天使の涙のレビュー・感想・評価
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ホームビデオ
この作品の宿命として、「恋する惑星」との比較は避けて通れない。
まず、この二作品を象徴するのが、前作において多言語社会香港を体現していた金城武が、次作においては失語症の若者モウを演じている点であろう。
これは、ホウ・シャオシェン監督が「悲情城市」を撮ったときに、広東語という異言語の持ち主であるトニー・レオンの役を唖者にしたことと無関係ではあるまい。
ホウ監督は、当時香港のTVスターだったトニー・レオンを起用するにあたって、台湾語や北京語のベースがない彼の為に、主人公を唖者にしたと言っている。
ウォン・カーウァイはこの2連作において、金城武が実際にそうであるようにマルチリンガルの役と、その対極のノーリンガルの役を演じさせている。しかもこれはトニー・レオンが主役のエピソードを挟んでいる。
そして、金城武から発話を奪ったことは成功している。
口の利けないモウが夜中に他人の店で勝手に商売をするというおかしな話なのだが、やっている本人は大まじめ。真剣そのものである。これは言葉を口から出さない金城武のパントマイムとなり、観る者を失語症の青年モウに感情移入(同情ではない!)させる。
前作において、香港という街の様々な側面を、それぞれ登場人物に仮託して描いてたとすれば、金城武の演じた二つの役はそれぞれ香港の器用さとしたたかさを表してはいないだろうか。
言葉を失っても、人生を楽しみ、恋をする力強さがモウという青年には備わっている。だから、観客はこの障害者に同情するのではなく、感情に寄り添うことになる。
挙げればきりがないほどの両作品の共通項が気になり、モウ以外の登場人物にはさほど興味や共感が湧かない「天使の涙」で、もう一人、切なさの琴線に触れてくるのがモウの父親である。彼は、台湾からやってきて、安宿の管理人をやりながら失語症の息子を育ててきた。
白いランニングシャツをいつでも着ている、小太りのおっさんであるが、この人物こそが映画をかろうじて心に残る一本にしているのだ。
物語のラストでも繰り返し観客が観ることとなる、ステーキを焼く父親を息子が撮影したホームビデオには胸が熱くなる。あの笑顔。演技であれだけ屈託のない、幸せな表情をができるものなのだろうか。このような笑顔で父親に見つめられる息子は幸せだ。
そして、この作品の名カメラマンはクリストファー・ドイルではなく、じつは金城武なのだ。
なんという皮肉であろうか。
前作「恋する惑星」とは異なり、この映画のカメラはドイルの単独クレジットである。広角レンズの多用など全編にわたりドイルのやりたい放題の感がある。
しかし、最も観客の心をつかむカットは、ドイルの撮影に挟まれた、素人の撮影によるホームビデオなのだ。
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