「何はともあれ、アラン・ドロン」太陽がいっぱい Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
何はともあれ、アラン・ドロン
野心に満ちた若者が、自らの野望を手に入れるため犯罪に手を染め、最後には自滅するというストーリーは数多くあるが、本作を映画史に残る名作たらしめているのは、ひとえにアラン・ドロンの魅力による。単なる2枚目俳優を、ナイーヴで内向的でありながら、時に粗野で自信過剰の要素を見せる主人公の危なげで妖しげなムードを引き出したクレマン監督の手腕に拍手を送りたい(ドロンの魅力を引き出した、もう1人の立役者ヴィスコンティ監督の存在も忘れてはならない)。単純なストーリーを、主人公リプリーの心象をセリフではなく、表情や舞台効果(第一の殺人直後の嵐・第二殺人直後の子供たちの描写・市場でインサートされるエイの映像・そして何よりニーノ・ロータ作曲による哀愁の主題歌など)によって繊細かつドラマティックなサスペンスに仕上げている。リプリーという青年、自分の頭脳(おそらくは容姿の良さも)を自覚してはいるが、上流階級に対するコンプレックスのため、あからさまな自信を得られない。金持ちで、美しい恋人やヨットなどすべてを持ち、自信満々のグリンリーフに憧れと、同性愛的な愛情と、それとは相反する憎悪を抱き、ついには彼を殺し、彼に成り代わることによって金も恋人も、さらには自分への自信をも手に入れようとした。この利己的なナルシシズムが、主人公の最大の魅力であり、破綻を招く原因なのである。グリンリーフの洋服を着て、鏡に映る自分自身にウットリとするシーンは象徴的であるだけでなく、リプリー本人の陶酔が、見ているわれわれにも恍惚感をもたらし、彼が若く美しくあればあるほど、ラストの悲劇がより痛々しくなるのだ(これがドロンのような美形ではない俳優が演じたのであれば滑稽になってしまい、悲劇性が半減してしまっただろう)。ドロンの蒼い瞳を思い浮かべて溜息をつきつつ、余韻に浸るのである。