「独りだけの復讐劇から戦争の虚しさを表現したロベール・アンリコ監督の繊細さ」追想(1975) Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
独りだけの復讐劇から戦争の虚しさを表現したロベール・アンリコ監督の繊細さ
妻子をドイツ兵に殺されたフランス人医師の復讐劇。第二次世界大戦を扱った数ある戦争映画の中で、これほどまでに私的な仕返しを扱った反戦映画はないだろう。そして、そこには復讐を遂げた者が襲われる虚しさが、フィリップ・ノワレの深い演技により悲しく惨めに表現されていた。しかし、この境遇は、戦争体験もなく身内の悲劇に見舞われたことの無い者には到底理解できないし、想像しうる限りの人間の感情や心理を例えても適切な言葉は見つけられない。それを敢えて描いたロベール・アンリコ監督の意図は何処にあるのだろうか。
主人公ジュリアン・ダンデュの職業は医師だった。ドイツ軍の支配下のフランスにあって、彼の一番の関心事は戦争拒否より、実際に傷ついた人を治療することが最優先である。そのジュリアンが妻子を密かに匿っていた村の古城に来て、子供の射殺死体と妻の焼死体に遭遇し、嘆き悲しみ、怒り憤り苦しみ、そして復讐の鬼となる。憎いドイツ兵を殺す執念に取り憑かれる。彼が他人のフランス人の死に直面した時には到底感じることのないものだ。そんな実直な医師ジュリアンは、古い銃を使い熟し地の利を生かして、軽い傷を負いながらも次々とドイツ兵を仕留め復讐を貫徹する。
ところが友人に迎えられたジュリアンは車の中で街の様子を聴かされる。家は焼かれ、母もお手伝いさんも殺されてしまったと。ここでハッとして、少し笑うところが怖い。妻子の恨みを晴らし、ドイツ兵を殺害することが正義だったのに、その自分の及ばないところで殺し合いがある。それが戦争というものと、愕然としたのではないか。悲しみの行くつく果てに、どうしようもなくて笑うのも、いくつかの映画で描かれてきた。しかし、ここまで追い込まれた人間の打ちひしがれた姿を描いたものはない。身を持って戦争の無意味さを知り、復讐の連鎖が繰り広げられる愚かさにジュリアンのこころが死んでしまったようなラストだった。
戦争批判をこのようなひとりの人物の内面の葛藤で描いたアンリコ監督の繊細な演出が素晴らしい。描きたかったのは復讐の殺害シーンではないだろう。ジュリアンの心に潜む妻子への深い愛とそれ故の憎しみに囚われた激しさを表現したかっただけではないか。ジュリアンの耐え難い虚しさは、その憎悪の激しさにあるからだ。
1976年 12月3日 大塚名画座