「ママは自己中」ピアノ・レッスン(1993) かばこさんの映画レビュー(感想・評価)
ママは自己中
今回初見。以前から評判が良いので見に行こうと思っていたが、よくある香り高いだけで???な「芸術作品」である可能性も頭に入れて観に行った、なにしろカンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作だから
でも、見事に杞憂でした。
ジェーン・カンピオンは、人間の心の複雑さを、セリフに頼らず第三者である観客が見て納得できるように、曖昧にぼかすことをできるだけ避けて、的確に描く達人だと思う。「パワー・オブ・ザ・ドッグ」でも同じようなことを感じたので、彼女の作風なのだと思う。
こぶ付き出戻り(死別らしい)のすでに若くなくさらに障害ある娘を抱える家、イギリス本国の上流家庭から嫁を迎えたいが来手がない未開のニュージーランドの入植者、両家の利害が一致してエイダ母子の輿入れとなっただろうが、体の良い厄介払いで、仕方ないのは分かっていてもエイダには納得がいかない。その上言葉代わりの大事なピアノの回収を拒まれ、あろうことか夫は土地と交換に下心丸出しの他の男に渡してしまう。彼女の所有物なのに。なので、夫に心を開かない気持ちは分かるが、夫の親族、使用人たちにすら頑なだ。
エイダには彼らをひとまとめにして「嫌悪」と「蔑み」があるようで、なかなか嫌な感じの女性だと思った。
幼い娘もそんな母の気持ちを代弁するように、生意気で何様!?な口の聞き方。
この母子にげんなりしたが、娘・フローラがそんな言い方をするのは、母の前でだけだと気づいた。
幼い娘は物心ついたときから口の聞けない母の通訳、それどころか代弁者としての使命を課されてきたのだろう。母の心の動きに細心の注意を払って意図を的確に汲み代弁する、それが染み付いているのだ。
娘は母が大好きなので、細々と、気持ちのケアも含めて母の世話を焼く。それを喜んでいるよう。母の方はずっと、娘を自分の都合で振り回して、しかもそれに気づかないくらい当然と思っているのだ。
生意気な口を聞いていたフローラがいつの間にかスチュアートを「お父さん」と呼んでおり、自分をないがしろにする勝手な母のことを告げ口する。これが子供だ。その時々で後先考えず思ったとおりに行動してしまう。
自分の告げ口で母は指を失い、大事になってしまって泣き叫ぶのは、自身の罪悪感が大きいと思う。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」もそうだったが、母親に翻弄され、母が大好きなばっかりに幼い考えからとりかえしのつかないことをしてしまう子供が描かれている。
彼らは罪悪感に苦しめられる人生を、愛する母に課されてしまったと言える。
こういう子供は、表立たないが時代を越えてずっと存在し続けていると思う。
自分の幸せを追い求める親の影で、犠牲を強いられる子供はどうしたら良いのか。
色白で華奢なホリー・ハンターが、艶かしく妖しく美しい。口が聞けないのでボディーランゲージが豊かで、姿の艶かしさがさらに増しているよう。これでは男たちが虜になるのは当然だ。
夫スチュアートは、利益優先。
利益>妻 なので、妻の大事なピアノを土地と引き換えにベインズに渡した上に、妻には彼のところにピアノ・レッスンしに行け、などと平気で言う。下心ミエミエの男一人のところに美しい妻を行かせて一対一でピアノ・レッスンって、どう考えてもヤバい予感しかないが、それよりも利益が重かったようだ。
で、やっぱりなるようになってしまった。
粗野で顔に入れ墨入れて現地人に同化したようなベインズだが、「君を淫売にしたくない」と、エイダの尊厳を優先して欲望を我慢するジェントルマンな心があり、これをやられたらベインズに惹かれるのは必然。強引なようでエイダの気持ちが追いつくのを待ち、決して無理強いしない態度は一貫しており、女の気を引くためにその場限りで良いこと言ってるわけではないと分かるし、そんな芸当ができる器用な男でないのも分かっている。朴訥で誠実、しかもガタイが良いと来たら、心身ともに惹かれるのは必然だ。
男女が不倫に落ちる過程に納得してしまった。
妻と盟友(商売仲間?)の不義を知っても、その場で踏み込むことをせず床下に侵入してまで見届ける夫の気持ちはよくわからないが、彼はどこか自分の男としての魅力に自信がなく、強く出られないように見えるので、妻と妻を悦ばせているベインズの反応とか確認したかったのかも。ただの興味本位かもですが。
ふたりの絆を見せつけられて、妻が絶対に自分に靡かないのを確信したら、夫としては妻を解放するしかない。とどめておいても惨めなだけ。ただ妻に意地悪するためだけに手元に置いたら自身の幸せも程遠くなる。指を切り落として妻に忘れられない印を残したことで、もう良いじゃないかと判断したのだろう。計算高いスチュアートらしい。
ベインズと共に出ていくエイダが「ピアノを捨てて」というのは、新たな自分となる決意が分かりやすい。ピアノと一緒に沈んだ片方の靴は、今までの自分を脱ぎ捨て、ピアノとともに置いてきたということでしょう、そして自力で浮上する。これが人生、これが生きることだ。
幸せは、自己中と言われようと自身で掴みに行くものだ、というこれもまた分かりやすいメッセージを感じました。
(個人的には、不倫しても、娘を良いように振り回しても、いっさいの罪悪感をもってないようなエイダがサイコパスのようでちょっと怖い)
その後、3人で幸せに暮らしている様が語られて、温かい気持ちで見終えることができた。
こういう話とは思わなかった。
海底に沈んだピアノに繋がった女性の姿にぎょっとしたけど、これは、ピアノと共に古い自分を沈めたエイダのイメージと思いました。
実は彼女は浮き上がれずに死んでいて、ということではないと思う
スチュアートの母だかおばだかが、エイダのピアノの弾き方が気持ち悪いようなことを言っていたが、私もそう思った。
不穏で気持ちをざわつかせるような、神経を逆なでするようなものに感じました。
ハーヴェイ・カイテルが悪徳警官とかイタリアン・マフィアとか、粗野で無神経、即物的なイメージなので、本作も「強引に美しい人妻を奪ったら、人妻も彼に溺れるようになった」ような話かと思ってしまったら、良い意味で裏切られた。
顔つきが、荒々しい中にも朴訥で思慮のあるジェントルマンぽく変わっており、さすが俳優。
演技だけでなく雰囲気までなりきる役者ぶりに感心しました。
かばこさん
そうなんですよね。
あの調律はポイントが高い。エイダにしてみれば心の表現の基本ですからねー。なかなかのベインズですよね。
そしてさきほど、ベインズのベがへでした😅
バングロスさん
こちらにもメッセージ、ありがとうございます。
ベインズは、粗野だけどヒトとしては上級のハートを持っていたようで、惚れてしまいます。
自我が強い、は何かを推し進めるうえでは不可欠なのかもしれませんね。何某かの障害を持っていたら、なおさらかも。
ジェーン・カンピオン監督自身がそういう信念を持たざるを得ない経験をしたのかもしれないですよね
共感ありがとうございます。
エイダが夢中になっていく様子を思い出しながらかばこさんのレビューを読みました。
ヘインズには夫にはない真っ直ぐな魅力がありましたね。
そして、たしかに自己中なママ!なので娘が心配で。
ラストの様子にようやくちょっと安心しました。
コメントと共感ありがとうございます。
かばこさん、素晴らしいレビューですね。
読ませて頂いて、さらに今作を理解できたように思います。
私もエイダの自己中ぷりにフローラが可哀想でした。
「変態」への共感嬉しかったです笑
かばこんさん、拙レビューへのコメントありがとうございました。
本当に、本作には、いい意味で「裏切られ」ました。
これほどの物語をどうして産み出せたのかと驚くしかありません。
かばこさん仰る通り、本作は「言葉」をめぐる物語でもありますね。
ピアノと、娘フロラという、エイダにとって命にも匹敵する大切なもの。
それを理解したのが、ベインズだったのですね。
私の少ない障がい者の知人で自立した研究者として活躍されている方々が複数いらっしゃるのですが、いい意味で「自我」がお強いな、と思います。
カンピオン監督、その辺もリサーチされての作劇だったのですかね。
琥珀糖さん
ヘインズ=ハーヴェイ・カイテル、魅力的でしたよね、溺れてしまうエイダの気持ちがとってもよく分かります。
この映画、公開時に見てなかったんですが、歳を重ねた今見て良かったと思います。
「映画とはこんな表現ができるのだ」同感です。
人と人の複雑な感情を、整理すること無く複雑なままで納得納得できてしまうんですね~ 私もこの映画の表現力に惚れ惚れしました。
ごめんなさい。
続けますね。
本当にエイダは娘に取って最低の自己中な母親ですね。
私もそう思います。
だからベインズのハーベイ・カイテルが魅力的でこの映画で見直したし大好きになり、その後作品を探して観ました。
稀有なラブストーリー。
女の身勝手さ。
事故中のため、自分の欲望のみを優先するエイダ。
大好きな作品で、
映画とはこんな表現が出来るのだ・・・と、目を開かされた分岐点に
なった映画です。
かばこさんの分析、とても共感して納得です。
かばこさん
素晴らしいレビュー(考察)ですね。
エイダははじめからスチュワートを小馬鹿にしていましたね。
スチュワートはいわば真面目で臆病で自分に自信がない。
ベインズは見た目とは違って知的で「鍵盤1個~2個」を返すことと引き換えに
エイダを手に入れていく。
そこに打算はないですね。
スチュワートのようにベインズの土地と引き換えにピアノを売ったり、
妻をたった一人でレッスンに通わせる打算は無い。
ただエイダを愛して彼女の望みを叶えてやる。
簡単に言えば、エイダの「足長おじさん」
ただしエイダは人妻で子連れだという。
talismanさん
共感、ありがとうございます。
ジェーン・カンピオン自身、そういう子供だった、などないでしょうか。
talismanさんの解説、興味深いです。
神聖な土地にはみだりに手を加えない、現地の人達の土地へのふるまいは、文化の違う欧米からの入植者には「ほったらかし」でしかない、ということなんですね。
だから自分たちが手に入れて開拓してよい、ってことみたいですが、ものすごく傲慢な理屈で、そういう自己中はいまだ欧米の人達の根っこから消えていない気がしますね
ハーヴェイ・カイテルの演技の幅広さに感動、カバコさんに大共感です!
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」にも見られた、愛する母に翻弄され行動する子ども、そっかー、目からウロコでした!