「二週間ヨ。 ξ(^-^ξξ」トータル・リコール(1990) kokobatさんの映画レビュー(感想・評価)
二週間ヨ。 ξ(^-^ξξ
この映画の価値がわからない男とは握手もしたくないのだ。
まずは極北ボンクラ映画故の愛おしさ。
そしてそれを高いレベルで成立させる為に、
知的な大人が人生を割いて真剣に取り組む故の、
巧妙に仕掛けられた構造と表象がある。
公開当時日本初公開プレミアレイトショーで事前情報少なく観られたのは幸運だった。
昨今映画サイトなどでこの映画のシナリオ整合性が稚拙と批評する、
数多の自称市井レビュアーの一文木戸銭素人などは、本来公共の場で映画を語る資格もない文盲でしかないのである。
なぜクエイド達が劇中であのような、今時の軽薄なアメコミも裸足の噴飯ものの奇天烈な活躍を出来るのか。
まさにコミック其の物の世界を彷徨う。
観ていれば解ろうというもの。
鼻から卓球玉が出てくる。
ありえない構造の変装お面。
地下組織との出来過ぎた遭遇。
様々な危機からの出来過ぎた脱出。
あり得ない速度でのテラフォーミングと生還。
終幕でのホワイトアウト。
全て「そんな訳ないでしょ!と突っ込みながら観てね」と観客にコソリと耳打ちしながら作っているのだ。
だが耳打ちが聞こえない観客が殆どなのも致し方あるまい。
観客のレベルに依存するからだ。
「Matrix」に先駆けてネオとは逆に、赤いピルを拒否したクエイドは仮想旅行会社社員の警告を無碍にし、
現実の平凡な生涯と引き換えに彼自身の願望の活劇的楽園で閉じ籠る事を選んだ。
そしてオズの魔法使いよろしく古来悪手といわれるそんな種明かしを明確に断言した描写を観る事で、
自分の家の汚した便所を思い出したようにゲンナリしたくない我々のような観客の為に映画はチューニングされた。
なぜなら我々観客こそがリコール社を訪れたクエイドだからだ。
ヴァーホーヴェン監督の見えにくい高い知性によって巧妙に観客の知能指数を低下させる鑑賞体験支配と、
WWⅡ戦争体験者故かの常軌を逸した滑稽なまでの暴力的妄想にブンブンと振り回され眩暈を起こす。
娯楽映画の骨格を諷刺的知性で極限値先鋭化した結果、
芸術的に醜い生肉を纏った滑稽なコミックスミュータントと化した生成物こそ、この映画の透視図だ。
そういったこの映画の構造そのものが
ポール・ヴァーホーヴェン提供のヴァーチャルプログラム「追憶売ります」
というべきものだ。
指摘するまでもないが、このような意味でこの映画は様々な古典の
「映画についての映画達」
自己言及型作品の亜型の一つと言える。
クエイドの欲求や選択から我々が程遠いとどうして言えようか。
後世のクリエイターにとっての数多の古典映画史テキストブックとしては、容易に真似出来るものではない。
しかし微笑ましい鬼子として一ページを割く価値のある作品だろう。