ストレンジャー(1946)のレビュー・感想・評価
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ウェルズ節炸裂のナチス残党狩りフィルム・ノワール。個性派の映像的ギミックに酔いしれる!
マスターピース。 内容自体はオーソドックスなノワールの範疇に収まるものの、映像、演出、演技、すべてが天才オーソン・ウェルズの名に恥じない一級品に仕上がっている。 このあいだ観た『上海から来た女』のぐだぐだぶりから考えると、天と地くらいに出来が良い。 まあ、それほど深遠なテーマを扱っているわけではないから、『審判』や『オセロ』ほどに胸をえぐりこんでくるわけではないが、これだけウェルズの「手癖」がはっきりと刻印されていれば、十分すぎるくらいでおつりがくる。 オーソン・ウェルズという人は、ちょっと特殊な「巨匠監督」だ。 彼の本質は、「露悪的なギミック」にこそ、存在する。 あらかじめ観客に露見することを前提に、周到に配された「気づかせるための仕掛け」である。 彼は常に、ギミックをドラマツルギーに均しこむことなく、必ず観客がひっかかるようにバラまいてくる。 世間のいわゆるサスペンスの「名匠」たちは、通例ドラマのスムースな流れを阻害するようなギミックの配置には極めて消極的だ。彼らは観客が「気づかないうちに」緊張し、手に汗握るようなサスペンスを編もうと腐心する。たとえば、ウイリアム・ワイラーやビリー・ワイルダーの諸作を観よ。サスペンスの王道とは、むしろそちらのほうなのだ。 実は、この手の「悪目立ちする仕掛け」や「トリック撮影に近いような凝りすぎの演出」を平気な顔で「見えるところにバラまいてくる」監督が、もう一人いる。そう、アルフレッド・ヒッチコックだ。 あまり並べて評されることの少ない二人だが、この「ギミック地雷原方式」とでもいうべき子供じみたやり口において、ふたりはとても似通っているのだ。 観客がギミックや特殊撮影の在処に気づくような形でわざわざばらまいて、「監督すっげえ!!」と言わせること自体を目的化し、ほくそ笑んでいるような特異な演出技法が、両者には共通している。 その背後にあるのは、おそらく「稚気」だとか「茶目っ気」に近いものなのかもしれない。 「観客を面白がらせたい」という監督なら誰しも持つ強烈な欲求が、「自分も合わせて目立ちたい」という少年のような自尊心と結びついたものこそが、彼らふたりに共通する「これ見よがしな演出」と「どうやって撮ったのかが後から取り沙汰されるような撮影」への偏執的な拘りなのではないか。 僕ははっきりいって、こういう「悪い含み笑いをたたえた人間」の創る映画が大好きなのだ。 冒頭のドイツ人マイネケが南米の船着き場に降り立つ一連のシーケンスから、ウェルズ節は炸裂している。 その前のシーンでエドワード・G・ロビンソン演じる主任捜査官が力任せにパイプを破壊していたが、新たなパイプが煙をくゆらせながらアップになる。お、これはどこかにもう来て見張ってるんだな。 マイネケが質問を受けている税関から、係員の視線を追うようにぐぐぐっとカメラが上にチルトすると、顔の隠れたパイプの主が上から見下ろしている。彼の指示で尾行を始める美貌の女性、と思ったら、歩き始めたマイネケとオーバーラップして、そのまま流れるように女性が次のショットに入り込んでくる。 なんという有機的なカメラワーク。 なんとこれ見よがしで自慢げな「手技」の面白さ。 このあとも、逆光のシルエットとそこから伸びた影が壁伝いに交錯する美しいキアロスクーロや、写真屋のカメラのレンズに映り込んだマイネケが店主に脅しをかけるトリックまがいのショット、世評に名高い森での長回しのマイネケ殺害シーンなど、たくらみに満ちたカメラワークが随所に観られて、ほんとうに飽きさせない。 お話としては、逃走犯が隠れ処からわざわざ絵葉書送ってくんなよとか、追尾中の捜査官がいきなり顔出しで犯人と接触するのかよとか、尾行しながら屋内に入ってなおモクモクパイプを吹かしてるのはどういうことだとか、いろいろツッコミどころは満載なのだが(笑)、映像を観ているだけで細かい粗はだんだんどうでもよくなってくる。 中盤からは、いわゆる「倒叙物」として、あるいは「『危険な夫』系サスペンス」として、手に汗握る展開が続く。 相変わらず官憲側の監視が緩すぎて、四六時中関係者を命の危機にさらしているし、元ナチのほうも、身バレして捜査官がそこまで来ているのに「殺人の証拠さえなければ」とかいって街から逃げ出す気配がないのはいくらどう考えてもおかしいと思うが、専ら「映像の力」だけで、ヒリヒリするような緊迫感と不安を煽る重苦しい気配を持続することに成功している。 とくに、煙草を喫う新妻メアリーのシーンは、彼女の中で頭をもたげる不安や疑念が背景に映り込む影の形をとって分離しているかのようで、美的効果としても心理描写としても素晴らしい。 ナチスによる残虐行為のフッテージフィルムをここで挿入してくる「ギミック」も功を奏している。 この映画、まだニュルンベルク裁判やってる頃に撮られてるんだよね。ほんと先見性があるわ。 ラストの舞台が「あそこ」で、犯人が「どうなるか」は、アレが出てきた時点でおおよそ想像がついたし、むしろそれをしてくれないと映画が終われないくらいの感じだったので、無事想像どおりのエンディングを用意してくれていて良かった。 時を支配する「ジャスティス」の刃は、まこと天網恢恢疎にして漏らさず、というわけだが、自分で修理に拘泥して必死で「復活させた」機構が、最終的に彼自身を殺す「からくり細工」として機能してしまう結末は、じつに皮肉でひねりが効いている。 作中では、オーソン・ウェルズの元ナチ将校もさすがの悪役演技だったが、なんといってもエドワード・G・ロビンソンの捜査官役は安心感があって良い。奥さん役のロレッタ・ヤングも体当たりの熱演ぶり。あと、笑い上戸で、賭けチェッカーを心から愛し、本気を出すときはなぜかテニスキャップをおもむろに被る雑貨屋の太ったオヤジ(ビリー・ハウス)がインパクトメガトン級だった。 ちなみに、オーソン・ウェルズ自身は、この映画のことを「こいつはハウスの映画だ」とのたまっていたらしい(笑)。
エドワード・G・ロビンソン を観る
製作時に ナチス逃亡犯の理解が、アメリカで どれだけ為されていたのか、いないのかによっても この作品の意味は違う (ウェルズが 注意喚起したなら、立派である) 彼は 興行成績(収入)の失敗により、 映画会社と喧嘩してた途中だし 作品自体は らしくなく、オーソドックスな物になった (会社の注文か?) 俳優の起用が おもしろいかな? これも、ウェルズの希望どうりでは、ないらしい ともあれ、エドワード・G・ロビンソンの存在感は やっぱり大きい (俳優としては、ウェルズは格下であることが 判る) 小間物屋の親父、小男など アクの強い面子が気になる これだけの天才なのだから、キャストぐらい好きにさせてあげたかった 監督の色というものが あるだろうに
今や定番モノ
物語中盤くらいまでは話の筋も読めずハラハラする展開を期待していたが基本的に登場人物の行動やセリフで都合良く解決に進んで行く単純さは否めない。 こんな展開やオチのある映画やドラマが今や珍しくも無くリアルタイムで観るからこその価値がある。 演出などに古さを感じる訳でも無く普通に楽しめる構成にはなっていると思う。
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