か。
エイダを諦め、べインズと祖国イギリスに帰ることになったが、船上からピアノを捨てようと切り出したのは、ピアノがあることで、べインズ、娘、自分の命まで危険に晒すから。
彼女は、もう既に孤独ではない。愛する人がいる。今までの孤独な過去の自分に決別するために投げ捨てた。ピアノの縄が絡みついて、(一瞬、自殺かと思ったが)海中深く引きずり込まれるが、そこから靴を捨てて、這い上がったのには彼女の強い生きる意志を感じた。
厳しい自然と、不便な時代に、不器用な、しかし、並外れた強い意志の女性。その女性が、自分のために骨を折って、愛してくれる男性と出会って、激しい愛が芽生える物語だった。
監督は、女性と聞いて、女性の自立、女性と男性のもつ言葉の意味の違い、すれ違いを、言葉を発しない代わりにピアノを演奏する女性という設定で描いたようにも見えた。
無垢なるはピアノの音色だけ
ホリー・ハンター演じるエイダのまるで人形のような美しさが印象的だった。
幼い時から言葉を話すことを止めてしまったエイダにとって、美しいものは亡き夫との思い出と分身のようなピアノだけ。
それ以外のものは極端に猥雑に描かれているように感じた。
マオリ族も白人も、彼女の新たな婚約者であるステュワートも、唯一血の繋がった一人娘のフローラでさえも。
ステュワートは彼女の分身であるピアノを重くて運べないという理由で浜辺に置き去りにする。
後日、白人でありながらマオリの刺青を施したベインズに、彼女は砂浜まで連れて行って欲しいと頼む。
砂浜でピアノを弾く彼女の姿を見て、ベインズはピアノと自分の土地を交換しないかとステュワートに持ちかける。
最初は真心からエイダのためにピアノを運ばせたかのように思われたが、結局彼が欲したのは彼女の身体だった。
ベインズはレッスンを一回受けるごとに、ピアノの黒鍵を彼女に返すと誓う。
レッスンの間だけ、エイダは卑猥な要求をされるものの、自由にピアノを弾くことが出来る。
時折狂ったようにピアノを弾く彼女の姿が印象的だ。
最初はベインズを拒んでいたエイダだが、次第に彼に心を惹かれるようになる。
そして彼と身体を重ねるピアノレッスンだけが彼女の心をときめかせる時間となる。
エイダがベインズと関係を持っていることを突き止めたステュワートが、現場に乗り込むわけではなく、床下に隠れて行為の一部始終を覗く姿も異様だ。
そして告げ口をすればどんな悲惨な事態になるか想像が出来るはずなのに、フローラはエイダがベインズへの想いを綴った鍵盤をステュワートに渡してしまう。
怒り狂ったステュワートは斧でエイダの指を切り落とす。
すべてが狂っている中で、ピアノの音色だけが美しく響く。
それこそほとんどの場面が猥雑であるにも関わらず、ピアノの音色とエイダの美しさによってこの映画はとても神秘的な印象を観る者に与える。
最終的にステュワートは自分ではエイダの心を救えないことに気がつき、ベインズに彼女を託す。
過去に鑑賞した時は、ピアノと共に海に沈むエイダの姿が印象的だったので、そのまま彼女は死んでしまったものと記憶していたが、実際は自力で海上に這い上がった彼女はピアノの教師として新たな人生を送るというラストだった。
時折海底に沈むピアノを夢見ながら。
全編を彩るマイケル・ナイマンの音楽がとても心に沁みた。
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