生きる(1952)のレビュー・感想・評価
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人間への信頼
死の宣告を通して、平凡な(死んだように生きていた)人間が愛の行為者に変身する姿を、切実に丹念に描いた名作中の名作。
人間としてどう生きるか?生をどう受け止めるか?尊厳を賭けた人生とは?
それは愛の行為者として、自らの生を地上の愛として根付かせることだ。
こういう作品は突然生まれるわけではなく、その時代に“生まれるべくして生まれる”ような宿命を感じる。
戦争の惨禍を受け、罪なき罰の犠牲者となった日本の庶民。その逆境を生きていかなければならない敗戦後のカオスの時代には、自由の名のもとに溢れ出す動物的な欲望と活力が旺盛であっただろう。
しかし、黒沢の視力は人間の善性と愛を見据えていた。動物的な欲望に打ち勝つだけの強い理性(善性と愛)を持っていなければ人間とはいえない。「死」をグッと引き寄せ、「生」とがっぷり四つに組んで、人間への信頼と希望を与えてくれた。
人物にたっぷり肉付けをして、その性格や表情やクセを綿密に詰め、それぞれの人物にあだ名をつけ、“名は体を表す”ようにそれぞれの存在感で見事に競演させた。
役所の閉塞感、とよの闊達さ、息子夫婦の冷たさ、歓楽街の騒がしさなどなど。緩急のリズムの面白さを味わっているうちに、徐々に深刻な段階へと進む、その堰を切ったような凄まじまさに度肝を抜かれる。
とよが靴下を受け取るとき、どうして私に?と問うたあと、素直に渡辺の親切に感謝するシーンが好き。奇妙なコンビの二人が、最初にクリアしなければいけない感情のやり取りだった。
自分のあだ名をミイラと言われたときは、これから殻を破るエネルギーをもらったようで、一緒に笑ってしまう渡辺。
映画が終わったあと、鑑賞者の魂も殻を突き破られ、震えるほど感動するのだ。
志村喬の目とゴンドラの唄
この2点が素晴らしいです。イギリス作品よりオリジナルの方が良いという意見が多いのもうなづけます。黒澤監督のこだわりも凄いと思いました。
渡辺課長の葛藤が白黒の明暗の中にくっきりと浮かび上がっていました。
ジャングルジム越しのブランコの構図も素敵でした。
辞めた女性と喫茶店で話し、ぎらついた目で畳みかけた後に、やるべき事に気が付いて、晴れやかな顔で階段を降りながら、偶然ハッピーバースデーの合唱に見送られるシーンが良かったです。
ここから、お通夜のシーンはとても引き込まれまて観ました。
私はこの時代の映画をほとんど観たことが無かったので、終戦から7年しか経っていない盛り場があんなに華やかで活気があるとは知りませんでした。ナイトクラブもお洒落で、戦後急速にアメリカナイズされたとはいえ、音楽等のセンスはそんなに簡単に身につくものではないから、きっと戦前からすでに下地はあったのでしょう。戦争が無かったら日本はどれだけ豊かだったでしょうか。
ケーキが綺麗で美味しそうでした。丁寧な仕事ぶりです。それと、うさぎのおもちゃが可愛い。さすがmade in Japanです。
死ぬまで「生きる」ということ
「生きる」
1952年公開。
監督:黒澤明。
生きるということは、死ぬまでは生きる。
そういうこと。
主人公の渡邊(志村喬)は30年間市役所に勤続する市民課長。
自分が胃癌で余命が半年程しかないことを悟る。
心は千々に乱れて、生きた心地がしない。
誠に往生際が悪いのだが、非常に人間的である。
若い市役所の女性職員のとよ(小田切みき)にしか本音も言えず、
彼女にケーキや汁粉、すき焼きを奢るのが唯一の息抜きで、
とよの生命力が心から羨ましい。
とよと過ごす時間が生き甲斐になる。
つらつら考えるに全く無為な市役所での30年間勤務。
心には虚しさしかない。
渡邊の後悔の思いは映画の1時間22分まで続きます。
そして小田切みきにハッパをかけられて一つの仕事を成し遂げてから
死のうと決意するのです。
近隣の主婦たちの以前からの陳情。
汚水の溜まる空き地を子供達の遊び場に再開発する。
主婦たちの陳情は、役所で10回以上盥回しにされます。
公園課→いや土木科へ→嫌、衛生課→会計課→造園課→またしても土木課、
全く埒が開かない。
そして遂に渡邊は死を賭して駆け回るのです。
一番の反対勢力は小狡い助役(中村伸郎)
ともかく粘る、諦めない。
「まぁ、そこをなんとか・・・」
「どうかご一考を・・・」
相手が根負けするまで、頼み倒す。
後半は意外や、渡邊が公園建設を決意した所で、突然通夜の場面に変わる。
5ヶ月後、渡邊課長は死亡して
通夜の席です。
そして公園建設は誰の功績なのか職員たちは口々に話し始めます。
そして回想映像が交互に挟まれて、渡邊が胃の痛みを堪えつつ、
各課に掛け合う様子や、現地見学、そして大掛かりな造成工事が始まる。
ダンプカー、コンクリートミキサー、
ぬかるみに砂が撒かれ、徐々に遊具が備えられ、
公園は形を成して行く。
見守る主婦や子供たち。
公園は着々と仕上がって行きます。
「生きる」と言えば志村喬の歌う「ゴンドラの唄」
“命短かし恋せよ乙女“
“紅き唇 あせぬ間に“
“熱き血潮の 冷えぬ間に“
“明日の月日は ないものを“
感動的なラストかと思うと、
市役所の事務室では、少しも変わらずに、部署へのたらい回しが
行われている。
あくまでも役所の官僚主義を皮肉り、
職員の「事なかれ主義」を皮肉る、
リアリズム映画でしたが、
「ゴンドラの唄」の余韻はリリシズムに満ちていました。
ビル・ナイの主演でリメイクされたそうです。
どんな「生きる」なのか、楽しみです。
池袋文芸坐でリバイバル鑑賞
私が若い時に池袋文芸坐で観ました。黒澤明監督全作品をリバイバル上映企画です。
そして今、リメイク上映とのことで本作を見直しています。
私が加齢と共に主人公の年齢に近づいたことにより…以前との印象が変わりました。結末より中盤の作り込みに心打たれました。
今、若い皆さんも高齢になられてからご覧なって下さい。きっと印象が変わります。
余談ですが、若い時は『用心棒』が大好きでしたが今は『椿三十郎』を推します。これも印象の変化ですね。
一言「今を生きよう」
印象的だったシーン。
職場では、書類に埋もれて決裁印を黙々と押しているだけ。
家に帰ると、妻に先立たれて部屋はガラんと何もない。
主人公の居場所は、一体どこなんだ?。
話の展開も面白い。
主人公の結末が、もう途中で描かれてます。まだ時間あるけどって。
挿入されていくシーンから、周囲はどう主人公のことを思うのか。
そう持ってくるか、黒澤監督!。
志村喬さんの、最初はしょぼくれた初老の表情が。
どう変わっていくのか。最後の仕事、そのために。
2時間20分ほどがあっという間。今見ても遜色ない内容でしたよ。
⭐️今日のマーカーワード⭐️
「やればできる。やる気になれば」
70年前の話なのに
「死んでないだけで生きてるとはいえない」
そうなったのが自分のせいでなくても、
大切なことだけを見つめて、憎む暇なんかないと突き進めるか。
公務員の働く世界では今も通用してしまうセリフの数々。
何もしないことが現在の地位を守るのにベストというのはどうなんだと思う。
でも、自分があの通夜の場にいたら、心から主人公を悼み、一人で彼の尊厳を守ろうとする木村さんになれるだろうか。
渡辺課長のように、残り少ない生を突きつけられ、
独りで、生を求めて、正直に、貪欲に、ただ真っ直ぐに、突き進めるだろうか。
ヤクザに凄まれても、上司に圧をかけられても、同僚や自分より地位の低い人に迷惑がられ見下されても、愚直に目的に邁進できるか…
幸せってなんなのか、
働くとは、
家族とは、
色々なことを考えさせ、学ばせてくれる映画。
本作の息子・光男は愚かだし、嫁はクズだし、息子夫婦があんなんじゃなければね…
息子の父への厳しさは嫁に引きずられたものに感じた。
優しい嫁なら病を打ち明けられ、残された日々を親子で愛おしく慈しめたのだろうに。
家という容れ物に心通い合う人がいないから、仕事に邁進して、夕陽に見とれた束の間、独りで美しさをかみしめるしかなく…
「変わったこと」を面白がったり嘲ったりする部下や同僚ばかりなのも、それまでみいらのごとく過ごした主人公自身にも原因があるとはいえ、
体調不良なことは近くにいればわかるでしょうに…
志村喬さんは寅さんの博の父役でもとても良い演技されてます。
生まれ変わった気持ちになる!!
ミイラのように働いてきた人間が胃癌になり
余命幾ばくもないことを知ったことにより
死ぬまでにやりたいことを見い出したストーリーでした。
公園のブランコに揺られながら口ずさむ歌
ゴンドラの唄
亡くなった渡辺の帽子を拾って届けた警官が
葬儀に来て焼香したときの心境。
遺された家族が葬儀の途中で見つけたもの。
参列した人たちが彼がやり残したことに
生きることの歓びややり甲斐を感じる作品でした。
痛烈な役所批判。戯画的だけど当時からこのように見えていたんだなと。...
痛烈な役所批判。戯画的だけど当時からこのように見えていたんだなと。
役所の後輩?の女子と出掛けるシーン、マニック・ピクシー・ドリーム・ガール的でモヤる。ただそれがメインで展開されるわけではないのでまだよかったけど。
イギリス版では役所周りの描写とか後輩、周りの描き方、役所の人のあだ名、唄がどのようになるのかとても気になる。
何度観ても凄い映画と思う。
演出が、役者がいい。
キャメラのアングルがいい。
映画を観る上で、生きる上で、
避けて通れない深い映画。
初めてこの映画を見たときの衝撃は
意外な展開と主人公を取り巻く環境で
何もしなくても平穏である。
けれど、それでは証がない。
自分の生きた証は何なのか。
自分はいったい何者なのか。
本当にそれでいいのか。
どんどん彼を追い詰める。
悩み、道を外し、想う。
自分は誰の為にあるのか。
消え去るほど精彩のない男を
人の心に残る男に変えた。
それを観客に見せてくれる。
映画の製作者は観客に問う
生きている誰にでも共通する
「生きる」とはいったい何なのか。
何もしなくても生きている。
何かしても生きている。
残すか、残さないか。
深い物語である。
※
この春にはリメイクされた
「生きる LIVING」が公開される。
イギリス版も楽しみである。
※
残り少ない会社員生活
志村喬主演、無為に過ごしていた役人ががんで余命いくばくもなくなり、自分の生きる意味を問い、市民公園の整備に尽力する。
残り少なくなった会社員生活の中で、これから何ができるかとふと立ち止まって考えた時に思い出す。
お役所仕事が…
いわゆる形式的な作業しかしない「お役所仕事」を題材にした映画。
自分自身、市役所の人間には色々失礼な態度を取られた事が多い。
…それはさておき、この映画の主人公で市役所員の「勘治」は、自分が
末期ガンで余命わずかである事実を知ってしまう。 残された時間で、
市役所に抗議の多かった、町にある湿地帯は虫が湧いて困るという住人
からの抗議に応え、その場所を市民の憩いの場「公園」にしようと奔走する。
当然、役所側は、そんな手間と時間と費用の掛かる事業はやりたくない。
暴力団組織まで使って、主人公の活動を抑え込もうとするが、それに彼は
めげない。
詳しくはネタバレになるので書かないが、黒澤明監督の現代ドキュメン
タリータッチで描かれた作品は、作られた後の50年以上経っても、日本の
世の中で何も変わらない構造という物が多い。
ラストで、勘治が生前に最後に作った場所を通りすがる、若い市役所員の
様な、怒りに震えた、日本を変えたい若者が、この国にはまだ多く残って
いると、信じたい…
かなり素朴なヒューマニズム物語
ここは素直に黒澤明の誠実さに感動すべきなんだろうけど、展開のすべてが想定の範疇内に収まっていたなあというのが正直なところ。モノクロの陰影を登場人物たちの心の機微と重ね合わせる画面作りや、ハリウッドのフィルム・ノワールに特有の因果転倒的な物語構成など、物語を支える骨組みの部分には幾度となく舌を巻いたが、逆にいえば物語そのものより外郭に目がいってしまう時点で物語映画としては求心力が弱かったのではないかと思う。もういっそ全力で泣かせる方向に舵を切ってもよかったんじゃないか。私の心が乾いてるだけなのかもしれないけど…
黒澤が大島渚と三島由紀夫に「イデオロギーが中学生レベル」と揶揄されている記事を見つけたときはテメエらインテリぶりやがってよおと出所不明の怒りが湧き上がってきたものだが、本作や『生きものの記録』の前に立ったときに彼らの揶揄に真っ向から反駁できるかというとそこまで自信がない。澁澤龍彦ほどではないにせよ私も「人道主義のお説教」映画がそれほど得意ではないのかもしれない、と改めて思った。
ただ、役所でミイラのように生きていた志村喬が見出した人生最後の希望が「公園を作る」だったのはかなりよかったと思う。どれだけ荒唐無稽なプロセスを経ようと結局最後は手触りのあるリアリズムに帰着するのが黒澤映画の醍醐味だ。無頼たちが画面いっぱいに暴れ回る『七人の侍』も最後に勝ったのは農民だったし、『用心棒』で遺憾なく最強ぶりを発揮した侍は誰に感謝されるでもなく孤独に宿場町を去っていく。これが本数を重ねるうちに、ああ、ここだけは絶対譲らないんだなこの監督は、という信頼へと結実していく。だから本作の主人公も国を立て直すのでも世界を救うのでもなく公園を作る。どれだけ迂回しようと最後には庶民的感覚へと回帰することがメタレベルで運命づけられているがゆえに、黒澤映画は広く大衆に受け入れられたのだと思う。これは言うなればクソ映画であることが事前にわかっているからこそサメ映画やゾンビ映画を見ることができる心理と同じかもしれない。
視点がステレオタイプ過ぎないか。
評論子には共感できませんでした。今から70年も前の時代は現代とは随分と違ったものだったのかも知れませんが。
それでも「お役人とは、こういうもの」「お役所というものは、こういうもの」というステレオタイプの視点が前に出すぎていないでしょうか。
少なくとも、当時は当時にしろ、官公庁の実際ということについて少しでも取材をしていたとしたら、もっともっと違った作風の作品になっていたと信じたいところです。
その意味で、評論子には、残念な一本になってしまいました。
時間は命
私たちみんな残された時間は決まっている。
その残された時間に何をするかはけっこう大切だ。
「ゴンドラの唄」があってはじめて成り立つような映画。
黒沢明監督の作品の中では一番好きな作品かもしれない。
(生前の母の観た映画。そんな思い出を見たくって) 「生きる」ことの賛歌。
私にしては珍しく、名作・オブ・名作邦画のレビューです。
アマプラ課金の東宝チャンネルにラインナップされていた作品ですので、観なきゃ勿体ないと思い。
こういう映画と私のレビュースタイルは、すこぶる相性が悪いのですね。
今回はおちゃらけは封印して、真面目に書くつもりです。
名作中の名作の古典映画ですので、ネタバレは上等ですよね。
そして、この映画、生前の母との思い出の作品なのですね。
母が遠い目で思い出すように語っていたものです。
この映画を観た時に、てっきり志村喬さんはリアルにお亡くなりになったと思い込んでいたらしいのですね。
赤貧の家庭に生まれ育った母ですので、映画館での鑑賞ではなかったのですね。
村の公民館の映画鑑賞会で観たらしいのです。。
何しろ、辺鄙極まりないド田舎ですから。
村の娯楽といえばそんなものくらいでしょう。母は大喜びだったろうな…と思うです。
スレていない母、当時の年齢は、計算すると、おそらく10代中盤です。
映画というものが、どういう物だとか、まだわかっていなかったんでしょうね。
後にテレビだか映画だかで志村喬さんのお姿を見た時に
「えっ?この人死んだんとちゃうん!?」と、かなり驚いたそうな(笑)
そんな純真な母の幼き日を回想すると、ちょっと涙が。
またしょっぱなから、割とどうでもいいことを書いてからのレビュー本文です。
実はこの映画、導入部で地雷臭を感じたんですよ。
くどすぎるナレーションの説明だとか、ステレオタイプのお役所仕事の描写だとか。
もしかすると楽しめないかなぁ…と、思いました。
主人公・渡辺氏が遠くない自分の“死”を知る察するあたりも、ありきたりかな…と思い。
ですが一杯飲み屋で小説家くずれと知り合った件からは、このおじさんに妙な可愛さを感じたんですよ。
そのあたりから一気に渡辺さんに、ぐいぐいと感情を引き込まれまして。
今まで「生きてきて」自分の全く知らなかった異世界に戸惑いながらも、しばしの間「生きる」ことの物珍しさを感じる描写(帽子事件)に少し笑っちゃいました。
ストリップホールの件だとか。「ああっ!Σ('◉⌓◉’)」だとか(笑)
そしてダンスホール(?)のピアノ演奏に合わせて、涙ポロポロと歌う『ゴンドラの唄』の哀しいこと哀しいこと。
ここでうるっと来ちゃいました。
何かの映画じゃないけれど「その顔はやめて」って言いたくなるほど、何とも言えない不憫な表情なの。
『ゴンドラの唄』はこの作品の挿入歌として、これ以上の物はないと思い。
むしろこの歌を着想として、この作品が生まれたのではないかとさえ思い。
“とよ”との交流では、観ているこちらまで思いっきり楽しくなっちゃったの。
渡辺さん!「生きる」ことを思いっきり楽しんで!って思っちゃうの。
死なないで!お願い!黒澤さんのいけず!って思っちゃうの。
“とよ”との間で見せる渡辺さんの笑顔に、感情移入目いっぱいですよ。
干からびた“木乃伊”が、どんどん生気を取り戻す様子に。
なのに、ぼっちになった途端、やはり死の恐怖に怯えるさまには、本当に同情以上の物を禁じ得ないの。
息子との残された時間を大切にしたい父なのに。
あのバカ息子、なーんにも気づかずにゼニ金のことばかりで厳しい態度とるのには、本当に頭に来ちゃったの!鬼かよ!
(仕方ないちゃぁ仕方ないんですが)
一方で“とよ”密会の約束の取り付けに、ニヤリニヤリとするさまが、本当に可愛いの。
気を許した“とよ”と遊ぶと言っても、カフェ→お汁粉屋→お寿司屋orお蕎麦屋、そんなことしか繰り返せない渡辺さんが本当に可愛いの。
なのに、いい加減愛想つかされている渡辺さんが本当に可哀そうなの。
当然ながら誰にもわかってもらえない胸中、いかばかりのものがあったでしょうか。
もういいから!いっそ自分の余命が幾ばくもないこと、みんなに吐露してよ!って思っちゃうの。
でも、それができなかたったのが渡辺さんの強さであったり優しさであったり、哀しさであったりだと思うの。
私、恥ずかしながら長年の鬱との付き合いがあった日々の中で、何度も死んでしまいたいと思うことがあったのですね。
でも、実際に差し迫った死を実感したことなど一度たりともありませんでした。
死がすぐぞこにあるっていうのはどんな気持ちなのでしょうか。
母の最期も、もはや助かる見込みもないことを知った短い日々でした。
どんな気持ちで私たち家族と向き合ってくれたのかなぁ。
私がそうであったように、まだまだ伝えたいことが山ほどあったろうなぁ。
「親孝行したい時に親は無し」ってこれ、真実だから。
カフェで“とよ”の横に座って半ば強引に、朴訥かつ必死に「生きる」実感だとか、「生きた」証がほしいと訴える志村さんの好演が素晴らしかったです。
母じゃないけれど、この人=志村さん本当に死んじゃうんじゃないかと思うほど迫真の演技なんですね。
「その顔はやめて」ですよ。
からの「ハッピバースデー♪トゥーユー♪」が本当に心憎い演出なの。
「生まれ変わった」シン・渡辺さんの再出発、門出の歌として。
したら、いきなりの渡辺さんのお通夜じゃないですか!
通夜の席で、出席のみなさんの回想の語りが続くじゃないですか。
ここで渡辺さんが何を、どうやってきたのかが明らかになっていくのですね。
尺の三分の一使って。
このシーンの前後の順の構成、斬新で秀逸だと思いました。
通夜を後に持ってくると、渡辺さんの最期のカットがかなり霞みますし。
尺の取り方のバランスも狂ってきますし。
物語として、彼の「生きざま」と功労を描くのなら、この順番しかないと思い。
そして、役所のお偉いさんの不誠実さと傲慢さが、めーっちゃ頭きたのな!
手柄横取りするなし!ですよ!
でも、渡辺さんにとってはそんなことは当然、どうでもよかったことと思い。
雪の降る中、自分が「生きた」証で造った、公園のブランコで『ゴンドラの唄』を歌いながら天に召されたのって、ある意味幸せな最期だったかな…と思ったです。
きっと「生きた」ことへの悔いはなかったと思いたいです。
で、謎なのが“とよ”が通夜の席に現れたのかどうか。
通夜では全く姿が見えなかったのですが
うさぎさんのオモチャがお供えされていたことを見ると
きっと会いに来てくれたに違いない…そう思いたいです。
ここだけが胸につっかえてスッキリしなかったです。
“とよ”が渡辺さんの遺影を静かに見守っているシーンがあってもよさそうなものの。
意図的にそれを外したのなら、きっと黒澤監督の描きたい映画なりの理由があったに違いないのですが。
アホの私には、それがよくわかりませんでした。
そんな渡辺さんの「生きざま」を忘れないでいてくれる人って
名もなき職員Aくらいしかいないのは、とても寂しかったです。
真面目な話、この作品を観ても、まだ「生きる」ことへの感謝の気持ちは湧かなかったんですね。
でも、もし私が近い日々に死を迎えることを知った日には、きっとこの映画のことを思い出すでしょう。。
そんな日々が来ることがあったなら、私は渡辺さんのように懸命に「生きる」ことができるのかなぁ…?
自分が「生きた」ことの賛歌を奏でることができるのかなぁ…?
何だか自分がとても恥ずかしい…
観終えた感想はこれに尽きます。
困った映画をチョイスしたもんだ…(^_^;
次回はまた東宝チャンネルで、頭バカにできる怪獣物でも観ようかなぁ。
何をしてきたのか、これからどうするのか、人生の分岐点に観る
あまた作られている、単なる闘病物ではない。
人生哲学×人間ドラマ×組織批判×社会風刺×エンターテインメント。
悲劇であり、喜劇。
これだけいろいろなものが詰め込まれているのに実にシンプル。
そして、揺るぎない主人公の存在感。
脚本×演出×音楽×映像。これらすべてが、志村氏の演技を際立たせていると同時に、
志村氏の演技が、技巧を凝らした映画を可能にさせている。
他には有り得ない、唯一無二の映画。
「人を憎んでいる暇なんてない」
自分にとって大切なもののためなら、自分をないがしろにされた、嫌味を言われた。そんなプライドなんてちっぽけなこと。
後頭部を殴られたような気がした。
喜怒哀楽。人間にとってはとても大切な感情。だが、それをも凌駕するこの決意。なんと鬼気迫る言葉!
ちっぽけなプライドのために、見失ってしまう大切なもの。
ちっぽけなプライドすら乗り越える、人としての器。鬼迫。
何が大切なのかを見極める。
反省させられた。
☆ ☆ ☆
死を目前にして、自分の小さな器を大きくした男の一代記なのかと思っていた。絶望の淵から希望・生の意味を見つけ、徐々に周りを巻き込んでカタルシスを得るというような話だと、安易に思っていた。
だが、黒沢監督はそんな安易なつくりにはしなかった。
前半、自分の死期が迫っていることを知る主人公。
それを知った行きずりの男が「それでは、メフィストフェレスとなりましょう(思い出し引用)」と、主人公が今まで経験したことのない世界に連れ出す。
その主人公の”初めての経験”が、死期が迫る主人公の陰鬱さと同時に、おかしみをもって描き出される。そのバランス!!!
かつ、そんな奇妙な行動に出た主人公を取り巻く人々の反応が、頓珍漢で滑稽味を出す。
そして、残りの人生をかけるものを見つけ、死を意識しながらも生き生きと鬼気迫る様相で活躍する主人公の姿が見られるのかと思ったら…。
(人生かけるものを見つけた男の後ろで歌われるのは「Happy birthday」だし)
いきなり、映画の半分くらいで、主人公は亡くなってしまう。
やられた。
通夜の席で、主人公と公園をめぐって、関係者が回顧していく。そこに浮かび上がる人々・行政の思惑が空回りしていく。まるで舞台劇を見ているみたいだ。
しかも、誰もが主人公の想いを自分の器で図っていくだけで、主人公の気持ちや決意を知らないで、勝手なことを言い募る。なんていう孤独。私だったら、化けて出そうだ。
生涯かけて育て上げた息子でさえ、主人公の真意を知らない。何度か、主人公は息子に打ち明けようとしたのに、それを阻止しておいて、「知っていたら僕に言ってくれたはずだ」って、あなた…。なんという孤独、そしてむなしさ。
組織への痛烈な批判。(縦割りで事が動かないのは役所だけではない)
”今”を生きる人々への痛烈な批判。
そして、観客が喜びそうなカタルシスが得られたかに見えて、極めつけのオチで終わる。
そんな基盤を横軸に、主人公の生きざまが物語を進める縦軸として交差する。
人生への後悔。生命力あふれる若々しさへすがりつき。迷走を経て、なすべきことへの妄執・鬼迫。孤独。「男は黙ってサッポロビール」の時代だっけ?否、説明して了解を得る時間さえ惜しかったのだろう。「憎む時間さえない」のだから。
死にゆく自分。長年付き合ってきた人にも誰にもわかってもらえていない真意。孤独・孤独・孤独。
それなのに…。有名な一人でこぐブランコのシーン。静かに、静かに、響く「命短し、恋せよ、乙女~」。
そして子どもたちの声で幕が閉じる。
この物語をこれほどまでに深めたのは、黒沢監督の演出。何たる鬼才!
喜劇的な舞台×陰鬱な主人公。相反するはずの要素が見事に調和して、両方を際立たせている。
物語の緩急。スパッと切るところと、余韻が残る場面と。
男の一代記的な構成なら、”男”の人生を追体験するだけで終わってしまうが、このような演出にすることで、社会での位置づけが見えてくる。
そして、何度も書いてしまうけれど、上記の演出を成り立たせているのが、志村氏の演技。「あ、う、」ぐらいのぼそぼそとしたしゃべりなのに、その時々の主人公の気持ちが胸に迫ってくる。なんてすごい役者さんなんだ。
☆ ☆ ☆
最近取りざたされる孤独死。だが、その方が孤独の中に死んでいったのか、満ち足りて死んでいったのかは、本人にしかわからないのであろう。
自分の葬式の風景を考えてしまった。
渡辺課長は、子どもを育て上げたんだから、それだけでも大仕事をしたのだけれど、ミイラのままでは死ねなかった。
歯車だって、それがなければ、そのシステムは動かない。どの歯車だってなければ困る。
けれど、書類の煩雑さ。
渡辺課長の仕事は、書類に判を押して右から左に回すだけ。
今だって、説明責任を果たすために増える事務仕事。微妙に違う様式で、同じ内容を、各方面から報告するように求められる。現場を見ずに、数字・書類だけ見てわかった気になる。統計のマジック。これが何に繋がるかなんて、わからなくなってくる。
ふうぅ。
歯車として機能しているのは判るけれど、透明人間にはなりたくない。
失敗は成功の母と言うけれど、余計なことをしてはみ出したら終わり。KYはこのころからあったんだ。
どうしようもない世の中に、あきらめかけてしまう私の心の中に、いつまでも主人公の歌声が響いてくる。
☆ ☆
PS。予告も傑作です。予告だけでドラマしている。人生をつきつけられる。
昭和27年の衣食住
映画の素晴らしさは、他の皆様が書いてくれているのでカット。
特筆すべきは昭和27年の風俗です。
食事・住まい・職場の風景など。
なかでもファッションには目を見張るものがあります。
通夜(葬儀)の場面での皆様の衣装。
今一般的に皆様がお召しになる、いわゆるブラック(礼服)ではないのです。
ウイングカラーにモーニング(ということはこの場面は夜に見えたけど昼なのか?)あるいは普通のスーツ。喪主に至っては羽織袴、その妻は着物の黒喪服だが帯締・帯揚がともに白、裾廻しも黒ではない。
こんなことを考えながら見る名作もなかなか良いものです。
船堀シネパルで上映中の黒澤映画。「生きる」は今日まで。
明日からは「用心棒」、次の週は「七人の侍」です。
ストーリー 6.5 演技 7.5 芸術 6.5 エンタ 6 総合 ...
ストーリー 6.5
演技 7.5
芸術 6.5
エンタ 6
総合 7
面白かった、のは
志村喬って凄い味がありますねぇ。有名な台湾人と結婚したEXILEのダンサーに似てると思うのは私だけかしら。
生きるの原作はゲーテのファウスト
すでに気づいている人もいるかもしれませんが、「生きる」は内容がゲーテのファウストにそった筋になっています。主人公が飲み屋でメフィストフェレスみたいな人物に出会いますが、そのとき野良犬が入り口から入ってきます。これはファウストがメフィストフェレスに出会う本の場面のそのままの引き写しになっています。この映画を見るのにファウストを読んでいる必要はありませんが、筋立てや道具立てを理解するのには役に立つかもしれません。例えば、若い女工さんは、ファウストの中のグレートヘンを模したものでしょう。またファウストはその生涯の最後の仕事として、海を干拓しそれに満足して死を迎えます。これもドブ池を埋めたてて公園にするという形で映画にそのまま取り入れられています。その他類似点はいろいろあると思いますが、探してみてください。
ちなみに、映画「生きる」と「ファウスト」の関係に公に言及したものがなかなか見つかりません。知って見るのと知らないままで見るのとでは、どちらがいいのかは別にして、印象が変わってくる気もします。
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