「"Choose Life"を笑い飛ばし破滅に向かって暴走する危険でポップな青春」トレインスポッティング 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
"Choose Life"を笑い飛ばし破滅に向かって暴走する危険でポップな青春
1 "Choose Life"とは何か
映画の冒頭、主人公レントンは”Choose Life”に対する皮肉と嫌みの言葉を洪水のように吐き出し、「そんなもの、俺は御免だ」と宣言する。そして同じ文句のアドリブがラストでも繰り返される。つまり、これが映画を貫くテーマである。
この"Choose Life"とは、1980年代の英国政府によるアンチドラッグ・キャンペーンのキャッチコピーで、日本語にすれば「死ではなく生を選べ」=「死ぬな。生きろ」である。
日本でも「覚醒剤やめますか?それとも人間やめますか?」なるコピーが1980年代に盛んにTV等で放送されたが、その文脈では「人間やめるな」ということだ。
字幕では「人生に何を望む?」などという頓珍漢な翻訳がされており、ネットには「人生を選べ」「生き方を選べ」などと訳しているサイトもある。しかし、それではレントンがこのコピーを茶化して、小馬鹿にする文句が生きてこない。残念ながら原語を聴き取れないので、原作を紹介すると、次のようになる。
「生を選べ。ローンを背負った生を選べ。洗濯機を選べ。車を選べ。ソファに座り、ジャンク・フードをほおばりながら、退屈で気が滅入るクイズ番組をながめる暮らしを選べ。自分が産んだ、わがままでバカなガキどもにとっては居心地が悪いだけの家庭で、自分を呪いながら朽ち果てる生涯を選べ。生を選べ。/だが、俺は生を選ばないことを選ぶ。それを認めないと言うなら、それはやつらの問題だ」
つまり、ここでは「生きろというが、生きたってローンを背負ったり、洒落た車を買ったり、退屈なTV番組を見るだけの話じゃないか」と、ろくに選択肢のない社会を皮肉っているのである。
ところが「人生を選べ」と訳す場合、いろいろな人生の選択肢があるという前提になり、その後に続く否定的な人生が直接つながらないし、最後の「選ばないことを選ぶ」も選択肢の一つに過ぎなくなるから、皮肉が成立しないだろう。
そこで原作のこの部分を意訳すると、こんな感じだろうか。
<生きろだって? そりゃ、あんたたちが毎日やってるように、死ぬほどどうでもいい日常の細々したことにかかずり合って、バカな他人と調子を合わせ、愚かな自分のDNAを再生産しろってことか。そんなこと、金輪際お断りだ! 俺は「生きねえ」よw>
ま、そんなことを言っている訳だ。別に「自殺する」という明確な意志表示ではないにしても、「人生などどうでもいい」という態度――それは別に新しいことでも何でもない。今も昔も若い頃には誰だって、そんなことを考えたりするものじゃないか。
例を2、3挙げようか。
1)P・タウンシェンドの場合
大人の奴ら俺たちをこき下ろそうとしやがる
ただうろついてるってことだけで
奴らのやることなすこと全部クソ寒くなる
歳なんてとる前に死んじまいたいね
これが俺の世代だ
(『マイ・ジェネレーション』)
2)D・ボウイの場合
さて、ビリーは一晩中、自殺について喚き散らした
25歳になったらどうやって一発ぶちかますかを
覚醒剤とマリファナでね
25歳じゃ生きていたくもないだろうさ
(『すべての若き野郎ども』)
3)T・S・エリオットの場合
なぜなら、僕はもうすっかり知っている、すっかり知っている――
夕方も、朝も、午後も知っている、僕はコーヒーの匙で自分の人生をはかりつくした
はてさて、それだけの値打があるだろうか、わざわざやるだけの値打が、
日暮や前庭や水を撒いた大通りのあとで、小説のあと、お茶のあと、床をひきずるスカートのあとで――
さらに、あれやこれやたくさんの?――
赤や茶いろの海藻を巻きつけた海の魔女たちのそばにいて
僕たちは海の部屋でだらだら長居をした
人声が呼びさましたとおもったら、僕たちは溺れてゆくのだ。
(『J・アルフレッド・プルフロックの恋歌』)
2 明日なき暴走
ボウイは晩年、禁煙して健康維持に努め69歳まで生きた。エリオットは76歳まで生きて『キャッツ』なんてのも書いた。
本作の原作者アーヴィン・ウェルシュも今年で御年65歳である。『トレインスポッティング』でブッカー賞を獲った時だって、もう35歳になっていた。
そりゃ慶賀の至りではあるが、若い頃には社会の権威や良識に反抗し、世の中に背を向けて人生をないがしろにしたり、死を夢想するのはありがちなことで、彼らは現にそうしたのだった。ロマンティックな自殺願望、あるいは生の蕩尽への意志は若者の特権と言っていい。
本作に登場する若者たちは、別に自殺しようとしているわけではないが、長生きしてもろくなことはないとも思っている。だから未来など毛頭考えず、ひたすら現在の快楽追求に没頭する。サッカー、ロック、喧嘩、セックス、アルコール、そしてドラッグであり、それらを手に入れるための窃盗、詐欺、恐喝、売春等々の犯罪である。
特にドラッグは依存性が高く心身に大きなダメージをもたらすものが多いし、ヘロイン等には注射針を通じたエイズ感染という副産物もある。エイズは1980~1990年代には致命的な病気だったから、死刑宣告みたいなものだ。その意味では彼らが行っていることは、ブルース・スプリングスティーンではないが「明日なき暴走」と呼ぶに相応しい。
そこにはロマンティックな自殺願望などとはケタ違いに大きな危険が潜み、未来はもちろん生命さえ奪われかねない。半端な覚悟で出来ないことは確かであり、だからこそ怖いもの見たさ半分で小説を読み、映画に見入ってしまう。
しかし、見ていると、そこにあるのはおよそ「覚悟」などとはほど遠いポップな冒険とポップな危険の受容であり、「生」が限りなく軽くなっていく感覚ではないか。良くも悪しくもそのポップさが時代感覚だったろうし、ウェルシュの新しさだったのだろう。
暴走の果てに仲間さえ裏切ったレントンは、もはや元の場所には戻れない。あの日々も終わりだ。レントンの最後の述懐を見てみよう。
映画では「俺は悪い人間だが、これを最後に変わろうと思う。足を洗ってカタギの生活を送る。あんたと同じ人生さ。楽しみだ」と語る。ところがその内容は、冒頭で彼が皮肉った日常の些事で埋め尽くされている。
原作はどうか? 「あの場所にいれば、いまの自分以上の自分にはなれない。すべてから永遠に解放されたいまなら、なりたかった自分になれる。すべては彼自身にかかっている。不安でもあり、楽しみでもあった。レントンは、アムステルダムで始まる新しい人生をまっすぐに見つめていた」
映画よりは前向きな表現とはなっているものの、そこには未来を楽しみに感じさせる何ものも書かれていない。
映画、小説ともに、彼が前向きにlifeをchoseしたとは誰も思わない。明日なき暴走という人生の一つの季節に限界を感じ、変えたかったということだろう。その一季節を描くのが本作のテーマに他ならない。
3 政治経済的な背景
1)サッチャーへの不満と怒り
登場人物がドラッグにのめり込む主な理由は、若さゆえの生の蕩尽への意志である。しかし、それとは別に社会的、時代的な原因もあると思われる。
原作にはこんな一節がある。
「労働党が今世紀中にまた政権を握る可能性なんかあるわけない。それから、もし万が一政権を握っても、何一つ、ほんのちょっとだって変わるわけない」
1997年5月総選挙では労働党が勝利しブレア政権が発足したし、1992年の事実上のポンド切下げ以後、英国経済は成長軌道に乗り、その後、同国近現代において最も長い16年もの持続的成長を記録するから、政治経済的にはこの予測は間違っていたわけである。
それはさておき先のセリフから窺えるのは、1979年5月~1997年5月の18年間も続いた保守党政権、なかんずくサッチャー政権に対する不満や怒りである。
原作には政治家の名前はほとんど出て来ないのだが、何故かサッチャーだけは2回も登場するのだ。その一つ。主人公は兄ビリーの葬儀後、兄嫁とセックスして、次のような感想を抱く。
「ビリーにはあまりにももったいない女だ。いや、マイラ・ヒンドリーだってマーガレット・サッチャーだって、あいつにはもったいないくらいだ」
マイラ・ヒンドリーは全英最凶の女と呼ばれた連続殺人鬼である。
2)サッチャー政権の行ったこと
サッチャー政治の基本スタンスは、①経済活動に関わる規制をできるだけ除去しようとする経済的自由主義、②モラルや規範の領域への国家介入を是認する社会的・文化的介入主義だった。
経済的自由主義による影響は、業種や階層によってさまざまに異なる形で表れた。
その一つ、「ビッグ・バン」と呼ばれる金融自由化政策は、証券・金融市場を海外へと解放して、海外の投資を呼び込むのが狙いだった。これにより実際、海外から投資が増え、金融やサービス業にヤッピーが急増する。
他方、こうした金融業界の重視と北海油田による税収増は、急速な脱工業化を伴った。金属、機械、化学等の伝統的な産業部門は急速に縮小。それらの地盤であるスコットランド等には失業が直撃し、1993年には男性失業率が戦後ピークの12.3%に達した。
この結果、サッチャーが福祉削減政策を取ったにもかかわらず、失業者の増大により、手当の受給者は120万人(1979)から303万人(1990)へと2.5倍に増えている。
『トレインスポッティング』はまさにこの時代を舞台にしており、地元スコットランドではろくに仕事がなく失業者が溢れ、ロンドンに行けば金融・サービス業が好況で稼ぎたい放題という業種間・地域間格差が描かれている。
3)福祉国家の弊害とサッチャーの功罪
映画ではスパッドがスピード(覚醒剤)をキメて就職面接を受け大チョンボするシーンがある。これはサッチャー政権下の社会保障法改正(1988)で、失業者が手当を請求する条件として「仕事を探している」ことを示す義務を負わされたから、面接に行かなければならなくなった顛末を描いているのである。
しかし、本気で就職する意思がないと判定されたら手当は打ち切り、逆に採用されてしまっても打ち切りであるw
小説によると、内心では「俺にとっちゃ、ひでえ災難だぜ。仕事なんか、いらねえってのによ。悪夢だ」(レントン)、「いまのとこ、失業手当もらってる方が幸せなのになあ」(スパッド)と思っている。
おまけにレントンは地元エディンバラだけでなく、ロンドンも含め計5か所で失業手当を受け取って、荒稼ぎしたカネをせっせとヘロインに注ぎ込んでいるのだから始末に負えない。
英国は階級社会だが、こうした脱工業の中で職を失い長期的な福祉給付への依存に陥った人々は、「ワーキングクラス」ではなく「アンダークラス=底辺層」と呼ばれる。レントン、シック・ボーイ、スパッド、ベグビー全員が社会の底辺層の人間だから、福祉抑制策で自分たちの生活やドラッグの資金を削ったサッチャーに怒りを向けたのだ。
依存文化にどっぷり浸かった人々は怠惰に流れるばかりであるから、経済成長の担い手になれない、レントンたちのようなろくでなしに福祉給付でヘロインを射たせるようなバカな政策はやめろと、福祉抑制に乗り出したのがサッチャーである。その点に関しては、サッチャーの方が正しいに違いない。
しかし、産業構造が第二次産業中心から第三次産業中心にシフトする中、その煽りをくらった階層への福祉切り捨てというダブルパンチを見舞った点から見ると、レントンたちの「人生に選択肢なんかろくにねえじゃねーか」という怒りももっともということになる。
そもそも"Choose Life"したくない連中を増やしたのは、サッチャーだったんじゃないか、ということだ。功罪いずれを重視するかは、見る者の立場による。
これにより保守党の新自由主義は現在に続く格差社会を招き、出口はまだ見つかりそうもない。
(注)
「3 政治経済的な背景」は次の書籍を参照した。
『イギリス現代史』(長谷川貴彦 岩波新書)
『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』(小関 隆 中公新書)