「神話のようなすごい映画ーー血縁・忠誠・資本主義の交錯点」ゴッドファーザー ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)
神話のようなすごい映画ーー血縁・忠誠・資本主義の交錯点
随分前に2回くらい見ているはずなんだけれど、覚えていなかった。
タリア・シャイア(『ロッキー』のエイドリアン役)が出ていてびっくり。他もオールスターである。マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートン、そしてジェームズ・カーン。主役である初代ドン・コルレオーネを演じたのは、マーロン・ブランドだった。最高である。
ニューヨークのイタリア系マフィアの物語。移民一世のドン・コルレオーネから、二世への継承がテーマだった。
では、何を継承するのか?
マフィアとは? と聞かれたら、暴力を武器に違法な仕事で高い利益を上げる集団──そんな答えになるだろうか。
しかし改めて、その定義からは抜け落ちる、独自の集団の論理と倫理がこの映画からは伝わってくる。
この映画から教えられるのは、マフィアとは血縁による家族的な愛情を中心とし、その周縁に親分子分的な、やはり人情と貸し借りの論理で繋がる人々によって構成される集団だということだ。
冒頭でそのマフィアの論理がわかりやすく示される。
子分が次々にドンに自分のトラブル解決を頼んでくる。それを解決してやることで、ドンは“愛情”を示す。
愛情の借りは金では返せない。子分はドンに貸しができる。それを“忠誠”に変えて少しずつ返していく。そして、いつか自分がドンから「力を貸してほしい」と言われたときには、命がけでそれを返す。
けっこう、このルール運用は難しそうだ。ドンは大変なのだ。誰にでもできるわけではない。
清濁合わせ飲む胆力、リーダーシップ、周囲より一段も二段も上の高い認識や人格がいる。
だからこそ、グループメンバーからは大きな尊敬と敬意が向けられている。そしてその敬意がないと、そもそもこの組織は回らない。
マフィアの特異性は、血縁や地縁的な愛情と貸し借りの論理を中核に持ちつつ、同時に利益共同体でもあることだ。
ふつう、利益共同体は金銭的価値の測定による等価交換がルールである。それが資本主義のルールだと思うが、そこが歪んでいる集団だからこそ、結局そのルール同士の矛盾を暴力によって解消せざるを得ない運命を背負っている。
劇中、ニューヨークから祖先のルーツであるコルレオーネ村に、二世であるアル・パチーノ(マイケル)が身を隠しに訪れる場面がある。
村には人気が少ない。理由は、「抗争によって皆殺されてしまったから」というセリフによって説明される。
つまり彼らは、イタリアで立ち行かなくなって食い詰めて、世界一の経済都市ニューヨークにやってきたのだ。
そこでなら、経済と法のルールではない論理で動く彼らのような集団が必要とされ、機能して、食べていける。
二世であるドンの子どもたちは、父から血縁のルールを学んでいる。
しかし、繁栄する資本主義社会のなかでそのルールとリーダーシップを完全に学ぶことは、あまりにも困難で、たくさんいる二世の兄弟たちは皆、何らかの混乱を抱えて生きており、次のリーダーにはふさわしくない──ということが、映画を見ているこちらにも伝わってくる。
ドンはこのマフィア世界のルールのなかで、あまりにも偉大なのだ。
しかも、麻薬だけは扱わないという、マフィア世界の中での高い倫理観を持っている。
そのなかで、大学を卒業したばかりのマイケルにはドンは目をかけていた。
彼には素質があった。ただ、その素質を開花させたのは、コルレオーネ村での短期の生活、そして結婚という体験ではないか。
一族のルーツにただ一人短期移住することで、彼はマフィアの論理と倫理を内面化し、一皮むけて帰ってくる。
ダース・ベイダー誕生のようでもある。
役者陣はもちろん、ニーノ・ロータの音楽も素晴らしい。
あの有名なテーマ曲はなかなか流れない。そして「ここで流れるのか」という、そのタイミングは、上述した“倫理の内面化”とも重なっていて、鳥肌が立った。
まだ30代でこの映画を撮ったフランシス・フォード・コッポラ監督がすごい。
映画なのに、こうして社会システムや倫理体系を教えて、考察させてくれる描写を、このドラマチックな神話的映画に盛り込んでいるのだから。
パート2を続けて、大画面で見たい。どこかで上映しているだろうか。