捜索者のレビュー・感想・評価
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【公開時には、失敗作と言われた今作が、その後西部劇を代表する傑作と評価された変遷理由を勝手に考える。】
■南北戦争が終結後、イーサン(ジョン・ウェイン)はテキサスに暮らす兄夫婦の家を訪れるが、兄と義姉がコマンチ族に虐殺され、2人の娘、ルーシーと幼いデビーはさらわれてしまう。
復讐を固く誓ったイーサンは、仲間達と共に姪を捜す旅に出るが、途中で仲違いをしネイティブ・アメリカンの血を引くマーティン・ポウリー(ジェフリー・ハンター)と旅を続ける。
数年後、イーサンはようやく姪のデビーを捜し当てるが、彼女はコマンチ族の酋長スカーと共に住んでいた。
◆感想<Caution!内容に触れています。且つ私の考えを記載しています。>
・当初、ジョン・ウェイン演じるイーサンは、ネイティブ・アメリカンを激しく憎んでいる。ネイティブ・アメリカンの血を引くマーティン・ポウリーに対しては、不快感を隠さない。
・又、デビーを探す途中でも、埋葬されたネイティブ・アメリカンの死骸の両目を撃つという(目が見えないので、天国に行けない。)蛮行を平気で行う。
何が、彼をそうさせたのかは描かれないが、家族がいない事から、類推出来る。
・そして、イーサンはネイティブ・アメリカンと共に居たデビーを最初に見つけた時に、撃ち殺そうとする。が、マーティン・ポウリーが身を呈してそれを止めるのである。
■つまりは、後半まではイーサンはネイティブ・アメリカンを憎む白人として分かり易く描かれているのである。
これは、今の排他的なアメリカの保守層と同じ考えである。
だが、この作品ではコマンチ族の酋長スカーが、イーサンの前に堂々と立ち、自分達が白人を襲う理由を説明するのである。
彼は言う。”私達の家族は、白人に沢山殺された。だから、私達も白人たちを沢山殺す。”と。
私が、今まで観て来た西部劇では、ネイティブ・アメリカンは只管に白人を殺し、頭の皮を剥ぐ人間味の無い極悪であり、白人は善である。
又、ネイティブ・アメリカンの言い分を今作程キチンと、彼ら自身の口から説明したシーンは記憶がない。
私は、この作品が後年再評価されたのは、白人がネイティブ・アメリカンを殺す理由だけでなく、ネイティブ・アメリカンが白人を殺す理由を明確に描いた作品だからではないかと思ったのである。
勿論、広大な風景の描き方などが、後年の多数の名作のお手本になっている事も、一因だろう。
ジョン・フォード監督が、広大な風景の取り方のポイントを語る映画を観た事もある。
<そして、マーティン・ポウリー達の取り計らいもあり、イーサンは長年、探していたデビーを温かく家に受け入れ、強く抱きしめるのである。
今作は、一匹狼だったイーサンの憎悪と執念の旅が、様々な出来事の中、赦しの心を持つ男になる旅を描いた作品ではないかと、私は思うのである。>
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ウェスト』はこの映画をリスペクト
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ウェスト』はこの映画をリスペクト
雷鳥が出てくるシーンは『ウェスタン』の一場面。レオーネ監督は完全に利用している。その他にも雪の場面は『殺しが静かにやって来る』にどうしても見えてくる。つまり、イタリア製西部劇に大いに影響を与えていると思う。
ネタバレあり
兎も角、
最後の唄が
『男は自分の心と魂を探し求める。
探し求めて旅に出る。
いつかはみつける心の安らぎ。
だが、それはどこにある。
旅に出ろ。馬でさまよえ』
『アメリカ合衆国(合州国)としてのアイデンティティを持て』と言う事だと思う。
1860年(約)がエイブラハム・リンカーン大統領誕生だと思うので、その100周年でゲティスバーグのかの有名な演説とつなぎ合わせている様な気がする。
ジョン・ウェインは古い価値観の西部の男って役で、超保守的な男性だが、彼(ジョン・ウェイン本人)自身に政治的野心が、まるまるあったとは思えない。ので。(ジョン・ウェインもプロパガンダの宣伝広告塔と僕は見ている)
『人民による人民の為の人民の政治』をアメリカ合衆国はとっていくが、過去の歴史の上で白人はこう言った『詰め腹を切っている』って、ジョン・フォードは言いたかったんじゃないかなぁ?つまり、悪役で一方的にやっつけられる者は、インディアンではなく、ネイティブでREDMANなのである。平等な政治をやっている事を強調しつつ、今までの差別的出来事をあからさまにしつつ『こうあった』と言い表している。つまり、元来からある『リンカーンは奴隷を解放した』の元祖と言える。
さて、現在はこの理論は通じない。だから、インディアンと言う単語も死語である。ましてや、インドが世界一の人口における大国になっている。今では、KK◯すら、インディアンなどとは言わない。はずだ。また、アメリカ独立戦争では、インド人がアメリカ合衆国側に付いて戦っている事はアメリカ国民なら誰でも知っている。従って、日本人は、日印友好の為にも『インディアン』とは言わないように努力すべきだと思う。
追記
デビー役のナタリー・ウッドさんはお亡くなりになっているが、ラナ・ウッドさんーナタリー・ウッドさんの妹(デビーの幼少期)とヴェラ・マイルズさんはご存命なので、まだまだ、『探す者』と『探される者』は生きていると言う事の象徴って事か。
姪を求めて三千里‼️
"西部劇の神様" ジョン・フォード監督が、ジョン・ウェイン演じるイーサン・エドワーズという主人公がインディアンにさらわれた姪を探す旅を通して、カウボーイ対インディアンという構図が人種差別を孕んでいることを認めて製作した名作‼️これは西部劇という形を借りたロードムービーですね‼️ジョン・ウェイン扮するイーサンはコマンチ族に拉致された姪が陵辱されたのではとの思いに引き裂かれる‼️そしてイーサンは姪を助けるべきか殺すべきかで苦悩する‼️このテーマは後にマーティン・スコセッシ監督が「タクシー・ドライバー」で、12歳で売春をやらされている少女を助けるか悩むトラビスというキャラクターに継承されているそうです‼️「流れ者のガンマン」「インディアンによる白人女性の誘拐」「馬での追跡」「騎兵隊」「バッファロー」「砂漠」「雪」「カントリー音楽とダンス」「純情な恋愛」「殴り合いの喧嘩」など、宝物のような西部劇の定石が散りばめられていて、さすがジョン・フォード監督と思わされる‼️まさに集大成ですね‼️美しい四季を跨ぐイーサンの長い旅路では、怒涛にまみれたり、メランコリーに溢れたりしながら、イーサンの暗い内面が掘り下げられ、イーサンのインディアンに対する復讐心と憎悪がむき出しにされています‼️このイーサン・エドワーズという主人公のキャラ描写の素晴らしさが、「駅馬車」や「荒野の決闘」のアクション描写や詩情性とは明らかに違うところですね‼️演じるジョン・ウェインの演技も尊大でマッチョなスタイルではなく、シンプルな演技で、実は演技派だったんだなぁと痛感させられる名演です‼️お見事‼️そしてイーサンが姪を無事家族の元へ送り届け、ドアの外の荒野へ向かって歩いていくラスト・シーンの後ろ姿‼️ホントに素晴らしいです‼️
『いつかはいい土地になる』
兄夫婦と甥が殺され姪二人がさらわれた。しかも、劇中の様子から兄嫁と主人公のイーサンは過去に思い合っていた時期が有ったのだろう。そんな相手が人に見せられないような酷い姿で殺されていたのだから、抑えきれない憎しみが沸いて当然のはずだ。
しかし、兄の家が襲われるかもしれないと分かった時、何が起こるか想像できたにも関わらず、イーサンは非常に冷静な対応をする。そこに大きな違和感を感じた。これは、同じようなことを何度も経験した者の対応なのではないか。兄家族の悲劇はコマンチ族を殲滅するマシーンに闘う理由が一つ付け足されただけなのではないか。
後のシーンで、イーサンはコマンチ族に染まったデビーを殺そうとする。それを観て、デビーの姉ルーシーを殺したのも実はイーサンではないかと勘ぐってしまった。(ここは抵抗するルーシーをコマンチ族が殺したと考えるのが順当か)
しかし、それ以上に恐ろしく感じたのは元教師であるローリーの母親の『いつかはいい土地になる』という一言。そこには、ここは自分たちが神から与えられた土地であり、コマンチ族をはじめとするインディアンは根絶されるべきであるという意味に思える。
これは、兄家族の仇討ちを描いた勧善懲悪映画ではない。どちらの文化が生き残るかをかけ、実際に存在した闘いの一場面を白人側から見た記録映画なのだ。差別などという甘い言葉でなく、被害者加害者なんて段階でもなく、互いに互いの存在を認めていないのだ。
ラストシーン、デビーを迎える温かい家庭と、静かに去るイーサンの対比。凄惨な過去を忘れつつも、奥底にくすぶるものを抱えた現代社会を表現したように思えた。
それにしても、ジョン・ウェインは本当にこの役がよく似合う。
西部劇の典型例と理解したらいいのかしら。 しかし、『食人族』『NO...
西部劇の典型例と理解したらいいのかしら。
しかし、『食人族』『NOPE』を通過した後だと、名作だと持ち上げるにはちょっと躊躇するものがある。
2つの意味の捜索者
南北戦争が終わり
ひとりの男が故郷に帰って来た。
男は愛する者を兄に譲り
その家庭を静かに見守る。
時はコマンチ族の全盛期。
家族を奪われた男は
拐われた姪を探す旅に出る。
アメリカの広々とした赤い大地
そこに吹く風さえ感じさせ
温度さえ伝わる映像の数々。
ジョン・ウェイン演じる男の
非常さ、寂しさ、愛情のゆきどころ、
その全てが伝わってくる。
「2つの意味の捜索者」
愛する者の家族
そして自身の愛
喜びに溢れ、非常に寂しい
ラストカットは必ず涙する。
大好きな映画。
※
乾いた男が笑うとき
1956年。ジョン・フォード監督。南北戦争終結後のテキサス。戦争中から行方知れずだった男は兄の家に帰ってくる。ひそかな思いをもつ兄嫁や甥姪たちと旧交を温めるが、その日のうちに牛泥棒を追って警備隊とともに荒野へ。その間に一家がコマンチ族に襲われ、二人の姪は連れ去られ、ほかの者は惨殺されてしまう。男の復讐と姪たちを取り戻す捜索の旅が始まる。
情緒に流されない男は兄一家が襲われたことを聞いても、激情に身を任せることなく冷静に帰り道の距離を判断している。兄嫁を殺された復讐の念は強いがやみくもに突撃するのではなく、コマンチ族とわかれば死者にさえ発砲するがそれは彼らの迷信を利用するためだし、連れ去れた姪でさえコマンチ族の一員として育ったと知ると拳銃を向けるが、それはもう白人社会には戻れないという思慮の結果だ。つまり、男は冷徹な判断のもとに慣習や情緒を無視して行動するのだ。
しかし、男も変化する。旅の道づれは幼いころに男自身が助けて兄一家に預けていた原住民族出身の若者だが、原住民族出身であることを理由に男はまったく親しみを示さない。ところが、旅の後半、銃撃されたときには家族ではないと断りを入れるものの遺産はすべて若者に譲る決意をするし、なにより、一度は殺した方がいいと判断した姪を最後には殺さずにつれ帰ってくる。ここで、若者と姪の境遇が正反対になっていることが重要だ。姪と正反対の境遇の若者は当初から一貫して姪を救おうとしているのだが、男自身は終始殺そうとしており、最後の最後で突然生かして連れ戻す決断をしている。それは、蓮實重彦が言うように姪を掲げあげる身振りの再現として表現されているのだが、物語の意味上は、その前のシーンで、若者が他の男と結婚しようとしてる恋人をめぐって一対一の喧嘩をする場面に端を発しているだろう。ここで若者は正々堂々と喧嘩をして仲直りするという【男同士の儀式】を通して、男に認められている様子だからだ。このとき、復讐の鬼と化している男は満面の笑みをたたえている。姪とは正反対の境遇にある若者への認知が、姪を生きて連れ戻すことにつながっている。
基本的に復讐を遂行する陰惨な話で、時折さしはさまれるコミカルなシーンでさえ笑えない空気を漂わせているが、逆に、笑えないコミカルなシーンによって、ベースにある男の執念の特異性が浮き上がっているともいえる。
近年の高い評価も理解できる
人気俳優ジョン・ウェインと、人気監督ジョン・フォードが組んだ、ただのエンタテインメント「西部劇」として扱われた上映当時は、興行成績もパッとせず、評価は低かったのだという。
しかし、本作の背景にある、アメリカ先住民とテキサス入植者との間に起きた悲惨な史実を踏まえて見ると、先住民を単なる「悪役」に仕立てたエンタテインメントではない本作の捉え方も、違ってくるのだと思う。
そうした「先住民への眼差し」の部分を除いても、この作品の映像美や撮影技術などは高く評価され得るもので、公開から半世紀も経ってから高評価を得るようになったのも、むべなるかな、と思わせられる。
やはり古典の一つとして見ておくべき一本だろうと思う。
普通に良い西部劇ではある
wジョンの西部劇だから、大西部の俯瞰映像とか圧巻です。
確かにウェイン君がダーティヒーロー寄りで異色だし、全体として良い西部劇だとは思いますが、これが西部劇を代表する名作というほどのものではありません。
尤も公開当初は話題にならず、フランスの若いモンが騒ぎ出したら名作になったらしいから、世間の評価なんてその程度のモンですね。大体、映画に限らず「再評価」ってマユツバか話題作りでしよ?徳川綱吉が名君だったとかね。当時の空気感は当時でしかわからない。
予備知識ゼロで、この映画を本当に素晴らしいって思えるんですかね?
あと、観た5分後にラストシーンが映画史に残るらしいことを知ったけど、もう忘れてた。はー?
ネイティブアメリカンは勧善懲悪の相手?
見事な映像美の作品だ。
そして、従来のフォード映画にはない雰囲気の作品として後に評価されたとのことだが、
しかし、果たして過去のフォードイズムから
脱却は出来ていただろうか。
もちろん、フォードイズムを体現する
ジョン・ウェインの、
この映画での残虐性と孤独感は
従来には無いタッチだ。
しかし、伝統的にフォード映画で
描き続けられるネイティブアメリカンの描写
は相変わらずだ。
西部劇はある意味、文明の衝突だろうから、
双方に残虐性はあったろうが、
この映画では、開拓者側の残虐性を
ウェイン一人にその性質を背負わせて
その他の開拓者は皆善人のような描写、
それに対して
総体としての残虐性を示唆するのは
ネイティブアメリカン側だ。
また、知性の優劣を匂わす映像手法は、
変わらずこの作品でも一方的だ。
川の反対側に逃げたジョン・ウェイン一行
に、撃って下さいと言わんばかりに
襲い掛かったり、
まるで自由に攻めて下さいと言わんばかりの
コマンチ族の無警戒キャンプ設定等、
まるでネイティブアメリカンは知的に劣る
人種のように描くフォード映画の慣例は
変わらないままだ。
また、ウェインとハンターが
コマンチ族に岩場に追い込まれた後、
どうして追撃を受けずに、
無事結婚式場に現れることが出来たのか等、
いくつかの不自然で説明不足な
御都合主義的ストーリー展開も
気になるところだ。
フォード監督が
少しはネイティブアメリカンの苦難を
描くことが出来たのが「シャイアン」
だったろうが、
基本的に彼は、ネイティブアメリカンを
勧善懲悪の相手として描き続けた映画人生
だったのだろうとは思った。
ネイティブアメリカンへの偏見と憎悪に憑かれた西部男の生き様と孤独
ネイティブアメリカンに誘拐された姪を何年もかけて追跡するイーサン・エドワーズの生き様が、ひときわ輝く西部劇の名作です。彼のネイティブアメリカンを嫌悪し差別する偏屈さが、事件解決を諦めない執念深さに繋がります。助手のマーチン・ポリーは、命の恩人と慕いながら、チェロキー族の血を八分の一受け継いでいることで嫌われて、目的の為には手段を選ばないイーサンの独断専行に振り回されます。このイーサンとマーチンのぶつかり合いながら進む捜索が、結果が予測できる単調なストーリーを変化に飛んだものにすると共に、発端の殺害事件と当てもない捜索から受ける深刻さと暗鬱さを、ふたりのときに楽しい掛け合いが和らげて、喜怒哀楽がある絶妙なバランスで進む人間ドラマしているのです。特に、マーチンと牧場主の娘の恋愛トラブルを映画のクライマックスの前に持ってきた脚本の構成力は素晴らしい。フォード監督得意の大格闘を楽しんでからの急展開が、堪らない。
堅物イーサンを演じるジョン・ウェインの魅力が傑出しています。ジェフリー・ハンターもなかなかの好演。勿論フォード監督の演出とウィントン・C・ホックの撮影は、完璧なカメラワークとカラー映像の鮮やかな美しさで魅せてくれます。ラスト・ショットに刻まれた、ひとり去っていくジョン・ウェインの孤独が何とも味わい深い。
イーサンは戦争が終わった後、何をしていたのか?
インディアン狩りをしていたのだよ。いや彼は戦争が終わったこと知らなかった。途中で脱走兵になってインディアン殺しをしていたのである。それでインディアンたちから恨みを持たれて追われていた。
彼はそれを知っていたし、牛が盗まれたのも罠だと分かっていた。だから牛が殺されてるのを見たときに行動が落ち着いていた。
インディアンたちの人数が多いことを知っていたので牛泥棒追いかけるフリをして逃げたんですよ。それに脱走兵は死刑では?・・・彼が脱走兵 であることを知った家族をインディアンに殺させて口封じをしたのですよ。 一石二鳥
インディアンの若者は彼のことを知っていたし彼はインディアンの若者を知っていた。お互いに憎しみに満ちた目をしていた。インディアンの若者が英語を話すのを見て、インディアにさらわれた娘が英語を教えたのだとわかったのですよ。彼女がインディアン語と英語と両方 話せるようになってるってね。彼女は彼がしてきた虐殺をインディアンから聞いて知っているとね。
だから彼女を殺そうとしたのだよ。
しかし人殺しがバレて死刑を免れないと知った彼は彼女を助けることにした・・・。
これはそういう物語だ。
ジョン・ウェインのイメージに惑わされてはいけない。
なぜ彼はあれほどまでにインディアンに詳しいのか?・・・何年間も殺し続けてきたからだ。なぜ一行は奇襲を受けなかったのか?・・・彼らのターゲットはイーサン1人だったからだ。なぜ成長したルーシーをさらったのか?・・・イーサンと交換するためだ。彼はそれを全て知っていたのだ。探偵のいないミステリーなのだよ、この映画は。
イーサン・・この男は差別主義者でいつも威張ってる野郎で臆病者で卑怯ものだ。
・・・コマンチが憎くて憎くてたまらない・・・1人の愚かな男の物語なのだ。そしてこの男のような人間として これ以下はない 最低の人間の中にも良心というものは生きている・・・ということを描いた映画だ。
この時代の彼のような人間がすでに時代遅れのように描かれているがそれが真実だったのかどうか今を生きる私には知るすべもない。
しかし アメリカに暮らす 白人たちのために一言付け加えておこうと思う。
コンドームという素晴らしいものがこの世に出現する前、赤ん坊はどうしても生まれてきてしまう。 たくさんの子供が生まれて人が増えてしまう・・・だからどうしてもよその国を侵略しなきゃいけなくなる。 それは狼だって同じだ。 イーサンのインディアンに対する憎しみは本能から生まれたものであり、この時代はこれで仕方がなかったのかもしれない。
西部劇の美しい映像を楽しむ映画
西部劇と言えばあの風景と世界中の人々が思い浮かべるモニュメントバレーの光景が、美しいカラーでワイド画面いっぱいに広がる
カメラの構図、アングル、広角や望遠レンズの多用など撮り方にはかなりの苦心とこだわりがみてとれる
明らかに本作が後にデビットリーン監督のアラビアのロレンスの映像に大きな影響を与えているとわかる
それほどの素晴らしい映像だ
もちろんインディアンとの戦闘シーンも迫力満点だ
しかし映画を見通してカタルシスを得られないのだ
まず主人公のジョンウェインの造形がヒーローとしては異質で悪役を思わせる設定
だから相棒の若者との長い旅があまり楽しくないのだ
最後はハッピーエンドなのだが大団円という感動が起こらない
主人公が最後に人格を変えるのだが、そこに至る過程が共感をもてないままラストシーンを迎えてしまう
そして肝心のインディアンとの戦闘シーンも駅馬車と比べると見劣りしてしまう
これだけ?と思ってしまうのだ
これでは確かに公開当時はヒットしなかったのもむべないと思う
21世紀に生きる人間の目で見ると、インディアンを人間扱いしないシーンは胸糞が悪い
彼らからすれば白人こそ侵略者なのだ
しかし当時はこうであるのだからそれをそのまま映画に残す態度で正しい
本作の価値を落とすものではない
西部劇の美しい映像を楽しむ
これが本作の見方ではないか
ずっと主人公側の視点ばかりで進行する話
総合65点 ( ストーリー:70点|キャスト:65点|演出:60点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
物語が始まるやいなやいきなりたくさんの人名が出てくるので覚えるのが大変。そうかと思ったらあっという間に殆どが殺されてしまって覚えた意味がなくなった。
それで本編だが、州をまたいで広大な大地を5年にも渡る長い追跡というのは想像していなかったし、季節をまたぎ各地を彷徨うその大変さが感じられた。仇討ちのために半生をかけて日本中を歩いて仇を探し出すという江戸時代の話を思い出させる。そうして苦労しながら長旅を続ける彼らの執念と苦労が良かった。
しかし先住民相手に商売をして生活費を稼いだというのが出ただけでは少なすぎで、もっとその5年の生活の大変さをわからせる場面があってもいい。その意味では演出が足りない。
そして先住民の妻が死んでも主人公たちが何の感傷も見せない扱いの酷さにはがっかりする。敵役のスカーの扱いも似たり寄ったりで、白人に家族を殺された彼がどのような人物なのかを殆ど描写しないし、そもそも殆ど登場すらしない。ただ敵役として存在するだけで、しかも知らないうちに殺されていて、ただの白人側の話の中に登場する悪役扱い。これが当時の白人優位の一方的な視点から作られた作品だというのを強く意識させられる。それでもスカーに白人に家族を殺されたから同じことをしたと言わせただけまだましかもしれない。
結末のデビーの心変わりにも、それがあっさりとしていて今までの彼女の苦労はなんだったのかと思った。彼女の経験も心痛もよくわからないままに終わった気がする。
古典的西部劇、モニュメント・バレーの雄大な景色が圧巻
ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演のインディアンを悪玉とした1956年制作の古典的西部劇。インディアンにさらわれた姪を捜すジョン・ウェインと助っ人役の青年ジェフリー・ハンターの距離感の縮まり方が面白かった。その青年の帰還を長く待ち望む恋人との二人のエピソードも退屈しなかった。現代映画では、許されないであろうインディアンを単純悪として描いた昔ながらの懐古的西部劇でした。モニュメント・バレーの雄大な砂漠の風景を見るだけでも一見の価値はあります。約60年前の映画であるにもかかわらず画質の素晴らしさに驚きました。日本映画の保存管理は大丈夫でしょうか。なお、2008年にはアメリカ映画協会によって、最も偉大な西部劇映画第1位に選出されたそうです。
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