劇場公開日 1967年3月11日

「戯曲はさておき映画としては時代の経過とともに陳腐化した作品」バージニア・ウルフなんかこわくない 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)

2.0戯曲はさておき映画としては時代の経過とともに陳腐化した作品

2024年6月6日
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鑑賞方法:VOD

タイトルの「バージニア・ウルフ」に興味を惹かれて見た。これは…小説家ヴァージニア・ウルフとは何の関係もなく、米国中流家庭の空洞化を描いただけの作品ではないか。しかも、演劇としてならいざしらず、映画としてはただの中年夫婦の夫婦喧嘩を通じて、内に秘める双方のエゴや虚構を暴いたもので、あまりに退屈だ。それが第一印象だった。

とはいえ、映画にも戯曲にも時代性はつきまとう。エドワード・オールビーの原作が発表されたのは、米国が黄金の50年代の後、変革の60年代を迎えた1962年、映画も1966年である。

小生は演劇には無知だが、早川の文庫本解説によると、この戯曲は「アメリカ演劇の内容と方法の枠組みを変換することになった歴史的問題作」だという。
当時の演劇界は、テネシー・ウイリアムズ、アーサー・ミラーらの商業演劇の成功と、ベケット、イヨネスコら「不条理演劇」の不成功との間の空隙を埋めるものが求められており、オールビーはそこに強引に割り込んで行った。

形式的には単なるリアリズムに過ぎないように見える彼の作品の新しさは何だったか。
「当時のリアリズムには表現上の写実主義とは別に、イデオロギーとしての因果律が鉄則のごとく前提」されており、「必然的に物語は予定調和的な構造に傾斜していく」ものだったため、「リアリズムという言葉とは矛盾する、むしろ作り物的な構造を内包」していた。そうした「リアリズムの虚構を打ち砕いたという点で、まさにアメリカ演劇の質を変えた」ということらしい。(一ノ瀬和夫「『邪魔者』登場」)
平たく言えば、常識的な「家庭」観念を打ち破ったということか。ならば、まさに時代性でしか語れない作品ではないのか?

米国映画には「家庭が第一」という価値観が、強迫観念ででもあるかのように執拗に繰り返し繰り返し登場するので、日本人としては面食らうことが多い。あるいは日本ではそれだけ「家庭は盤石」だと思っているせいかもしれないが、それはさておき、現在でも家庭第一主義が大手を振っているなら、60年代におけるその価値観の大きさは容易に想像できる。

経済的繁栄による物質文明の発展とコミュニケーションの拡大の中、片や若者文化がこの家庭を脅かす。例えばジェームス・ディーン『理由なき反抗』、例えばビートルズ『シーズ・リーヴィング・ホーム』、例えばヒッピー文化にベトナム反戦運動。
しかし若者に突き崩される前に、家庭の内実はボロボロ、スカスカではないかという糾弾には、それなりのリアリティ、時代のもたらす切迫感があったのだろうと想像する。

wikiは柄谷行人の「タマネギの皮をむくように現実の表層を剥ぎ取っていったら何も残らなかった。それでも元気を出せ、とオールビーは歌った。それは身に染み入るような感じだった」という評を紹介しているが、家庭崩壊の物語を反体制運動崩壊の比喩ででもあるかのように受け止める理解の仕方が、60年代の日本にはあったのかもしれない。今となっては陳腐化して意味不明としか言いようがない。

ただ、これを夫婦の普遍的関係の一つとして演劇にするなら、役者の力量を堪能できる作品には違いない。そのためか、本作はいまだに各国で上演され続けているという。
ちなみにこの三幕劇のそれぞれには、次のような幕の表題が付されている。
第一幕 たわむれ
第二幕 バルプルギスの夜祭り
第三幕 悪魔祓い
バルプルギスの夜に魔女が集って、悪の限りを尽くした後、最後に悪魔祓いをするのである。映画でも、テイラーが幻想の子にのめり込んでいくところを、バートンがキリスト教の経典を朗読しているのは、まさに「虚構の悪魔を払っている」という意味なのだろう。

徒然草枕