トゥルーマン・ショーのレビュー・感想・評価
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人権侵害エンターテイメント
人権侵害を1人の監督によって何十年もの間正当化し、それに迎合する視聴者たち。
最近憶測から事実に明かされたジャニーズ事件を観ているかの様な感覚にさえなった。
胸くそ悪くなった。この映画を製作する意図。製作し、公開した意図を問いたい。
何を表現したかったのだろう‥。
単純な視線では、人権侵害擁護映画としか思えない。
こんにちは、こんばんは、おやすみなさい!
数年ぶりに再鑑賞。こんにちは、会えなかった時のためにこんばんは、おやすみなさいという台詞すっかり忘れていた。ジムキャリーの出演作も名作が多い。
コミカルな中に恐ろしさがみえる。
とある芸能人が、何も喋らずひたすら自分の読書している様子をインスタで配信していたということを聞いたことがある。なんでそんなよくわからんことをするんやろう?そんな姿を見てもらう必要がどこにあるんや?と聞いた時に思った。が、この主人公は普段の様子を望んで世間に晒してるわけではないところが本人にとっては恐怖しかない。自分の人生が全てつくられたものだと悟った時、逃げ出す勇気をもった主人公は強い人やなと思う。
主人公が脱出するまでがひとつのストーリーで、違うチャンネルに変えるか!という最後のオチがほんまに秀逸。よくできた映画やなあ。
コメディ?
人生のテレビ中継
生まれた時から勝手にテレビ中継されている男の話
作られた町の中で過ごしてた来たが町の違和感に気付き作られた世界から脱出するEND
設定が面白い。自分の生活が作られたものだとしたら?という世界。はたして作られた世界で過ごし作られた人間関係で過ごすことは幸せなのか…
「会えないときのために
こんにちは、こんばんは、おやすみ」
統合失調症患者の妄想を現実化したような映画
統合失調症患者の妄想を現実化したような映画
ストーリーや設定に星新一作品味があった。
人権無視だという抗議に対して「主人公は作り物だけど本当の幸せな暮らしを送っているし、この世界から逃げだそうとはしないのだからなんの問題があるのか」と返した
プロデューサーの真ヒロインに対する言いわけに特にそれを感じた。
この映画は、映画という世界の中にまたリアリティードラマという世界があって、主人公はドラマの中の主人公でもある。だからか、あんまり熱くなりにくい
不気味な盗撮カメラのレンズの影や、下らないパブかなんかで人ごとを楽しむ下卑た視聴者、人の人生を操作し切り売りする傲慢なプロデューサーらのカットが、感情移入を妨げたのだと思う。
この作品のテーマ・メッセージは「快適だが真実のない世界からの脱出」「毒親の支配からの解放」といったところかと思うが、あまり響かなかったのはそのせいかな
ただこの設定である以上、こうなりようしかなくて、一つの世界を描ききったところがこの作品の素晴らしいところだと思う。
でも俺がプロデューサーならフィジーくらい行かせてやるなあ
とにかく発想が面白い
序盤の謎展開が、物語終盤にかけて明らかになっていく様がシュールで惹き込まれました。
最後、主人公が自分の意思で扉を開けるシーンは感動必須。
感動コメディでは最高峰だとは思いますが、個人的には『フォレスト・ガンプ/一期一会』の方が好きです。
タイトルなし(ネタバレ)
このストーリーのどこが コメディなのか全くわからない。ひとの生活をのぞき見して楽しむ視聴者。だまし続ける役者ども。盗撮カメラがある事くらい何年も生きてれば気づくだろ!!あの嵐で本当に死んじまったらどうするつもりだったの?其のことがずっと気になって全く楽しめなかった。
ガンプか トゥルーマンか
一見、自由と思っているが
この設定はすごい!不思議な感覚にさせる映画!
間違いなく、主演のジムキャリーの代表作であると同時に、監督のピーターウィアーの代表作の1つであると思う。
映画を見ていけば見ていくほど、映画の世界観にグイグイ引き込まれていく。
こんな不思議な感覚にさせていく映画はないと思う。
離島自体が全てセットで、周りのみんなもエキストラだったり、仕事でやっている俳優・女優さんだったり、、、通常では考えられないような全てがテレビ番組のセット、、この発想自体が本当に面白いし、映画の中にはジムキャリーの熱演もあって笑いの要素みたいなのもふんだんに入っている。
でも、見ていくと本当に不思議・・・
自分自身がいるこの世界も、実は周りの人がみんな俳優で、通行人や町の人もエキストラだったりすんじゃないか・・・天気も偶然のように思える出来事も全て、セットされているとすると、、、なんかそんなことを思い始める映画だと思う。最後のシーンにあるような、現実に一歩を踏み出している自分っているのかなぁ、、、そんなことまで思い始めてしまう。
映画のテーマがメディア批判やマスコミ批判の論調もあると思うけど、そんな矮小化されたテーマだけでなく、もっと人間の生きていくとはどういうことなのかを、深く考えさせられるような映画だと思った。間違いなく、自分の中でも名作の1つだと思っている。
ラストシーンが大好きで何度も観たいと思う映画。 トゥルーマンの純朴...
SNS社会の現代こそ観るべき作品
大衆、親子、ビジネス…見事に近未来を予見した
1998年公開、アメリカ映画。
監督ピーター・ウィアー、脚本アンドリュー・ニコル。
主要キャストは、
世界が見守るトゥルーマン・バーバンク:ジム・キャリー
敏腕プロデューサーのクリストフ:エド・ハリス
ニセの妻メリル・バーバンク:ローラ・リニー
ニセの友人マーロン:ノア・エメリッヒ
思い出の人シルビア:ナターシャ・マケルホーン
など。
シチュエーションコメディ、あるいはSFコメディとも言えるだろう。
本作が公開されて、四半世紀が経過するが、
見事に近未来を予見することに成功している。
− リアリティ番組の行きつくところ(功罪)、
− オーディエンスターゲティング広告、
− 推し活、
メディアがブラウン管なのかスマホなのか、
その違いくらいしかない。
「トゥルーマン・ショー症候群」という言葉まで生まれたのだから、エポックメイキングな作品とも言える。
わたし自身、本作公開から4年後にスタートした『American Idol』を夢中で見ることになり、いわゆるリアリティ番組、オーディション番組の隆盛を予見した本作には改めて脱帽したものだ。
エド・ハリス演じるクリストフが、
あたかも「全能の神」のように天候を操り、
ついには「天の声」と化し、
トゥルーマンに直接話しかける。
クリストフとトゥルーマンは血は繋がってないが、
あの手この手で人をコントロールしようとする様は、
一般の親子関係にも通じるものがある。
◆1個の人間を操れると考える驕り
◆子供の自立を望みながらも怖れる矛盾
エド・ハリス(クリストフ)に感情移入した人も
まあまあ居たのではないだろうか。
私はジャック・レモンも藤山寛美も大好きだが、
ジム・キャリーは彼らよりも「哀」の成分が少ないところが良い。
コメディに風刺はつきものだが、
ジム・キャリーのキャラクターによって、過度な毒や皮肉が緩和され「飲みやすいクスリ」のように優しく作用してくれるのだ。
本作の結末は皆さんご存知の通りだが、
私の連れ合いなどは、
トゥルーマンの後日談が気になって仕方ないらしく、
いまだに「続編まだかな」などと言っている。
これも一種の推し活のスタイルなんだろうか。
人間の業というか、ただのゴシップ好きというか、
トゥルーマン(とシルビア)に、どうなっていてほしいのか、私には分からないが。。。
そういう根強いファンを作った功績に、☆5.0
叩けよ、さらば開かれん。 自由を求めるすべての人に、こんにちは、こんばんは、おやすみ!
自分の人生がTVショーであることを知らないサラリーマンのトゥルーマンが世界の違和感に気付き、次第に実存に目覚めてゆく様を描いたSFコメディ。
脚本は『ガタカ』(監督/脚本)のアンドリュー・ニコル。
平穏な日常を生きる”世界的スター”、トゥルーマン・バーバンクを演じるのは『マスク』『ライアー ライアー』の、名優ジム・キャリー。
『トゥルーマン・ショー』の仕掛け人、クリストフを演じるのは『アポロ13』『ザ・ロック』の、名優エド・ハリス。
第56回 ゴールデングローブ賞において、主演男優賞(ドラマ部門:ジム・キャリー)/助演男優賞(エド・ハリス)/作曲賞を受賞!✨✨
第52回 英国アカデミー賞において、オリジナル脚本賞/監督賞を受賞!✨
『マトリックス』(1999)『アメリカン・ビューティー』(1999)『ファイト・クラブ』(1999)etc…。なぜか世紀末に数多生み出された自己啓発系映画。本作もその中の一本と言える。
太宰治の「猿ヶ島」(1935)に代表される、いわゆる「衆人監視もの」の一つな訳だが、「自分の人生がTVショーだったら」というドリフのもしもシリーズのような設定が非常にユニーク。
「天にまします我らが父よ」なんて祈りの言葉があるが、エド・ハリス演じるクリストフは明らかに神のメタファー。
トゥルーマンは彼の作った”楽園”を自らの意思で捨て去る。神を否定し、自由へと向かい歩き出す彼の姿はさながらニーチェの説いた「超人」のよう。運命論や予定説を徹底的に否定する本作に、勇気づけられる人も多いのではないだろうか。
ニーチェ哲学を絵にしたような映画ではあるが、決して小難しい内容ではない。コメディアンとしてのジム・キャリーの実力が遺憾無く発揮された、お笑い要素も多い作品である。
ただ、一見バカバカしいだけのコメディ要素が同時にとても恐ろしいものに見えてくるから不思議。特に、夫婦喧嘩の最中に妻が突然ココアの宣伝をし始めるところなどは、緊張と緩和、緩和と緊張が同梱する名シーンとなっている。上質なコメディはホラーと表裏一体なのだ。
大いに感心したのはエンディングの切れ味。トゥルーマンが”父”との決別を果たすと、映画は即座に幕を下ろす。エピローグ的なものをくっつけてダラダラ終わりを引き延ばす映画も多い中、ここまで潔いエンディングを描かれるとそれだけでもう感動してしまう。「終わり良ければすべてよし」というのは甘い考えだと思うが、「終わりが良い」のが名作の条件であるということは言えると思う。本作の素晴らしいエンディングを観て、そのことを再認識させられた。
最後の最後、『トゥルーマン・ショー』の視聴者による「おいチャンネル変えてくれ!」と言うセリフで締めるのもまた秀逸。あれだけトゥルーマンの脱走劇を必死になって観ていたのに、番組が終わったらすぐに次の番組に興味を移り変える。今日のスターは明日の一般人。ネットの普及によりエンタメが加速度的に消費されるようになった現代だからこそ、このアイロニカルなセリフがより一層意味を持つものになっているように思う。
気になるのは、本作が『刑事コロンボ』(1968-2003)的な構造、つまり謎の答えを冒頭で明かしてしまうという作りになっていること。別にこれが悪いと言うわけではないのだが、例えばこの世界がTVショーであるというオチを隠しておけば、トゥルーマンが自身を取り巻く異変に次第に気づいてゆく、と言う展開をミステリーとして描けたはずである。本作を下敷きにしていると思われる『ドント・ウォーリー・ダーリン』(2022)が、まさにその点をサスペンス要素にして興味の持続力を高めていたことは記憶に新しい。
ミステリー調にすれば本作がより素晴らしいものになる、とは言わないが、本作をそのように再編集した特別編が観たいと、私なぞは強く思うわけであります。
長々と書いたが、自分の人生を見直すきっかけにもなる傑作中の傑作である。自由を求めるすべての人に鑑賞して欲しい一本♪
さーて、それではみなさまご一緒に!
「会えない時のために…。こんにちは、こんばんは、おやすみ!!😆✨」
…雑誌のピンナップ写真を切り貼りして初恋の人の顔を再現するのってちょっと気持ち悪いよね。谷崎潤一郎の「青塚氏の話」(1926)みたい。
色々な角度から味わえる
トゥルーマンを主軸にみれば自由への渇望と獲得の物語として。
プロデューサーのクリストフとの関係は、親の庇護と子の自立を描いたものとして。
番組の裏側を描写した場面はメディアによる演出を風刺的に感じられ。
視聴者の様子からは、人生をコンテンツとして消費することの残酷さを突きつけられ。
どの面で見るかで様々なことを考えられる味わい深い映画でした。
人生って・・・
もしこの映画の主人公のように生まれてこのかた創られた環境の中で世界中の人々から観られながら生きてきたことが今わかったなら・・・
考えただけでも背筋がゾッとします。自分なら外の世界に一歩踏み出せるのか、それとも慣れた世界に踏みとどまるのか。もしくは自分は他人の人生を大衆にさらけ出してもてあそぶ製作者側の人間になりうるのか。はたまた所詮主人公の一挙手一投足に一喜一憂するテレビの前の大衆の一人にしかなり得ないのか・・・
SFというジャンルになるのかもしれないけれど宇宙を舞台とした壮大な映像とは真逆に、とある島の限られた空間での人生を虐げられたらどうなるかという閉鎖的かつ奇想天外な設定。この斬新な発想がより創造力を駆り立てる。公開後30年近くたった今改めて観ても新しい気づきがあり自分自身の人生についても色々考えさせられてしまいました。映画の底力ですね。
「現代社会への問題提起」で終わらせたくない そのものを感じて欲しい作品
前情報無しで、あらすじも知らずに、
ジム・キャリー主演だし、コメディかな?と思いつつ、夜中に酒を飲みながらなんとなくで観始めた。
最初はどういった話なのかわからず、
おしゃれな演出と、90年代アメリカの雰囲気と、ジム・キャリーの演技がコミカルな、よく分からないけど良い雰囲気の映画だと思いながら酒を傾けていた。
本作品は1998年公開のようだが、その頃の映画に慣れ親しんでないのもあり、舞台の違和感も「この時代の映画だと、そういうものなのか」と思いながら最初は観ていた。
だんだん舞台となる世界に対する違和感をジム・キャリーが演じるトゥルーマン同様に、強く感じ、不穏で、不安な気持ちになってくる。
その頃には映画を観ている我々も、トゥルーマンの生きている世界は、作られた舞台セットの世界で、多くの視聴者に見られ、消費されていることを知る。
あれほど露骨に作り物の世界で、「今まで生きてきた世界が全て作り物なのではないか?」と疑う不安はどれほどだろう。
妻も友人も仕事も作られたもので、台本通りに喋っているだけ。酷い裏切りであり、何も信じられくなる、そんなトゥルーマンの心情を想うと辛い。
(彼の仕事が保険屋で、「人生何が起こるか分かりませんよ」と台本持った役者相手に知らずに営業電話をしていたのも滑稽でまた辛い)
それでもあの笑顔で、コミカルに振る舞うトゥルーマンに、テレビで彼を観ている視聴者と同様に、映画を観ている我々も強く惹かれる。
醜悪に思える視聴者と自分が一体化してしまう。
そんな世界で彼に希望を持たせたのが、本当の彼を想い真実を伝えようとした女性シルヴィアと、地球の裏側「フィジー」だった。
街を飛び出し海原へ小舟を漕ぎ出すトゥルーマン、舞台を出るなら殺すことも厭わんとばかりに人工の嵐を起こす監督、それでも負けじともがき進むトゥルーマン……
彼が空が描かれた壁にぶつかった時、私は胸が引き裂かれるような思いをした。
彼も気づいていただろうが、実際に行き止まりにぶつかり、空だと思ってずっと生きてきたものが空ではなく、海だと思ってずっと生きてきたものが海ではない……
絶望でその場でしゃがみ込み打ちひしがれてもおかしくない、悔しさと怒りで喚いてもおかしくない、
そんな状況で彼はいつもの笑顔でコミカルに、お決まりの挨拶で、ドアを開けて出ていった。
生まれた時から勝手に役者に仕立て上げられ、全てが偽りの中で、娯楽として消費され続けた「かわいそう」なトゥルーマンは、最後までこれまで視聴者に愛されてきたトゥルーマンを演じ、舞台を降りていった。
そんなトゥルーマンのラストに、わっと湧いて感動する視聴者たちの姿を見て、これまで視聴者と一体となってトゥルーマンを応援していた気持ちから引き離される。
テレビの視聴者たち、バーの客も警察もおばあちゃんも、それら皆の視聴率のために、トゥルーマンはずっと偽りの世界に縛られていた。
それなのに、「トゥルーマンが偽りの世界から出られたやったー!」と手放しで喜ぶのは、あまりにも他人事が過ぎるというか、それで自分たちがさも良い人側かのようにトゥルーマンに感情移入するのは虫が良過ぎるというか、なんともモヤモヤとした気持ちになる。
視聴者と同様に「抜け出せて良かった!」と喜ぶ気持ちと、視聴者へのモヤモヤと、彼がこれから外に出ても彼が今まで偽りの世界で生きてきた事実は変わらない悲しみと……
色々な感情が重なって呆然とエンドロールを観ていた。
「リアリティ番組への問題提起」などで感想を終わらせたくない、映画体験として唯一無二の凄い作品であった。
奇想天外と言い切れないかも
自分が生まれてから番組の見世物になっていたという設定で、ジム・キャリー主演ということで、喜劇と思って見ていたけれど、よくよく考えればシリアスなドラマと感じた。
現在の社会自体が、政府や金持ち連中に都合の良いニュース、映画やドラマ、情報で統制されつつあること、アメリカや中国では、危険人物や危険思想は検閲され、強制力をもって削除されたりしつつあるからだ。日本では、それはソフトに行われているだけだ。
このトゥルーマン・ショーとまでは行かないが、自分が知らない所で、様々な制約があって、自分の思考や行動が管理されているっていう意味では、かなり似ている部分がある。このドラマでは、人々の好奇心を満たし、視聴率を上げることで利益を上げるために、膨大な手間がかけられているが、考えようによっては、それと同様。国益やら、大きな企業の利益を上げるために、制約があり、思考が制御され、生産活動を行っている。
ジム・キャリーも、ひょっとしたら、利益を上げるためにその嘘を生きるという現代の虚構性に気づいていた一人かもしれない。
映画では、与えられるそこそこの満足が得られる生活ではなく、冒険心や野心、自由や真実を求める気持ちが勝利して、出口から脱出するのに、人々も歓声を上げるが、現実はそのように行かないように見える。
後年、トーク番組の中で、フリーメーソンの存在を主張するようなトークを繰り広げ、その後、二度とトーク番組には呼ばれなくなったとか、奥さんが鬱病になって、その原因がジム・キャリーにあると訴えられていたりしていた。この映画のように、虚構性から脱出しようとしたら、その世界で生きていけなくなった。そんな思いを巡らせ、笑えなくなった。
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