ダントン
劇場公開日:1984年2月11日
解説
フランス革命の中心的人物、ダントンとロべスピエールのそれぞれの〈革命〉における信念と葛藤を描く。製作はアラン・ドパルデュー、監督は「戦いのあとの風景」のアンジェイ・ワイダ。女流作家スタニスワヴァ・プシビシェフスカ原作の『ダントン事件』を基にブニュエル作品などでおなじみのジャン・クロード・カリエールが脚色、A・ワイダ、アグニエシュカ・ホランド、ボレスワフ・ミハレク、ヤツェク・ガシオロフスキが脚本協力として加わっている。撮影はイゴール・ルター、音楽はジャン・プロドロミデス、美術はアラン・スタルスキ、編集はアリナ・プリュガル・ケトリング、衣装はイヴォンヌ・サシノー・ド・ネスルが担当。主演はジェラール・ドパルデュー。ヴォイツェフ・プショニャック、パトリス・シェロー、ロジェ・プランション、ジャック・ヴィルレ、アンゲラ・ヴィンクラー、ボグスワフ・リンダなど。
1982年製作/ポーランド・フランス合作
原題または英題:Danton
配給:ヘラルド・エース
劇場公開日:1984年2月11日
ストーリー
1793年、夏。イギリス、オランダなど対仏同盟を結んだヨーロッパ諸国との戦争で混乱状態にあったフランスは国内では革命派の分裂、王党派の反乱などといった大きな悩みをかかえていた。九月五日、革命の敵を制圧するためにロべスピエール(ヴォイツェフ・プショニャック)中心の公安委員会は、恐怖政治を行ないはじめた。この時以来、政治非常処置の権限を持った公安委員会は、ギロチンにかける処刑者を増やし、犯罪者、穏健派などが次々にギロチンの犠牲になっていた。マリー・アントワネットまでが処刑され、一時的に政治から離れていたダントン(ジェラール・ドパルデュー)が革命に不安を抱き、パリに戻った。パリの民衆は彼を大歓迎した。その中に彼の親友でジャーナリストのカミーユ・デムーラン(パトリス・シェロー)がいた。彼はダントンと共に『ヴュー・コルドリエ』紙を発行し、〈平和〉を主張した。食料不足で苦しむ民衆は、ダントンの現実的な政策に傾いていった。しかし、ロべスピエールと公安委員会は、ダントンと正反対の政策を考えていた。勝利による終戦、さらに彼らに反対する敵対分子の一掃による革命の遂行だった。ダントンとロべスピエールの距離はどんどん広がっていった。二人はすべてに対する考え方が反対だった。1794年3月。ダントンは、国民公会で協調精神の必要性を熱弁した。そして二人の決定的な対立の前に、最後の和解を賭けてホテルの一室で会った。しかし、それは、二人の絶対的な対立を改めて決定的にする会合に終わった。ロべスピエールはその場を去った。3月30日、ロベスピエール独裁を打ちたてようと、公安委員会に集まったサン・ジュスト(ボグスワフ・リンダ)らは、ダントン逮捕を打ちたてる。公安委員会から派遣された軍隊が、たちどころにダントン、デムーラン、フィリポー(S・セルラン)ら、ダントン派を逮捕した。4月2日からダントン派を裁く革命裁判が開始された。裁判官フーキエ(ロジェ・プランション)は、「政府に対する陰謀を企んだ」という罪でダントンたちを告発。それに対しダントンは民衆に語りかけた。「私は民衆の幸福と正義を望んでいるのだ」。傍聴人たちはダントンを支持したが、裁判官たちは慌てた。さらにダントンの熱弁は続いた。事態に驚いたロベスピエールは、新たな法令を設けてその発言を禁止してしまう。ダントン派の運命は決まった。1794年4月5日、ダントンらは革命広場でギロチンにかけられた。それから二カ月後、ダントンが処刑前に予言したとうり、恐怖政治は終わり、ロべスピエールらは処刑されるのだった。
スタッフ・キャスト
- 監督
- アンジェイ・ワイダ
- 脚本
- アンジェイ・ワイダ
- アグニエシュカ・ホランド
- ボレスワフ・ミハレク
- ヤツェク・ガシオロフスキ
- 脚色
- ジャン=クロード・カリエール
- 原作
- スタニスワバ・プシビシェフスカ
- 製作
- アラン・ドパルデュー
- 撮影
- イゴール・ルター
- 美術
- アラン・スタルスキ
- 音楽
- ジャン・プロドロミデス
- 編集
- アリナ・プリュガル・ケトリング
- 衣装デザイン
- イヴォンヌ・サシノー・ド・ネスル
- 字幕
- 山崎剛太郎