嘆きの天使(1930)のレビュー・感想・評価
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なぜか2回も さくじよされてしまったのでもうやめます。 何が問題な...
なぜか2回も さくじよされてしまったのでもうやめます。
何が問題なのか、どなたの気に障ったのか、さっぱり基準がわかりません。
小学生の頃に一度観て、もう一度鑑賞してみました。
ピエロになって、すべてを失ってでも溺れてみる、その恋心は罪でしょうか?
デートリッヒ実質的映画初出演作品です しかしそれよりもエミール・ヤニングスの鬼気迫る圧倒的な演技力 それをさらにひきたてる初期トーキーの演出にご注目
嘆きの天使
1930年4月公開、ドイツ映画
白黒トーキー作品
フランスのルネ・クレール監督の「巴里の屋根の下 」の3ヶ月後の公開
欧州でのトーキー映画はこの1930年頃から本格化しました
本作もその代表的な作品です
劇伴奏がありません
わざと劇伴をつけないという演出では無さそうです
劇中でだれも音楽を奏でていないシーンなのに、音楽が流れるのは、不自然に感じていたのかも知れません
サイレント映画の時代なら楽団が音楽をつけていたかも知れませんが、トーキー映画で演出の一環として声や効果音と一緒に劇伴音楽も入れておいた方が盛り上がるという発想がまだなかったのかもしれません
その代わり、ドアを開け閉めするとホールの音楽などの騒音が響いたり、無音になったりするのです
しかもドアの開け閉めの効果音と一緒に
これはサイレント映画の楽士にはできない芸当です
しかもデートリッヒのセクシーな歌唱がナイトクラブのステージシーンとして展開されるのです
また学校のチャイムが遠くから聞こえるもののように臨場感を高める為の効果音の工夫が凝らされています
これらはサイレントでは不可能な、トーキーならではの効果を追求しようというものだと思います
これは「巴里の屋根の下」と同じトーキーへのアプローチだったと思います
これらが、主人公のラート先生の胸が潰れそうな哀れな転落のドラマを観客に没入させる効果を大きく発揮しているのです
クライマックス
手品の助手としてピエロに扮して、かっての教え子達、町の人たちに己の転落した姿をさらします
哀れラート教授は夜の誰もいない真っ暗な、かっての自分の教室の教壇に顔を伏せ、教壇の縁を二度と離しはしまいというふうに固く握ったまま息絶えてしまうのです
これを演じるエミール・ヤニングスの鬼気迫る圧倒的な演技力を、これらの音の効果がさらに倍増させているのです
監督はジョセフ・フォン・スタンバーグ
この人はウィーン生まれ、子供の頃に家族と共に米国に移民したもの3年で帰国、14歳になって今度は一人で渡米
職を転々としたのち、ハリウッドの映画製作の仕事にありついて、1927年頃にはなんとか監督で映画を撮った人物
それでドイツ映画界のプロデューサーの目にとまり本作の監督に抜擢されたそうです
35歳でした
エミール・ヤニングスは、スイス生まれで、ドイツで名演劇人となり、ハリウッド進出して1927年、1928年と連続してアカデミー主演男優賞を獲得しています
しかしトーキー時代となり、彼の強いドイツ語訛りでは米国では最早やって行けずドイツに帰ります
それで本作に出演したという流れです
そして女優はマレーネ・ディートリヒ
本作出演時28歳
有名演劇学校出身の舞台人
1923年に映画に出演していますが、実質的には本作が初です
彼女の舞台をスタンバーグ監督が見て抜擢したそうです
彼女が演じたローラローラ
前半はおとなしく見えますが、後半になって行くほど、彼女は輝き出します
それがデートリッヒ、彼女の本性、素のままの姿なのでしょう
本作の時は、まだ普通の肉付きがあり、彼女を思い浮かべたときのイメージの鶏ガラみたいに痩せた体型ではありません
「100万ドルの脚線美」も健康的な太ももです
しかしこんな明け透けな下着姿は当時とすれば過激な映像で強烈な印象を与えたのでしょう
現代人の目からするとなんということもないものなのですが
彼女は本作で大ブレイク
ハリウッドに監督とセットで招かれて以後大ヒット映画を連発して世界的大スターになるのはご存知の通りです
ローラローラは悪女なのでしょうか?全然悪くないと思います
元からそんな女なのですから
勝手に精神を病んで衰弱していったのはラート先生なのです
一目見ただけで男の人生を破滅させるファムファタル、運命の女
先生にとって彼女はそうだったのです
出会ったことが不幸だったのです
いや写真を一目見たことが不幸の始まりでした
ファムファタルとはそれほど恐ろしいものなのです
でもローラローラには自分がファムファタルであるという自覚はないのです
先生にはオンリーワンの女性に見えていても、他の男性にはそうではないのですから
終盤の浮気相手にしても彼女を遊び相手にしか見ていないのです
女性のあなたも、いつか誰かのファムファタルになるのかも知れません
お相手を破滅させるのか、そうでないのか
その時初めて自分がファムファタルなのか分かるのです
タイトルなし
バッドエンドじゃ〜〜〜!
マレーネ・ディートリヒのローラ、無学ではあるかもしれないが無知ではなく、かと言ってドメスティックな逞しさもなく、セクシーだが肉体性はあまり感じさせない、不思議な存在感である。
しかしそれは、学問とギムナジウムの世界しか知らぬラート教授とて同じようなもので、教授の場合、無学ではないが無知であった(世間知がなかった)ということであろう。
ディートリヒの退廃的な魅力と名優エミール・ヤニングスの圧倒的な演技の表現力
名匠ジョセフ・フォン・スタンバーグが「モロッコ」の前に監督したドイツ・トーキー映画の最も初期の作品。ドイツの映画会社ウーファの大プロデューサー・エリヒ・ポマー(「アスファルト」「会議は踊る」)に抜擢されて渡独したという。主演はF・W・ムルナウの「最後の人」などで既に世界的名声を得ていた名優エミール・ヤニングスが務め、相手役にはベルリンの舞台に出演していたマレーネ・ディートリヒがキャスティングされました。ディートリヒはこの時、結婚出産を経験した29歳の女優兼歌手として活躍していたものの、無名に近かったようです。しかし、このドイツ映画の大作が公開されてから、スタンバーグ監督とディートリヒの運命は大きく変わることになりました。
題材は、ギムナジウム(中高一貫校)教授である実直で厳格なイマヌエル・ラート博士が、悪ガキ学生が通い詰めるナイトクラブの歌手ローラ・ローラの色香の魅力に取りつかれて我を忘れ夢中になり、終いにはそれまで築いた地位も名誉も自尊心も失う人生流転の転落劇と言えるでしょう。冒頭では、起床から出勤までのルーティンワークが描かれ、教壇に座ってからの鼻をかむ仕草まで決められた手順を繰り返します。身体は貫禄と威厳をそのまま現した巨漢で、口ひげと顎髭を揃えメガネをかけた風貌は知性と頑固さを窺わせます。ただ一つ変わったことは、鳥かごで飼う小鳥が死んで、さえずりが聴こえない出来事があり不安を誘います。エミール・ヤニングスの名優の名に恥じない安定した表現力に感心して観ていると、ナイトクラブの舞台に下着姿で歌うマレーネ・ディートリの退廃的な魅力、そして百万ドルの脚線美がセールスポイントになったのを証明する細く奇麗な脚を強調した仕草が見所になります。興味深いのは、ナイトクラブもしくはキャバレーと説明されるものが、小さい舞台がある芝居小屋のようで、楽屋も幾つか備えていること。この狭い空間の中の人物の動きが面白く、またカメラワークが的確に表現しています。それも座長兼手品師のキーパートや、ローラ・ローラに言い寄りラート博士の怒りを買うコンラッド号の船長も、ラート博士に負けない巨体の体格をしています。舞台では歌手を囲むように半円形に座る踊り子たちも、どちらかと云えば豊満な肢体をしている。ひとり細身のローラ・ローラが引き立つように考慮した人物配置です。またその踊り子や歌手たちが当然のように上演中にビールを飲んでいるのが驚きでした。この1930年頃の時代の数少ない大衆娯楽の様子を知る上で、とても参考になる舞台シーンが記録されています。
しかし、この背景の面白さとディートリヒの魅力以上に感心したのは、後半の展開にあるラート博士の落ちぶれた姿から精神に異常をきたす内面描写の凄みをみせたヤニングスの演技でした。道化師の化粧を自らするシーンから、故郷に錦を飾ると真逆の嘲笑される舞台で演じる鶏の鳴き声で発狂し、そしてラストシーンの教壇で硬直する姿までが、迫真の演技で釘付けにします。嗚咽のような声で博士の心の叫びを表現した、この演出こそトーキー映画の特質を生かした新しい技法であったのでしょう。最初のタイトバックは音楽だけで始まり、教室の窓を開ければ、外から若い女性たちの歌声が爽やかに聞こえてくる。楽屋のドアの開け閉めで、舞台の音楽が聴こえたり静かになったりと、細かい配慮がなされています。そんな音に拘り工夫した演出を感じるのも、この映画の楽しみ方です。家政婦が死んだ小鳥を無慈悲にストーブの火の中に入れて、初めてローラ・ローラと夜を共にした朝食シーンでは、小鳥のさえずりが聞こえる。この小鳥のさえずりが唯一の気休めだったラート博士は、ローラ・ローラが歌う恋の歌に酔いしれるのに変わり、仕事を失い貯えを使い果たし、最後は芸人となり雄鶏が無く芸を仕込まれる。嗚咽するところの何と残酷で厳しい演出と演技であろう。「最後の人」で初めて知ったヤニングスの、舞台やサイレント映画で培ってきた演技力に感服しました。
ディートリヒは、まだスターの輝きは無いものの、洗練されていない素朴な魅力に溢れています。それが同年にハリウッドに引き抜かれたパラマウント映画の「モロッコ」では、ゲーリー・クーパーより扱いが上になります。アメリカ映画界でもっとも都会的なセンスのお洒落な作品を制作していたパラマウントが、ディートリヒの美しさと個性を磨きました。「モロッコ」「間諜X27」「上海特急」のディートリヒと比較して観てみるのも、面白いと思います。
女性の色香の虜になって自滅する男の話では、サマセット・モーム原作、ルイス・マイルストン監督の「雨」(1932年)が思い出されます。こちらは牧師が主人公で、威厳のある地位の高い職業が共通します。この時代では、教訓劇として珍しくない題材でありました。
また、この映画に関わった俳優の経歴を調べてみると、結果論だが偶然にしても映画の内容と一致していて、創作と現実が絡み合い不思議な想いになります。アカデミー賞の第一回の主演男優賞を受賞したエミール・ヤニングスは、英語の発音にドイツなまりがありトーキーなってドイツに帰り、この映画が最大のヒット作となりました。劇中では英語教師役で生徒に『ハムレット』の有名な台詞の発音を叱責しているのが可笑しいですね。しかし、その後ナチスの熱烈な支持者となり、連合軍のブラックリストに載ったという。晩年の戦後はその為かつての名優としての活躍は無かったようです。ディートリヒは暫く映画で主演を続け、戦中は有名な(リリー・マルレーン)を歌う慰問活動でフランスまで行き、その後は歌手でも俳優でも名声を維持します。後半にローラ・ローラの浮気相手として登場する座長マゼッパを演じたハンス・アルバースという人は、ドイツで最も人気を博した俳優兼歌手で有名だそうです。そして、監督のスタンバーグは、この映画の5年後にディートリヒとの公私の関係を解消してから作品に恵まれず、1950年代初めにハリウッドで会った淀川長治さんの印象では、名監督の威厳は感じなかったと述べています。ローラ・ローラもディートリヒも、出会った男たちの運命には大きな差があるのです。ディートリヒ自身が、ファム・ファタール(運命の女)の資質をもった女性であり、色々な男性を虜にした魅力を永く持ち続けたと言えるでしょう。
最後に役名のローラ・ローラについて、このリフレインには何か意味があるのか、劇中からは分からず仕舞いでした。2005年のイギリス映画「キンキー・ブーツ」のドラァグ・クィーンのローラの名前は、この「嘆きの天使」から来ているのだろうか。当時ディートリヒの歌う姿が衝撃的であったのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「地獄に堕ちた勇者ども」で、ヘルムート・バーガーがローラ・ローラの下着姿を真似て登場するシーンで偲ばれます。
水商売の女に惚れるな!
コミカルな中にも教授の一途な想いが伝わってくる。50過ぎまでずっと独身を通していた教授はお世辞にもいい男とは言えないが、学校をくびになり、思い立ってローラにプロポーズして彼女は見事に受け入れた。旅の一座と行動を共にするようになったが、すでにヒモ生活をするようになったラート。ようやくピエロとして舞台に立つ決心をするが、次の目的地は故郷の“嘆きの天使”だった・・・
退廃的な魅力満載のナイトクラブ。舞台裏でのやりとりが多かったが、表舞台での魅力もたっぷり。真面目一筋だった男の末路は見事に表現されているのだ。結婚できたのはいいけど、まるで彼女の奴隷。愛するがゆえに嫉妬心も激しい。再起をかけてピエロとなる道を選んだのに、ローラを口説く男が現れたため気が気でならない。そして生徒たちが多数観客としてあふれているクラブで、仁王立ちになったラート元教授。手品師の助手としてだったが、とても楽しめるものではない。舞台裏へと暴れはじめたラートだったが、やがて放浪の末、元いた学校へと向かい教壇に突っ伏して死んでしまう・・・
恋多き女の歌が彼女の人生を表していて、まじめな男が水商売の女に惚れるなよ!という教訓でもあるかもしれない。虚しい・・・
悪女のせいではなく自ら破滅していった男の話
この映画の超要約的ストーリーとしては、
悪女に翻弄されて破滅していく男の話として
紹介されることが多いかと思うが、
何十年ぶりかで再鑑賞して、
違う印象を持った。
多分、彼は自ら破滅していったのだろう。
彼が社会的に認知されるのは
教授の地位があってのことなのに、
踊り子に熱を上げ過ぎて教授の地位を失う。
踊り子も、彼の自分を真剣に守ろうとする
姿勢に共感した部分もあったろうが、
結婚を受け入れたのは彼が教授だった
との要因も欠かせなかったろう。
だから、彼女は社会的地位も収入も失った
彼の代わりに他の男性に興味が移った
だけなのだから、
必ずしも彼女が悪女とは言えないだろう。
結婚当初、彼女は、教授の地位を失った
彼の状況を理解していたにも関わらず、
彼は自らの知性を活用すべき行動も
起こさない。
そしてヒモのような立場から、終いには、
元教授の道化師という客寄せ的役割を
受け入れられず、破滅する。
理性が感情に完全に敗北した
瞬間だったろうか。
彼は、彼女からの受動的な要因で破滅
していったのではなく、
自らの主体的な要因により破滅していった話
として認識し直した再鑑賞となった。
この手の話の原点みたいな映画で、
今となってはストーリーに新鮮さはないが、
デフォルメの効いた構図と陰影の
ドイツ表現主義を強く感じさせる要素満載
で、飽きずに鑑賞出来た。
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