劇場公開日 1972年7月15日

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「見事な聖と俗の転倒」ゴッドファーザー よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

4.0見事な聖と俗の転倒

2015年7月10日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

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知的

冒頭の結婚式のシークエンスは長い。この晴れの場は屋敷の屋外で行われ、屋内ではドン・コルレオーネが陳情を持ってきた客人の対応をしている。映画はその両方で起きていることを交互に映し出している。その陳情の内容は当事者の人生や尊厳にとって大きな意味を持つ話が行われているのだ。
結婚式は聖なる儀式だが、その後の披露パーティーはすでに俗人たちの楽しみに過ぎない。フランシス・フォード・コッポラ監督は、このような視点を提示しておいて、屋内で起きている陳情の数々にはむしろ神への祈りにも似た聖性を与えている。ファミリーへの忠誠と友愛という信仰心を持たない者には、そこへ入ることすら許されないのだ。
聖と俗。この対比を通常の観念を見事に転倒した形で映像として見せる、この結婚式のシークエンスで、マフィアの価値観に抵抗する観客との勝負はついた。
この冒頭に対応するかのようなラストのクライマックスに、教会での洗礼式と同時進行で敵対するマフィアの頭目を次々と殺害していくシークエンスがくる。
ここで敵の殲滅作戦を指揮するマイケル・コルレオーネ演じるアル・パチーノ本人は甥の洗礼式で、名付け親として聖性を帯びている。おおよそ俗人としてはこれ以上ないほどの聖性を身に着けているマイケルは、しかしその聖性に反することを彼の部下たちに実行させているのだろうか。
いや、ここでも結婚式と同様に聖と俗の観念の転倒が行われている。だからこそこのクライマックスは映画史に残るのだ。
俗人には立ち入ることのできない世界。ただのイタリア移民ビトーの息子マイケルが、マフィアの世界における神、ゴッド・ファーザー、ドン・コルレオーネという聖性を纏う儀式がここでは進行している。この視点を得た観客の目には、もはや教会での洗礼式など俗人の習慣に過ぎないものになるのだ。
しかし、この聖なる世界を生み出したものはことのほか素朴で、前近代的なものであることが映画では開陳されているのだ。いや、むしろ、素朴で非現代的なるものであるからこそ聖性を帯びるのだと言ったほうがよいだろうか。
マイケルがミゲルと呼ばれるシチリアでの隠遁生活は土俗性に満ちている。束の間の新婚生活、シチリアの貧しさ、これらを守るためにこそ聖なる力が必要なのだ。自身に至高の聖性を身に着けることを課したマイケルの、アメリカへ戻ってからの行動に迷いはないのはそのためだ。

佐分 利信