裸のキッスのレビュー・感想・評価
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「闘う女性」を描く女性版ノワールにして、アメリカン・ニューシネマの先駆ともなる社会派映画。
サミュエル・フラー監督の代表作を、シネマヴェーラの「怖い映画」特集にて、ようやく初視聴。
たしかにこいつは面白い。
まさにシネマヴェーラのパンフに書かれた、「フィメール・ノワール(女性版のノワール)」という謳い文句は的を射ている。
そもそもノワールとは、「社会的弱者を主人公として、閉塞的な状況のなか、やむを得ない社会の圧力やひずみに抗ってもがき、あがく姿を描きだす」ジャンルであり、大恐慌時代のあとの30年代後半に自然発生的に始まったとされる。
その「結果」として、市井の主人公がファム・ファタルに籠絡され犯罪に加担する、もしくは私立探偵の主人公が大都市で起きる事件の闇を追う、といったフォーマットをとることが多いが、それが必要十分条件というわけではない。
さらに戦後、このノワールの特質には変化が生じる。
空前の好景気を迎えて、主人公を追い詰める要素としての「貧困」が必ずしもファクターたりえない時代となり、犯罪者の転落劇の「理由」が、どちらかといえば心の闇だったり生来の犯罪傾向だったりといった、「内面の歪み」に求められるようになったのだ。
そんな戦後ノワールの空気感を最も体現するのがジム・トンプスンの小説群だとすれば、『裸のキッス』が公開された1964年というのは、ちょうどトンプスンが『ポップ1280』を世に問うた年である(両者には、閉塞的な寂れた地方のスモールタウンの空気感や、突発的な暴力の発露、病んだテンションの持続など、共通点が多数存在する)。
その一方で、「フィルム・ノワール」自体の量産期はすでに50年代に終わっている。
60年代のフィルム・ノワールは、低予算のモノクロ映画という制限下で追求された映像美学と、ヘイズ・コード下に練り上げられた象徴的な様式に別れをつげて、「カラー」と「直接的暴力描写の解禁」という「表現上の豊穣」を得てなお、「ノワール的」な要素をいかに引き継ぐべきかに焦点が置かれていたといっていい。
サミュエル・フラーは、60年代の新たな映画手法を踏まえて、モノクロは維持しつつも「新機軸」のノワールを撮った。
それが、「戦うヒロイン」を田舎町に放り込んでみせる「フィメール・ノワール」だったのだ。
冒頭の鮮烈なシーケンスは、まさに伝説的だ。
ジム・トンプスンが『おれの中の殺し屋』(1952)で描いた娼婦タコ殴りシーンのネガ(というかポジ?)ともいうべき、POPでキッチュでリズミカルなワンツー、ワンツーのKO劇。
衝撃的な例の「坊主頭」は、ジェンダーの超越をも意味しているのかもしれない。
このワンシーンだけで、本作は「女が男を殴る」世界観の映画であること、事態の解決に衝動的暴力が悪即断で用いられる映画であること、既存の「男と女」の枠組みを踏み越えていく映画であることが強烈に印象付けられる。
単に奇をてらっているだけでなく、映画のテーマと深くリンクしている。
だから一度観たら忘れられない。
ただ、冒頭の異様にPOPでグルーヴィーなノリは、実は持続しない。
このあと映画は沈静化し、まさに「女性版」のノワールらしい描写が積み重ねられる。
ポン引きに引導を渡して2年、ケリーは売春婦として田舎町グラントヴィルにやってくる。
まずは街で顔が利くグリフ警部と寝るのだが、その後、彼女は一念発起して売春業から足を洗い、障碍のある児童たちの施設で看護師として働き始める。
子供たちに慕われ、同僚にも頼られ、富豪のグラント(街の創設者一族だから街と同じ名前なのね)とも恋仲になり、更生後の人生は順風満帆に思われたが……。
この映画の「ノワール」としての最大の特徴は、一般的にノワーリッシュとされる要素をヒロインと周囲に敢えて「振り分けている」ことではないかと思う。
社会の閉塞感のなかでもがき、なんとか生きるためのよすがをつかもうとする「正の要素」は、そのままヒロインの属性として付与しながら、通例「主人公側が抱えている」ことが多い鬱屈や異常性、心の闇、犯罪への傾斜、対人依存といった「負の要素」の多くは、全部周囲のその他大勢のほうに与えられているのだ。唯一、「暴力衝動」だけはヒロインの属性に振り分けられているので、われわれは本作を「ノワール」だと感じるわけだが、そうでなければむしろ「西部劇」に近いノリだともいえる。
犯罪映画の枠組みを借りて、アメリカ社会の欺瞞を暴き、告発するという意味で、本作は正しくノワーリッシュな作品だ。だが同時に、「犯罪に手を染めるヒロイン」を描く映画としては、ヒロインは驚くほど健全で、正しく、前向きに設定されている。彼女は猛烈な怒りを相手に直情的にぶつけるが、その純粋で穢れのない激情の発露は、犯罪者気質というよりは、「闘士(ファイター)」の属性として描かれるかに見える。
要するに、本作は女性を主人公としたノワールでありながら、主人公からノワール的な要素を洗浄して、代わりにヒロイズムを付与することで、「闘う女性のための映画」としての視座を手に入れたのだ。
同時に、街に来たときと街を出て行くときの双方で、乳母車のなかの赤ちゃんにケリーが慈愛に満ちた目線を送るシーンが象徴的に置かれていることからもわかるとおり、ケリーが「闘う」理由の中核にあるのが「母性」だということも、強調されてしかるべきだろう。
僕個人は、むき出しにポリティカルな映画やウーマン・リブを標榜するような映画はむしろ吐き気がするくらい苦手なのだが、こういうキャラへの感情移入と共感を中核に据えた「エール」なら、大いに受け入れられる。
本作には、女性や、障碍者、子供といった「弱者」への胸の奥がひりつくような共感と、それを食い物にする男性社会や売春組織、小児性愛者に対する暴力的な嫌悪感が満ち満ちている。
だからこそ、ヒロインのポン引きに対する暴力、キャバレーの女主人に対する暴力、富豪に対する暴力は、あっけらかんと「正当化」されるわけだ。
その「正当化」の過程はいささか強引で、手際が雑な部分もあるが、結局のところは、ヒロインのケリーを演じるコンスタンス・タワーズの魅力にのっかっているといえる。
人より一割増しくらい大きな目、大きな口、大きな額。
コンスタンス・タワーズの生き生きとした押しの強い演技は、ケリーという女性の強さと優しさを観客に強烈に印象付ける。まさにこの女優が演じたからこその説得力。
こんな良い女優さんの主演作が、これくらいしか知られていないなんて、なんでだろう?
と思って英語のWikiを見てみたら、この人、この映画の後ですぐブロードウェイのほうにキャリアを移行して、『サウンド・オブ・ミュージック』や『王様と私』でヒロインを演じてるんだね。たしかに、本作でも病院のお遊戯会で、場違いなくらい上手い歌声を披露してたよな。
(あのシーンは突出して魅力的すぎて、映画としてのバランスを壊してしまうくらいだった……。)
どうなんだろう? 頭まで剃り上げて挑んだ意欲作がイマイチ当たらなくて、見切りをつけちゃったんだろうか?
なんにせよ、本作が60年代としては衝撃的といっていいくらい、「社会派」の映画だったことは間違いない。
真正面から「女性の権利」と「障碍児童の幸福」について見据え、男性社会の差別構造と性犯罪を糾弾したその内容は、必ずしも当時の観衆には受けなかったかもしれない。
むしろ、今観て改めて、そのメッセージ性の確かさとまっとうさが痛感される映画だといえる。
同時に、女性の殴打によって社会的閉塞を打ち破るそのありようが、アメリカンニューシネマの先駆けとして、来たる時代の空気感を準備している点も見逃せない。
ただ、まあ相手が性犯罪者だからといって、自分が手を出されたわけでもないのに一方的に殴り殺した人間を無罪放免にしたら、法的にも道徳的にも絶対アウトだと思うけどね。
あと、作中でケリーがこれみよがしに読んでるペイパーバックの『Dark Page』ってすげえ気になってたんだけど、これサミュエル・フラーが書いた本なんだってね。読んでみたい!!
バイオレンスな熟女
この女の人は許せないことがあると同性だろうが異性でも暴力を振るってしまうクセが。 あの時代に女一人逞しく生きて行くのは自立した強い女性像として尊重も出来るが言う程の美貌には見えないしオバさんにしか。 刑事のコロコロと変わる態度や人間性には軽蔑してしまうし理由が何だろうが罪を犯している訳でそんな終わり方ありますか!? スッキリしない。
人生の再スタート
シャンペン1本が10ドルという安さのため、一瞬で売春婦だとわかった警部グリフ(アイズリー)。グリフは町では信頼されてる警官であるのに女を買い、なぜだかケリー(タワーズ)に対しては同情的。 パーティの席上で知り合ったグラント(ダンテ)とケリー。2人は一瞬で恋に落ちる。彼女の過去を知った上でプロポーズするのだった。しかし、そんな折、グラントが幼児性愛者であることを知った時、怒りのあまり彼を殴り殺してしまう。そのような男のキスを“裸のキッス”というのだそう。 留置場に入れられていたケリーだったが、やがて少女の証言により、無罪放免で釈放されることになった。 怒りにまかせて殺人を犯したのに罰せられないことには納得がいかない。せめて正当防衛であることが証明できればよかったのに。殴って殴ってカツラが落ちて禿げ頭を見せるケリーの冒頭のシーンとか、映像表現は面白かったのに、何を言いたい映画かわからない。
変質者のキッスのこと
娼婦をしていた主人公が立ち直るため、誰も知らない街にやってきて、看護婦として働き始める。 周りの人たちは派手なオーラを出す主人公を訝り、男たちは好色なまなざしを向ける。 道を踏み外しそうになる女たちに思わず手を差し伸べる主人公だったが、街の名門一家の跡継ぎに惚れられる。 そして事件が起き・・・。 サミュエル・フラー監督のサスペンスは面白い。
60年代アメリカの田舎って…
住民は開拓者筆頭に白人しか見かけないのに、子供たちの病院だけいろんな人種が混在するパラダイス。 まだベトナム戦争前、片田舎の街には看護婦か州を跨いで行う売春婦しか職業選択がないに等しいのかな。
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