ゴッドファーザーPARTIIのレビュー・感想・評価
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ロバート・デニーロかっこいい、、!
前作に引き続き見ましたが相変わらず重圧感のあるマフィア映画。
陰影の使い方もよく工夫され、マフィアの恐ろしさがよく表現されてた。
ロバート・デニーロが若き日のドン・コルレオーネを演じててとてもよかった。
最後の方どんどん悪い方向に進んでいくマイケル、、、奥さん殴って子供だけ引き取ったり、お兄ちゃん殺しちゃうし、、、
続きが気になる!!どうなるマイケル!
*実際の歴史を知る事の面白さが魅力*
こんな最高の作品があるだろうか。
最早文学。
この度はクライムファミリーコルレオーネの歴史と現代へようこそと言う感じ。
Part2は続きと思って観るよりも、実在したモブスターの知識を得てから鑑賞する事で一気に面白味を増す。
マイケルの洗練された姿は、まさに苦悩の塊そのもの。品位と重たい存在感が備わっており、むしろここまで圧倒するキャラクターは映画らしいといえばそうだ。
さらにマイケルの父親の若かりし頃をデニーロが演じているが、何と言う格好良さだろうか!
Part2の面白味は、「マイケルがいかに強いか」と言う点にあるのではと思う。
まず、明らか過ぎるマイヤー・ランスキーをモデルにしたハイマン・ロス。ランスキーが言ったとされる台詞までロスに言わせる始末だ。実際に国を転々とするも受け入れてもらえぬランスキーだが、そんなところまで忠実にロスは演じている。実際のランスキーは、殺されてはいない。そのはずである。マイケルは?容赦なく殺すのだから、最早その世界では無敵のような強さだ。ランスキーは、その世界でもナンバーワンとも言われたルチアーノの右腕のような人物だった。映画などでは時々、英語の会話の方(字幕でなく台詞)で、名前を耳にする事もある。「マイアミの大物」といえばこの人だった。
そしてロスは、マイケルに対し、昔自分の友人を消されたと言う話をする。ランスキーの仲間だったベンジャミン・シーゲルについて言っている。
なんて「明らか」な人物だろうか?
笑ってしまう。
この辺りは映画ランスキーやモブスターズなどなどで観られるだろう。
実在の人物を知った途端、別の面白さを引き出すのがPart2だ。
マイケルは、当時のクライムファミリーの歴史の流れとも一致した行動をとる。
バグジーがきっかけとも言えるラスベガスには続々とファミリーが進出したし、コルレオーネファミリーも行く。
ここでは出てこないが、キューバ革命の前に、CIAがモブスターらにカストロ暗殺を依頼したと言う話も有名だ。
さらに、なんとか委員会を思い出させるシーン。マイケルも呼び出されて尋問される。ああいうのが実在した時代、内部の揉め事から、コーザノストラの実情をベラベラと発言した構成員もいた。
Part2は、そう言う歴史を追って実際の出来事を思い出させる内容にもなっている。
なるほど、コルレオーネファミリーは、いかに強いか。それが嫌というほど感じる。同時にマイケルの冷酷さも完璧過ぎていて、理解不能な人物だ。だけどそれが良い。マイケルは、徹底して排除する点で冷たいが、物凄いストレスも感じているのだから。こういうキャラクターは本当にいい。マイケルは決してブレる事がない。
実在のシチリアのコルレオーネファミリーはその他同業者もだが、メディアや本に触れる限り本気で洒落にならんも
のだ。(もちろんマイケルの話とは無関係)クライムムービーは、本当に映画だからこそ魅力だ。
ラストの想い出の一場面が良い。
再びそこでPart1に返ってしまう。
前作を見てこの作品の良さが、この作品を見てこそ前作の真髄を知れる。...
前作を見てこの作品の良さが、この作品を見てこそ前作の真髄を知れる。デニーロはこの作品に合っているかは別として、恐ろしい存在感。自立した感じが過ぎてて落ち着きが恐ろしい。アルパチーノの演技はもうキャラクターとして完璧に成立している。人生をかけて何回も観るべき映画。
最強の続編
言わずと知れた不朽の名作『The Godfather』の続編。枯れる所か正に水を得た魚の如く溢れ出る idea を漲らせ、再び最強の布陣により産み落とされた今作は“最強の続編”となった。
Corleone family の黎明期(Vito の成長~Godfather 誕生)と新たに Godfather となった三男 Michael による family の成熟期を交互に描く事で、発展に伴う energy の力強さと、肥大化して行く family 運営の難しさが浮き彫りとなる。洗練されて行く時代の流れへの対応を迫られながらも更なる野望に駆られる Michael の苦悩は想像を絶する重さである。と同時に Michael の決断に深い傷を負う家族/同胞(=family)の悲哀も悉く重い。Michael の冷徹さばかりが際立ち、それとは逆に Vito の器の大きさや温かさが family の心の支えに なっているのが何とも歯痒く切ない。
劇場で観るのが2回目、自宅で観た回数は数知れないが、観る度に傑作の名に恥じない(恥じる訳がない)奥深さを味わい、理解を深める悦びに悶える。
やはり劇場で観るのは良い。映画の醍醐味を痛感させてくれる その輝きは、永遠に翳る事はない。
part1を必ず見るべき
他の映画の場合別に前作を見なくても楽しめるかもしれないが
ゴッドファーザーはpart1を見ないと、この面白さが分からない
それどころか意味不明であろう。
アメリカの社会を牛耳るマフィアの姿を描いた傑作
前作同様に素晴らしい脚本、演出、役者の演技であるが
part2は、よりバイオレンスであり、悲しみが強く表現される
またヴィトーの若かりし頃の描写は英雄的であり痛快
二つの異なる時代が交差しながら展開されるのも効果的だ
まさしく監督の意図したとおりの効果が現れている
part1同様に象徴的に扱われる「扉を使うシーン」も注目である
非常に長い映画であるが、まったく飽きずに見ることが出来る
本当に素晴らしい映画
part3も面白いが、part2を見てからしばらく経ってから見たほうが
面白いかも知れない
前作が凄すぎてかわいそうな次作の代表
これはあくまでゴッドファーザーとセットでないとダメです
いきなりこれを観ても訳がわかりません
またゴッドファーザーを観てこれを観て、なお一回では面白さがわかりません
つまりかなり深い内容と繊細な完成度であって、観る側の知能を映画側が選びます
馬鹿がポカーンといきなりこれだけを観ても決してこの映画の本当の面白さがわかりません。
逆に言うとこの映画は本当に深く完成度も前作には及ばずとも負けないという事です。
本当にゴッドファーザーが好きならば、こちらの方が好きという方も多いと思います
複雑ですがフェアな複雑であり耐久性があります
演技の素晴らしい事と言ったらありません
絶賛できるアルパチーノの代表作品です
ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー
2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、
この二つの時代を横断する
「感情の相似 ― 似ている点」 と
「環境の相違 ― 違う点」
が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。
しかし、
「感情の相似 ― 似ている点」 は跡形も無く消え去り、
「環境の相違 ― 違う点」 のみが強調され、
“憐れなほどの格差” に苛まされることになります。
第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを襲う過酷さ」 と、
2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制のラビリンス」 が、
今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。
実に、残酷で芳醇な逸品だったのです。
前作 第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、2代目を継いだ
マイケル の “その後の物語” と、
一代で ”ファミリー” を立ち上げた マイケルの父親
ヴィトー の “若かりし日の物語” がリンクする、
非常に意欲的な構造を今作は成しています。
そんな今作のファーストカットは、トランペットの哀愁を帯びたメロディと共に、ゴッドファーザーとしての役割を “物憂い” 表情で行っている 二代目・マイケル を映し出してきたのです。
この時点で、ボクは
今作の性向を察知
するべきだったのです。
ファーストカットからして、 マイケル は
“物憂い” 表情 という、
判りやすい態度でいてくれたわけですから。
【 父親・ヴィトー の大帝国を引き継いだ 三男・マイケルの “その後の物語”
と
父親・ヴィトー の “若かりし日々” がリンクしてくる。 】
そんな今作のプロットから推測して、ボクは、二つの時代に展開していく “成長と成功” を体感できるものと、
大きな勘違い
をしてしまったのです。
一方は、“成長と成功” を獲得していくが
他方は真逆の悲惨な状況に陥っていく。
今作はそんな、過酷な展開をしていったのです。
この皮肉なストーリーを今作は、ある “象徴的なモノ” に託してタイトルバックに
結実させていたのです。
“象徴的なモノ” それは、
マイケル が座っていた
書斎の 重厚な椅子。
その年季の入り具合から、先代・ヴィトー の時代から使われ続けている物だと推察することができます。
先代・ヴィトー の様々な局面を身近に見守ってきて、これからの 2代目・マイケル の諸行を目撃していくこの椅子こそが、
2世代の物語を俯瞰していく
今作のタイトルバックに、最適な被写体であったのです。
しかも、椅子というモノが暗示する事柄を考えると、その想いはひときわ重くなるのです。
椅子が暗示するもの
それは、 「地位」 。
若かりし ヴィトー が如何にしてこの 「地位」 を築き、
若き マイケル が如何にしてその 「地位」 を保つために、悲惨な人生に
堕ちていくのか。
そんな今作の世界観を象徴するこのタイトルバックに、
ボク は早々に映画的興味を駆き立てられたのです。
この素晴らしいオープニングショットの後、
映画は ヴィトー 9歳時の過酷な運命を語ってきました。
辛い経緯の後、シシリー島を追われるように彼は、9歳の身で単身アメリカに逃れてくるのです。
移民船がニューヨークに近づき、デッキの移民たちが無言で一つの方向を
見つめている。
勿論、幼きヴィトーもいる。
その視線の行き着く先に、 自由の女神 が静かに姿を見せてきたのです。
この映像を、郷愁を湛えた音楽が包み込んでいきました。
「不安と夢」 が混ざったこの船上に、自分の命を守る為に9歳の男の子がいることに、
言いしれない 哀しさ
を感じたのです。
検閲官に名前を聞かれ、ヴィトー が英語を話せないでいると、
“コルレオーネ村の ヴィトー・アンドリーニ” という名札を誤解され、
台帳に ヴィトー・コルレオーネ と記入されてしまいます。これが彼の本名となっていきました。
それだけ、この9歳児は アメリカ大陸においては
“何もできない存在” だったのです。
今作は、天然痘の疑いでエリス島に隔離された収容所の窓越しに、 ヴィトー
が自由の女神 を虚ろに眺めている
1901年 から “ オーバラップ ” という技法を用いて、 もう一つの時制、
1958年 2代目・マイケル の時代に、移行 していきました。
“ オーバーラップ ” という技法は
「 A 」 → 「 B 」 と場面が移行する際、
先行する 【 カット 「 A 」 】 が徐々に薄くなるや、
次なる 【 カット 「 B 」 】 が現れ始めて、
2つのカットが重なりあいながら
ゆったりと場面移行をしていく表現手法を指します。
この手法を今作は、
「 A 」 で生じた 感情 を 持続 させながら、
「 B 」 という 状況 に 移行 する為に、
効果的に活用しているのです。
9歳時の ヴィトー からの “オーバラップ” 先 は 同じ年頃の アンソニー・ヴィトー・コルレオーネ のキリスト教儀式の場でした。 名前に ヴィトー の文字がある通り、彼は ヴィトー の孫、マイケルの息子にあたる少年なのです。
英語が話せず、孤独で不安、粗末ないでたちの ヴィトー と、
キレイに着飾った孫の アンソニー。
その後の、盛大な聖餐会をしてもらえる アンソニー と
一人寂しく隔離されている ヴィトー 。
このように、
同じ年頃 ではあるが、
違う環境 にいる 二人の、
57年間の 大きな隔たりを繋ぐ “オーバーラップ” の見事さに
感動したのです。
この “オーバーラップ” の素晴らしさに触れて、ボクは、早くも今作の ”映画のルール” を見つけた思いになったのです。 それは
【 父親・ヴィトー と 2代目・マイケル の時代は、
二つの時代に共通する要素を 「ブリッジ」 にして、
“オーバーラップ” で繋いでいく 】
というものでした。
そして、このような “ルール” で活用されていく “オーバーラップ” という
表現手法は、 2つの時代に共存している
「相似」 点 ― 似かよっている点 と
「相違」 点 ― 違いがハッキリしている点 の
コントラスト をしっかりと描いていくはず。
とこの時点のボクは 大きな期待を持ったのでした。
2代目・マイケル の時代に今作のストーリーを推進していく事件が勃発しました。
あろうことか、マイケル の自宅にマシンガン攻撃がなされたのです。
驚愕する マイケル 、騒然とする “ファミリー” の面々 。 平静を装って子供を寝かし付ける彼の横顔に
“オーバーラップ” してくる
青年の姿がありました。
時は 1917年 ヴィトー 25歳。
今作は1児の父親となっていた ヴィトー の時制へと “オーバーラップ” していったのです。
9歳の時、自分の名前を主張できずに ヴィトー・コルレオーネ という名前になってしまった、あの何もできなかった孤独な少年が ロバート・デ・ニーロ に成長していたのです。
今回の時制移行が、それ以降の “オーバーラップ” 表現の指針となったわけですが、
この、2代目・マイケル と デ・ニーロ 演じる若かりし日の 父親・ヴィトー の2つの時制を結ぶものが
寝室を銃撃された直後、マイケル が息子を気遣いながら寝かし付ける
「父親の顔」 と
デ・ニーロ 演じる ヴィトー の、ベビーベッドにいる 長男 を見守る
「父親の顔」 への
“オーバーラップ” となっていたのです。
時代は違えど、子供を気遣う 普遍的な感情 を見て、心が暖かくなっていきました。
これがボクの言う
「相似点」 ― 似かよっている点 を
象徴するカットだったのです。
しかも、 “似通っている点” の中でも、 “人の想い” に注目していることから、
今作は
【 「感情の相似点」 - 時代は違えど、共通する 人の想い - を
「ブリッジ」 にして2つの時制を “オーバーラップ” で繋いでいく 】
という、映画のルール によって進行するものと、思い込んだのです。
制限文字数では語り切れず。完成版はこちら
↓
http(ダブルコロン)//ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-94.html
"映像"が語る迫力
前作よりもイタリア系移民とアメリカ社会、ファミリーとしての人間関係など自身のアイデンティティーを色濃く反映させていてより自由に制作をしていることが伺える。
2人のドン・コルレオーネを交錯させながら描くことによってファミリーの内面に深く入り込み、その時代背景も関係させつつ光に充ちていた過去とゴッドファーザーの偉大さ、ファミリーのドンとしての困難に直面するマイケルの悲劇性を対象的に打ち出すことに成功している。
前作と同様にファミリーという1つのアイデンティティーを重厚に映し出す大河劇ではあるが、その人間それぞれの内面に向けられた眼差しは前作を凌ぐ。
また、 天才デ・ニーロは、この若さでハリウッドの頂点に上り詰めたのも納得の演技で彼自身のキャリアでもトップに輝く好演である。
この作品は俳優や風景によって"映像が語る"作品であり、まさに"映画"である。
前作と続いて映画史上でお手本にされるべき本当の映画だ。
重厚な大作
マーロンブランドの若手時代をデニーロが演じ、過去とアルパチーノが仕切っている現代(1950年代)を行き来する構成を把握するのが大変だった。デニーロがインディーズから出世していくところ面白かった。結局裏切り者は一体誰だったのか煙に巻かれたような印象で、そこがマフィアの恐ろしさの本質なのかもしれない。売春婦が殺されて、何も覚えていないと動揺していたおじいさんは誰だったんだろう。上半身裸で髪が乱れていたせいでよくわからなかった。とにかく登場人物が多くて、誰が誰の兄弟でとか、それも把握するのが大変だった。
(追記)
1作目を見たので続けて見る。2回目だ。1作目も長いが、こっちはさらに長くて3時間20分もあって見るのが大変だ。同時多発的に敵を殺す場面はハラハラする。
雰囲気が物をいう
雰囲気が語る人間の心情、ストーリーの緊迫感
もとは本だったことからひとつひとつのシーンを忠実に再現しようとする監督の試みが見えた。
賑やかな雰囲気の時の照明、緊迫した雰囲気の時の照明の違いがとても印象的。
しかし話が難しくしかも二つの話が並行して描かれている。それに加えて200分という上映時間ながらその長時間に内容がぎっしり詰まっている。
ストーリーをあらかじめ知っておいて見た方がよい。
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