バージニア・ウルフなんかこわくないのレビュー・感想・評価
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戯曲はさておき映画としては時代の経過とともに陳腐化した作品
タイトルの「バージニア・ウルフ」に興味を惹かれて見た。これは…小説家ヴァージニア・ウルフとは何の関係もなく、米国中流家庭の空洞化を描いただけの作品ではないか。しかも、演劇としてならいざしらず、映画としてはただの中年夫婦の夫婦喧嘩を通じて、内に秘める双方のエゴや虚構を暴いたもので、あまりに退屈だ。それが第一印象だった。
とはいえ、映画にも戯曲にも時代性はつきまとう。エドワード・オールビーの原作が発表されたのは、米国が黄金の50年代の後、変革の60年代を迎えた1962年、映画も1966年である。
小生は演劇には無知だが、早川の文庫本解説によると、この戯曲は「アメリカ演劇の内容と方法の枠組みを変換することになった歴史的問題作」だという。
当時の演劇界は、テネシー・ウイリアムズ、アーサー・ミラーらの商業演劇の成功と、ベケット、イヨネスコら「不条理演劇」の不成功との間の空隙を埋めるものが求められており、オールビーはそこに強引に割り込んで行った。
形式的には単なるリアリズムに過ぎないように見える彼の作品の新しさは何だったか。
「当時のリアリズムには表現上の写実主義とは別に、イデオロギーとしての因果律が鉄則のごとく前提」されており、「必然的に物語は予定調和的な構造に傾斜していく」ものだったため、「リアリズムという言葉とは矛盾する、むしろ作り物的な構造を内包」していた。そうした「リアリズムの虚構を打ち砕いたという点で、まさにアメリカ演劇の質を変えた」ということらしい。(一ノ瀬和夫「『邪魔者』登場」)
平たく言えば、常識的な「家庭」観念を打ち破ったということか。ならば、まさに時代性でしか語れない作品ではないのか?
米国映画には「家庭が第一」という価値観が、強迫観念ででもあるかのように執拗に繰り返し繰り返し登場するので、日本人としては面食らうことが多い。あるいは日本ではそれだけ「家庭は盤石」だと思っているせいかもしれないが、それはさておき、現在でも家庭第一主義が大手を振っているなら、60年代におけるその価値観の大きさは容易に想像できる。
経済的繁栄による物質文明の発展とコミュニケーションの拡大の中、片や若者文化がこの家庭を脅かす。例えばジェームス・ディーン『理由なき反抗』、例えばビートルズ『シーズ・リーヴィング・ホーム』、例えばヒッピー文化にベトナム反戦運動。
しかし若者に突き崩される前に、家庭の内実はボロボロ、スカスカではないかという糾弾には、それなりのリアリティ、時代のもたらす切迫感があったのだろうと想像する。
wikiは柄谷行人の「タマネギの皮をむくように現実の表層を剥ぎ取っていったら何も残らなかった。それでも元気を出せ、とオールビーは歌った。それは身に染み入るような感じだった」という評を紹介しているが、家庭崩壊の物語を反体制運動崩壊の比喩ででもあるかのように受け止める理解の仕方が、60年代の日本にはあったのかもしれない。今となっては陳腐化して意味不明としか言いようがない。
ただ、これを夫婦の普遍的関係の一つとして演劇にするなら、役者の力量を堪能できる作品には違いない。そのためか、本作はいまだに各国で上演され続けているという。
ちなみにこの三幕劇のそれぞれには、次のような幕の表題が付されている。
第一幕 たわむれ
第二幕 バルプルギスの夜祭り
第三幕 悪魔祓い
バルプルギスの夜に魔女が集って、悪の限りを尽くした後、最後に悪魔祓いをするのである。映画でも、テイラーが幻想の子にのめり込んでいくところを、バートンがキリスト教の経典を朗読しているのは、まさに「虚構の悪魔を払っている」という意味なのだろう。
ヘイズコードにトドメを刺した作品とゆうことで興味を持って鑑賞(Wi...
ヘイズコードにトドメを刺した作品とゆうことで興味を持って鑑賞(Wikipedia調べ)
ほぼ2組の夫婦の登場人物ほぼ4人で進む会話劇。
夫である男2人は、対面的な男らしさ家長としてのプライドを守ろうとしているのに
それがボロボロと剥がれていき
妻である女たちは、理想的な妻としての振る舞いはまったくしない(全然幸せそうでもない)
実に人間らしい4人が、もがき苦しみながら、なんとか対面を保つように振る舞おうとする様がとても滑稽。
まったく“正しくない”家庭像を描いたこの作品がヘイズコードを終わらせたのはとても興味深い。
配信で鑑賞
発見の妙
不条理劇「動物園物語」を書いたエドワード・オールビーのもう一つの“題名は聞いた事のある”戯曲が同作。
そもそもバージニア・ウルフという人にしてからが、名前は耳に馴染みがあるのに、謎。ウィキを見れば記憶の通り前世紀前半に活躍した先鋭的な女性作家。舞台でもおなじみの「オーランドー」や「ダロウェイ夫人」を書いたが、カギ括弧のない一人称の語りがページを埋め尽くしてるのを見ると「またいつかね」と閉じてしまう。
閑話休題。モノクロ映画。熟年夫婦二人の宅に、若い夫婦二人が夜遅く訪れる開始から引き込まれて目が離せない。この映画を撮ったマイク・ニコルズは元々舞台俳優でこれが監督一作目というが、秀作。次作「卒業」で賞を取った。
見終えた後クレジットにエリザベス・テーラーの名を発見。ヘプバーンに先行する米映画界の国民的ヒロイン、といった評を昔から耳にしていたが、この女優の演技姿を初めてちゃんと見たのが、一ヶ月ほど前、ジェームス・ディーンが出演した僅か3本の一つでついぞ観なかった「ジャイアンツ」。
この作品が長尺ながら名作と言える内容であった。(確か中学の頃JD出演のこれは「理由なき反抗」「エデンの東」に比べていまいち、なんて無神経な風評が流れていた。十代とはそういうもの)
「ジャイアンツ」の10年後が、「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」(1966)。モノクロ映像という事もあるが、気づかなかった。計算すればこの時エリザベスは30代。50代と見紛う爛れた風情は仰天ものだ。その夫を演じた、実生活でも夫だったリチャード・バートンは40過ぎだがこれも定年間近な教授の風情。
学長の娘に惚れられ、結婚を選んだ夫と妻の晩年の悲哀がじわじわと・・。若い夫婦との取り合わせも対照的で効果的なのだが、突出しているのがエリザベス・テーラー。清純で逞しいテキサス移住妻を演じた20代のテーラーとのギャップと合わせて見物。原作者オールビーもテーラーもバートンも英国出身だがあの誠実な雰囲気はどこから来るのだろう。
ともかく「ジャイアンツ」と共にお勧め。
不条理でどうやって終わるのか?それだけが気になって♥
話が不条理で、どうやって終わるのか?それだけが気になってしまった。
話のオチは予想したと通りで、何一つひねりはなかった。
まぁ、1966年と言う年代を考えれば、夫婦のあり方なんて、この程度なんだろうが、今の道徳や性差を考えると、女性からたけでなく、男性からも容認できる内容になっていない。
要は古い価値観で話は進んでいる。
さて、と言いつつ、最後まで見入ってしまった理由は、台詞の多さと言い回しと、不条理な会話がマシンガンのようだったからだ。つまり、『渡●世間●鬼はな●』の長台詞に似ているのかもしれない。僕は『渡●世間●鬼はな●』を全シーズン見ているが、その理由は会話にあったと思っている。ストーリー自体は何一つ感動できる内容ではないけどね。
この映画も同じだと思う。
エリザベス・テイラーさんやリチャード・バートンさんの演技力については、僕は役者じゃないので分からないが、役者なのだからこのくらい出来るのは普通だと思う。
もっとも、日本の役者はイメージを先行して作り、それを崩さぬ様に演技をすると思う。そう言った意味では、エリザベス・テイラーさんはよくやっていると思う。しかし、濡れ場を演技するとかまでは行っていないのだから、アメリカだってイメージは大事にしている。だから、アカデミー賞を取れたのだろう。濡れ場まで撮れば逆に受賞は無理だ。カンヌになってしまう。
多分、初見だと思う。
優雅な役どころで受賞してこそ、エリザベス・テーラーではないのか…
全般的に不快な話だ。
この作品から我々は何を楽しみ、
何を学べば良いのか。
最近「死刑台のメロディ」という映画で
冤罪で死刑になる主人公の
「利他する幸福を」
という息子への書き置きが印象的だったが、
この作品の登場人物は
その言葉とは裏腹な自分本位な印象だ。
主人公の夫婦は異常な程
がさつで悪態の吐き合いに終始するが、
本題に迫るために
ここまで極端な夫婦像にする必要があるのか
理解出来ないと共に、
そこには何のリアリティも感じなかった。
また、基本的に分からないのが、
登場人物の4人を
かなりの深酒の中に置いたことだが、
このような設定は問題を余りにも特殊解化
することにならないだろうか。
また、舞台の映画化には
リアリティ的改変が必要になるはずだが、
この作品では余りにも演劇的過ぎて
違和感があった。
この夫婦に子供はいないのだろうことは
見え見えだが、
いないはずの息子の死を告げる夫の対応も
今更と感じる。
酒に溺れる夜が
子を成さなかった夫婦の苦しみの期間で、
夜明け以降が
それを癒やす期間の象徴として、
この作品のテーマが子の無い夫婦の
心の彷徨だとしても、
余りにも設定が安易に感じられる。
舞台劇の映画化で成功した作品として
「探偵物語」「フロント・ページ」
「ジーザズ・クライスト・スーパースター」
などを思い出すか、
この舞台劇のデフォルメ感を
そのまま映像世界に持ち込んだこの作品が
とても映画化に成功しているとは思えない。
この作品が
「アルジェの戦い」「わが命つきるとも」
「夜の大捜査線」「昼顔」の名作揃いの年での
キネマ旬報11位とは驚きだ。
また、エリザベス・テーラーはこの作品で
アカデミー主演女優賞を得た。
思い出すのはグレース・ケリー。
彼女も「喝采」での
化粧を落とした素顔的演技で
アカデミー主演女優賞を得ている。
この作品のエリザベスも
力演ではあるだろうが
彼女の優雅さをかなぐり捨てたかのような
演技だからの女優賞では
私は素直に賛同出来ない。
彼女らしい優雅な役どころで
受賞を得てこそ
エリザベス・テーラーではないのか。
これまでも
「陽のあたる場所」「ジャイアンツ」
「クレオパトラ」等々、たくさんの出演作品を
観てきて、最近も彼女の主演作品として
「熱いトタン屋根の猫」と「バターフィールド8」
とこの作品を続けて観てみたが、
もう彼女を前提での作品選択をする必要は
ないような気もした。
何じゃこれ?何言いたいの?
2時間10分、延々と原因不明の夫婦喧嘩が続きます。
先にいいところ言います。役者の演技は最高水準の迫力です。演出は舞台劇の良さを生かすような奥行きのある空間演出とカメラワークや画面展開がさすがです。
内容については最悪ですね。
トニー賞とった舞台劇だから名作らしいけど、喧嘩内容にドラマもサスペンスもないし、ただひたすら言い争うだけ。さすがに1.5倍速で耐えましたが叡山の苦行僧の心境です。
批評家の解説には、夫婦喧嘩を通じてお互いの本性が現れ・・・・、なんて書いてあったけど、夫婦喧嘩なんて世界中どれでもそうですよ。
映画に限らず、面白かった人はつまらなかった人に「じっくり観れば面白い」なんて言って、確かにじっくり観れば何を言わんとしているのかわかるのかもしれないけど、つまらなすぎてじっくり観る気なんか起らない。
とにかく、何を言いたいのかサッパリわかりません。
本当の夫婦とは何かを考えさせられる
強烈、鬼気迫る演技とはこのことか
エリザベス・テイラーとリチャード・バートン
二人のものすごい演技に圧倒される
この二人、実生活も本当の夫婦である
本当の夫婦だからこそ出せる空気感、距離感が濃密にフィルムに写し取られている
全編酔っぱらいの二組の夫婦のいがみ合いだ
誇張されてはいてもリアリティーのある、世界中の夫婦が大なり小なり一度は経験したであろう口論と現実の夫婦生活の実情がある
もしないというのならこれから経験するのか
本当の意味で夫婦になっていないかだ
それは幸せのように見えて幸せでは無い
ままごとに過ぎない
お互いのここまでは許されるとの際限の無い無限地獄に落ちた甘えの行き着いた先がここなのだ
これもまた愛情を求めすぎた成れの果てなのだ
夜が明けてパーティーは終わる
若い夫婦も帰る
残された中年夫婦のこころの触れ合いこそが夫婦だ
あまりにも強烈な内容だ
若い時に見ても理解できなかったと思う
凄まじい、エリザベス・テイラーがアカデミー主演女優賞を獲るのは当然だ
監督賞のノミネートもしかりだ
夫婦愛
貶し合い、罵り合い、それでも夫婦愛が成り立っている。下手な喩えをすると関西の夫婦漫才のようだ。しかし、笑えない。若い方のサンディ・デニスの「電報を食べた」と証言するところにも疑問が残るし、何故そこまで夫婦で妄想するのもわからない。やはり、独身者が観るには理解不能な映画なのであろうか。。。
前半のほとんどカット無しの4人の演技は見事でした。舞台演劇を観ているようかの錯覚にも陥ります。
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