生きる(1952)のレビュー・感想・評価
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残り少ない会社員生活
志村喬主演、無為に過ごしていた役人ががんで余命いくばくもなくなり、自分の生きる意味を問い、市民公園の整備に尽力する。
残り少なくなった会社員生活の中で、これから何ができるかとふと立ち止まって考えた時に思い出す。
お役所仕事が…
いわゆる形式的な作業しかしない「お役所仕事」を題材にした映画。
自分自身、市役所の人間には色々失礼な態度を取られた事が多い。
…それはさておき、この映画の主人公で市役所員の「勘治」は、自分が
末期ガンで余命わずかである事実を知ってしまう。 残された時間で、
市役所に抗議の多かった、町にある湿地帯は虫が湧いて困るという住人
からの抗議に応え、その場所を市民の憩いの場「公園」にしようと奔走する。
当然、役所側は、そんな手間と時間と費用の掛かる事業はやりたくない。
暴力団組織まで使って、主人公の活動を抑え込もうとするが、それに彼は
めげない。
詳しくはネタバレになるので書かないが、黒澤明監督の現代ドキュメン
タリータッチで描かれた作品は、作られた後の50年以上経っても、日本の
世の中で何も変わらない構造という物が多い。
ラストで、勘治が生前に最後に作った場所を通りすがる、若い市役所員の
様な、怒りに震えた、日本を変えたい若者が、この国にはまだ多く残って
いると、信じたい…
かなり素朴なヒューマニズム物語
ここは素直に黒澤明の誠実さに感動すべきなんだろうけど、展開のすべてが想定の範疇内に収まっていたなあというのが正直なところ。モノクロの陰影を登場人物たちの心の機微と重ね合わせる画面作りや、ハリウッドのフィルム・ノワールに特有の因果転倒的な物語構成など、物語を支える骨組みの部分には幾度となく舌を巻いたが、逆にいえば物語そのものより外郭に目がいってしまう時点で物語映画としては求心力が弱かったのではないかと思う。もういっそ全力で泣かせる方向に舵を切ってもよかったんじゃないか。私の心が乾いてるだけなのかもしれないけど…
黒澤が大島渚と三島由紀夫に「イデオロギーが中学生レベル」と揶揄されている記事を見つけたときはテメエらインテリぶりやがってよおと出所不明の怒りが湧き上がってきたものだが、本作や『生きものの記録』の前に立ったときに彼らの揶揄に真っ向から反駁できるかというとそこまで自信がない。澁澤龍彦ほどではないにせよ私も「人道主義のお説教」映画がそれほど得意ではないのかもしれない、と改めて思った。
ただ、役所でミイラのように生きていた志村喬が見出した人生最後の希望が「公園を作る」だったのはかなりよかったと思う。どれだけ荒唐無稽なプロセスを経ようと結局最後は手触りのあるリアリズムに帰着するのが黒澤映画の醍醐味だ。無頼たちが画面いっぱいに暴れ回る『七人の侍』も最後に勝ったのは農民だったし、『用心棒』で遺憾なく最強ぶりを発揮した侍は誰に感謝されるでもなく孤独に宿場町を去っていく。これが本数を重ねるうちに、ああ、ここだけは絶対譲らないんだなこの監督は、という信頼へと結実していく。だから本作の主人公も国を立て直すのでも世界を救うのでもなく公園を作る。どれだけ迂回しようと最後には庶民的感覚へと回帰することがメタレベルで運命づけられているがゆえに、黒澤映画は広く大衆に受け入れられたのだと思う。これは言うなればクソ映画であることが事前にわかっているからこそサメ映画やゾンビ映画を見ることができる心理と同じかもしれない。
視点がステレオタイプ過ぎないか。
(生前の母の観た映画。そんな思い出を見たくって) 「生きる」ことの賛歌。
私にしては珍しく、名作・オブ・名作邦画のレビューです。
アマプラ課金の東宝チャンネルにラインナップされていた作品ですので、観なきゃ勿体ないと思い。
こういう映画と私のレビュースタイルは、すこぶる相性が悪いのですね。
今回はおちゃらけは封印して、真面目に書くつもりです。
名作中の名作の古典映画ですので、ネタバレは上等ですよね。
そして、この映画、生前の母との思い出の作品なのですね。
母が遠い目で思い出すように語っていたものです。
この映画を観た時に、てっきり志村喬さんはリアルにお亡くなりになったと思い込んでいたらしいのですね。
赤貧の家庭に生まれ育った母ですので、映画館での鑑賞ではなかったのですね。
村の公民館の映画鑑賞会で観たらしいのです。。
何しろ、辺鄙極まりないド田舎ですから。
村の娯楽といえばそんなものくらいでしょう。母は大喜びだったろうな…と思うです。
スレていない母、当時の年齢は、計算すると、おそらく10代中盤です。
映画というものが、どういう物だとか、まだわかっていなかったんでしょうね。
後にテレビだか映画だかで志村喬さんのお姿を見た時に
「えっ?この人死んだんとちゃうん!?」と、かなり驚いたそうな(笑)
そんな純真な母の幼き日を回想すると、ちょっと涙が。
またしょっぱなから、割とどうでもいいことを書いてからのレビュー本文です。
実はこの映画、導入部で地雷臭を感じたんですよ。
くどすぎるナレーションの説明だとか、ステレオタイプのお役所仕事の描写だとか。
もしかすると楽しめないかなぁ…と、思いました。
主人公・渡辺氏が遠くない自分の“死”を知る察するあたりも、ありきたりかな…と思い。
ですが一杯飲み屋で小説家くずれと知り合った件からは、このおじさんに妙な可愛さを感じたんですよ。
そのあたりから一気に渡辺さんに、ぐいぐいと感情を引き込まれまして。
今まで「生きてきて」自分の全く知らなかった異世界に戸惑いながらも、しばしの間「生きる」ことの物珍しさを感じる描写(帽子事件)に少し笑っちゃいました。
ストリップホールの件だとか。「ああっ!Σ('◉⌓◉’)」だとか(笑)
そしてダンスホール(?)のピアノ演奏に合わせて、涙ポロポロと歌う『ゴンドラの唄』の哀しいこと哀しいこと。
ここでうるっと来ちゃいました。
何かの映画じゃないけれど「その顔はやめて」って言いたくなるほど、何とも言えない不憫な表情なの。
『ゴンドラの唄』はこの作品の挿入歌として、これ以上の物はないと思い。
むしろこの歌を着想として、この作品が生まれたのではないかとさえ思い。
“とよ”との交流では、観ているこちらまで思いっきり楽しくなっちゃったの。
渡辺さん!「生きる」ことを思いっきり楽しんで!って思っちゃうの。
死なないで!お願い!黒澤さんのいけず!って思っちゃうの。
“とよ”との間で見せる渡辺さんの笑顔に、感情移入目いっぱいですよ。
干からびた“木乃伊”が、どんどん生気を取り戻す様子に。
なのに、ぼっちになった途端、やはり死の恐怖に怯えるさまには、本当に同情以上の物を禁じ得ないの。
息子との残された時間を大切にしたい父なのに。
あのバカ息子、なーんにも気づかずにゼニ金のことばかりで厳しい態度とるのには、本当に頭に来ちゃったの!鬼かよ!
(仕方ないちゃぁ仕方ないんですが)
一方で“とよ”密会の約束の取り付けに、ニヤリニヤリとするさまが、本当に可愛いの。
気を許した“とよ”と遊ぶと言っても、カフェ→お汁粉屋→お寿司屋orお蕎麦屋、そんなことしか繰り返せない渡辺さんが本当に可愛いの。
なのに、いい加減愛想つかされている渡辺さんが本当に可哀そうなの。
当然ながら誰にもわかってもらえない胸中、いかばかりのものがあったでしょうか。
もういいから!いっそ自分の余命が幾ばくもないこと、みんなに吐露してよ!って思っちゃうの。
でも、それができなかたったのが渡辺さんの強さであったり優しさであったり、哀しさであったりだと思うの。
私、恥ずかしながら長年の鬱との付き合いがあった日々の中で、何度も死んでしまいたいと思うことがあったのですね。
でも、実際に差し迫った死を実感したことなど一度たりともありませんでした。
死がすぐぞこにあるっていうのはどんな気持ちなのでしょうか。
母の最期も、もはや助かる見込みもないことを知った短い日々でした。
どんな気持ちで私たち家族と向き合ってくれたのかなぁ。
私がそうであったように、まだまだ伝えたいことが山ほどあったろうなぁ。
「親孝行したい時に親は無し」ってこれ、真実だから。
カフェで“とよ”の横に座って半ば強引に、朴訥かつ必死に「生きる」実感だとか、「生きた」証がほしいと訴える志村さんの好演が素晴らしかったです。
母じゃないけれど、この人=志村さん本当に死んじゃうんじゃないかと思うほど迫真の演技なんですね。
「その顔はやめて」ですよ。
からの「ハッピバースデー♪トゥーユー♪」が本当に心憎い演出なの。
「生まれ変わった」シン・渡辺さんの再出発、門出の歌として。
したら、いきなりの渡辺さんのお通夜じゃないですか!
通夜の席で、出席のみなさんの回想の語りが続くじゃないですか。
ここで渡辺さんが何を、どうやってきたのかが明らかになっていくのですね。
尺の三分の一使って。
このシーンの前後の順の構成、斬新で秀逸だと思いました。
通夜を後に持ってくると、渡辺さんの最期のカットがかなり霞みますし。
尺の取り方のバランスも狂ってきますし。
物語として、彼の「生きざま」と功労を描くのなら、この順番しかないと思い。
そして、役所のお偉いさんの不誠実さと傲慢さが、めーっちゃ頭きたのな!
手柄横取りするなし!ですよ!
でも、渡辺さんにとってはそんなことは当然、どうでもよかったことと思い。
雪の降る中、自分が「生きた」証で造った、公園のブランコで『ゴンドラの唄』を歌いながら天に召されたのって、ある意味幸せな最期だったかな…と思ったです。
きっと「生きた」ことへの悔いはなかったと思いたいです。
で、謎なのが“とよ”が通夜の席に現れたのかどうか。
通夜では全く姿が見えなかったのですが
うさぎさんのオモチャがお供えされていたことを見ると
きっと会いに来てくれたに違いない…そう思いたいです。
ここだけが胸につっかえてスッキリしなかったです。
“とよ”が渡辺さんの遺影を静かに見守っているシーンがあってもよさそうなものの。
意図的にそれを外したのなら、きっと黒澤監督の描きたい映画なりの理由があったに違いないのですが。
アホの私には、それがよくわかりませんでした。
そんな渡辺さんの「生きざま」を忘れないでいてくれる人って
名もなき職員Aくらいしかいないのは、とても寂しかったです。
真面目な話、この作品を観ても、まだ「生きる」ことへの感謝の気持ちは湧かなかったんですね。
でも、もし私が近い日々に死を迎えることを知った日には、きっとこの映画のことを思い出すでしょう。。
そんな日々が来ることがあったなら、私は渡辺さんのように懸命に「生きる」ことができるのかなぁ…?
自分が「生きた」ことの賛歌を奏でることができるのかなぁ…?
何だか自分がとても恥ずかしい…
観終えた感想はこれに尽きます。
困った映画をチョイスしたもんだ…(^_^;
次回はまた東宝チャンネルで、頭バカにできる怪獣物でも観ようかなぁ。
何をしてきたのか、これからどうするのか、人生の分岐点に観る
あまた作られている、単なる闘病物ではない。
人生哲学×人間ドラマ×組織批判×社会風刺×エンターテインメント。
悲劇であり、喜劇。
これだけいろいろなものが詰め込まれているのに実にシンプル。
そして、揺るぎない主人公の存在感。
脚本×演出×音楽×映像。これらすべてが、志村氏の演技を際立たせていると同時に、
志村氏の演技が、技巧を凝らした映画を可能にさせている。
他には有り得ない、唯一無二の映画。
「人を憎んでいる暇なんてない」
自分にとって大切なもののためなら、自分をないがしろにされた、嫌味を言われた。そんなプライドなんてちっぽけなこと。
後頭部を殴られたような気がした。
喜怒哀楽。人間にとってはとても大切な感情。だが、それをも凌駕するこの決意。なんと鬼気迫る言葉!
ちっぽけなプライドのために、見失ってしまう大切なもの。
ちっぽけなプライドすら乗り越える、人としての器。鬼迫。
何が大切なのかを見極める。
反省させられた。
☆ ☆ ☆
死を目前にして、自分の小さな器を大きくした男の一代記なのかと思っていた。絶望の淵から希望・生の意味を見つけ、徐々に周りを巻き込んでカタルシスを得るというような話だと、安易に思っていた。
だが、黒沢監督はそんな安易なつくりにはしなかった。
前半、自分の死期が迫っていることを知る主人公。
それを知った行きずりの男が「それでは、メフィストフェレスとなりましょう(思い出し引用)」と、主人公が今まで経験したことのない世界に連れ出す。
その主人公の”初めての経験”が、死期が迫る主人公の陰鬱さと同時に、おかしみをもって描き出される。そのバランス!!!
かつ、そんな奇妙な行動に出た主人公を取り巻く人々の反応が、頓珍漢で滑稽味を出す。
そして、残りの人生をかけるものを見つけ、死を意識しながらも生き生きと鬼気迫る様相で活躍する主人公の姿が見られるのかと思ったら…。
(人生かけるものを見つけた男の後ろで歌われるのは「Happy birthday」だし)
いきなり、映画の半分くらいで、主人公は亡くなってしまう。
やられた。
通夜の席で、主人公と公園をめぐって、関係者が回顧していく。そこに浮かび上がる人々・行政の思惑が空回りしていく。まるで舞台劇を見ているみたいだ。
しかも、誰もが主人公の想いを自分の器で図っていくだけで、主人公の気持ちや決意を知らないで、勝手なことを言い募る。なんていう孤独。私だったら、化けて出そうだ。
生涯かけて育て上げた息子でさえ、主人公の真意を知らない。何度か、主人公は息子に打ち明けようとしたのに、それを阻止しておいて、「知っていたら僕に言ってくれたはずだ」って、あなた…。なんという孤独、そしてむなしさ。
組織への痛烈な批判。(縦割りで事が動かないのは役所だけではない)
”今”を生きる人々への痛烈な批判。
そして、観客が喜びそうなカタルシスが得られたかに見えて、極めつけのオチで終わる。
そんな基盤を横軸に、主人公の生きざまが物語を進める縦軸として交差する。
人生への後悔。生命力あふれる若々しさへすがりつき。迷走を経て、なすべきことへの妄執・鬼迫。孤独。「男は黙ってサッポロビール」の時代だっけ?否、説明して了解を得る時間さえ惜しかったのだろう。「憎む時間さえない」のだから。
死にゆく自分。長年付き合ってきた人にも誰にもわかってもらえていない真意。孤独・孤独・孤独。
それなのに…。有名な一人でこぐブランコのシーン。静かに、静かに、響く「命短し、恋せよ、乙女~」。
そして子どもたちの声で幕が閉じる。
この物語をこれほどまでに深めたのは、黒沢監督の演出。何たる鬼才!
喜劇的な舞台×陰鬱な主人公。相反するはずの要素が見事に調和して、両方を際立たせている。
物語の緩急。スパッと切るところと、余韻が残る場面と。
男の一代記的な構成なら、”男”の人生を追体験するだけで終わってしまうが、このような演出にすることで、社会での位置づけが見えてくる。
そして、何度も書いてしまうけれど、上記の演出を成り立たせているのが、志村氏の演技。「あ、う、」ぐらいのぼそぼそとしたしゃべりなのに、その時々の主人公の気持ちが胸に迫ってくる。なんてすごい役者さんなんだ。
☆ ☆ ☆
最近取りざたされる孤独死。だが、その方が孤独の中に死んでいったのか、満ち足りて死んでいったのかは、本人にしかわからないのであろう。
自分の葬式の風景を考えてしまった。
渡辺課長は、子どもを育て上げたんだから、それだけでも大仕事をしたのだけれど、ミイラのままでは死ねなかった。
歯車だって、それがなければ、そのシステムは動かない。どの歯車だってなければ困る。
けれど、書類の煩雑さ。
渡辺課長の仕事は、書類に判を押して右から左に回すだけ。
今だって、説明責任を果たすために増える事務仕事。微妙に違う様式で、同じ内容を、各方面から報告するように求められる。現場を見ずに、数字・書類だけ見てわかった気になる。統計のマジック。これが何に繋がるかなんて、わからなくなってくる。
ふうぅ。
歯車として機能しているのは判るけれど、透明人間にはなりたくない。
失敗は成功の母と言うけれど、余計なことをしてはみ出したら終わり。KYはこのころからあったんだ。
どうしようもない世の中に、あきらめかけてしまう私の心の中に、いつまでも主人公の歌声が響いてくる。
☆ ☆
PS。予告も傑作です。予告だけでドラマしている。人生をつきつけられる。
黒澤監督の真摯な問い掛けにある、人間の内に秘めた力を信じるヒューマンドラマの社会批評
”生きるとは、どういうことなのか”を、深く考えさせる正直な映画だった。道徳的生真面目さに姿勢を正す見学だったが、黒澤監督の真剣に取り組む映画表現の熱意がストレートに伝わり、観終わった時は程よい緊張感のある感動に包まれた。死ぬと分かったら、人はどのように変わるのかを問い詰めた先にある、生き甲斐と無常観の心の内を垣間見た神聖さがある。ストーリーも分かり易く、映画の中に自分を置き換えて物語を追っていた。重厚なドラマ作りと啓発を併せ持った黒澤監督の、日本映画のひとつの頂点を示す作品であることは間違いない。
主人公は勤勉な初老男性の典型的な日本人で、無遅刻無欠席の市役所勤続30年の真面目だけが取り柄の極平凡な人物像。反面どこか面白みのない人柄でもある。そんな主人公が退職を迎える時に、余命幾ばくも無い重度の胃がんに侵されていた人生の皮肉が物語の始まりになる。彼が務める市民課には部下が十人程机を並べるが、その仕事振りは何とも単純だ。事勿れ主義が蔓延る、悪い意味での日本人を象徴する無残な有り様が端的に描かれる。この主人公と対照的な若い女子事務員が、墓場のような職場を辞めていく。父親の退職金を当てにした打算的な息子夫婦の冷たさに落胆した主人公が、その若い女性の後を付いて行く。このところをユーモアたっぷりに描いた演出がいい。この展開が映画全体の感動の発端であり、ドラマの核になっている。生き甲斐について交わされる二人の会話のレストラン場面。階段を挟んで向こう側では女子高生たちの誕生日パーティーが楽しそうに開かれている。若い女性は、新しい職場の商品のウサギの玩具を取り出し、生き生きと語り掛ける。落胆から再起する主人公の覚醒の場面だ。
後半は、主人公の通夜の場面から回想形式で公園造設に粉骨砕身する仕事振りが説明される。このクライマックスには、市政のお役所仕事を批判した社会批評の告発があり、主人公ひとりの物語からより広大な視野に立った作者の主張が強固で見事。児童公園建設に力を注いだ主人公の功績の評価で揉める部下たちの大論争の中に、死ぬことが分かっていれば誰にだって出来たことだと言い切る者がいる。この居直りとも取れる偽善者の発言に、人間の愚かさが潜んでいるのではないだろうか。ラストシーンは、そんな人間が辿り着けない境地にいる主人公の心情を、雪の中の揺れるブランコの風景で描き終わる。『ゴンドラの唄』の哀切が、それを感動的な心象風景にする演出の巧みさ。
生きることの意義を真摯に広大に問い詰めた黒澤監督の力作にして、全編一貫した演出トーンと作劇によるヒューマンドラマの名作。日本人の持っている価値観と心理の長短の上に、逞しさを描けるのは黒澤監督の力量だけだ。特に後半の回想シーンの描写は素晴らしく、黒澤演出と志村喬の熱演が、通夜の論争場面を面白くさせながら主題を問い掛ける映画的な表情を創造していた。
1978年 12月2日 フィルムセンター
昨年の10月に黒澤明誕生110年記念のミュージカル「生きる」を鑑賞する機会を得ました。宮本亜門演出、市村正親主演の素晴らしい舞台に、改めて原作であるこの映画のストーリーの巧みさ、時代を超越したテーマの普遍的価値を痛感しました。舞台化しやすい題材であるのは予想しましたが、特にクライマックスの通夜シーンから雪降るブランコシーンの美しさは本当に見事でした。古い劇映画を現代に通用するミュージカルに翻案できるほど、この映画の価値は計り知れないと納得した観劇でした。
昭和27年の衣食住
映画の素晴らしさは、他の皆様が書いてくれているのでカット。
特筆すべきは昭和27年の風俗です。
食事・住まい・職場の風景など。
なかでもファッションには目を見張るものがあります。
通夜(葬儀)の場面での皆様の衣装。
今一般的に皆様がお召しになる、いわゆるブラック(礼服)ではないのです。
ウイングカラーにモーニング(ということはこの場面は夜に見えたけど昼なのか?)あるいは普通のスーツ。喪主に至っては羽織袴、その妻は着物の黒喪服だが帯締・帯揚がともに白、裾廻しも黒ではない。
こんなことを考えながら見る名作もなかなか良いものです。
船堀シネパルで上映中の黒澤映画。「生きる」は今日まで。
明日からは「用心棒」、次の週は「七人の侍」です。
印象に残った「ゴンドラの唄」
いのち短し恋せよおとめ・・・で始まる「ゴンドラの唄」を、この映画で一番印象に残るブランコのシーンで主人公が歌うが、今回、数十年ぶりの再見で、このシーンのほかに2箇所で使われていたことに気づいた。 1つは、胃癌と悟った直後に、たまたま居酒屋で知り合った小説家と繁華街を渡り歩いて、その途中のキャバレーで、そこのピアニストへリクエストして、ライブのピアノ伴奏で主人公が泣きながら歌うシーン。もう一つは音楽のみであるが、ラストで、主人公を一番理解していた市役所の同僚(木村)が橋の上から児童公園を見下ろすシーンで流れる。
今回の再見で気になったのが、主人公の通夜のシーンがちょっと長すぎる。しかもみんな酔っ払っていて(しらふの人もいるが)、みんな酔っ払いの演技が実にうまい。うまい「演技」なのである。何を言いたいかと言うと、本当に酔っ払っているように思える一方で、でも、これって演技なんだよなと思って、やや引いてしまうのである。比較するのもちょっと恐れ多いが、「東京物語」の中で、東野英治郎や笠智衆が酔っ払っている時にような「自然さ」を感じないのである。
あと、先に述べた小説家や、彼に生きようとするきっかけをくれた市役所を退職した若い女性が来なかったのはちょっと寂しい気がした。
生きるの原作はゲーテのファウスト
すでに気づいている人もいるかもしれませんが、「生きる」は内容がゲーテのファウストにそった筋になっています。主人公が飲み屋でメフィストフェレスみたいな人物に出会いますが、そのとき野良犬が入り口から入ってきます。これはファウストがメフィストフェレスに出会う本の場面のそのままの引き写しになっています。この映画を見るのにファウストを読んでいる必要はありませんが、筋立てや道具立てを理解するのには役に立つかもしれません。例えば、若い女工さんは、ファウストの中のグレートヘンを模したものでしょう。またファウストはその生涯の最後の仕事として、海を干拓しそれに満足して死を迎えます。これもドブ池を埋めたてて公園にするという形で映画にそのまま取り入れられています。その他類似点はいろいろあると思いますが、探してみてください。
ちなみに、映画「生きる」と「ファウスト」の関係に公に言及したものがなかなか見つかりません。知って見るのと知らないままで見るのとでは、どちらがいいのかは別にして、印象が変わってくる気もします。
私達はみなミイラかも知れません
正に神作品
日本映画の枠を超えて世界の映画の中でも屈指の名作だと思います
黒澤監督作品の常連俳優と言えば三船敏郎と志村喬
その志村喬の恐ろしいまでの鬼気迫る演技が全編に満ちています
胃癌による余命宣告による死を意識した事でのマインドセットの転換という劇中の設定になっています
しかし本作のテーマは死を意識したという前提では決してありません
渡辺課長はミイラとあだ名をつけられています
今風にいうならゾンビでしょう
生きているのだか、死んでいるのだかわからない
いや魂は死んでいるのだが、でも生きているのです
役所批判が本作のテーマなぞでは毛頭ありません
それは主人公が生きながら死んでいることを演出として説明するためのものに過ぎないのです
大きな組織はみんな大なり小なりそんなものです
誰もが、家族のために、独身であれば自分が生き残る為に、その為に自己を殺して生きているのです
ミイラのようにならないで働けているひとは本当に幸せです
そんなあなたは、とよのように確かに生きていると言えます
あるいはこれからミイラになってしまうのかも知れません
病院で看護婦さんが言うベロナールは当時の睡眠薬の名前です
無論大量に飲めば死にます
市電の脇のおでん屋むさしで出会う小説家が、店の主人に家で待つ編集者に原稿を届けにいくついでに買いに行かせたアドルムも睡眠薬です
この小説家のモデルはこのアドルムという薬の名前とその後の行動と言動から、なによりその風貌、衣装、丸眼鏡から破滅型の小説家として有名な坂口安吾その人で有ることは明らかです
彼は当時覚醒剤とアドルム中毒で精神錯乱の末、入院して世間を騒がせたことで有名です
その彼がモデルの小説家が渡辺課長に、与えられた生命を無駄にするのは神に対する冒涜だと諭すのです
渡辺課長が黒い犬に酒の肴を落として食べさせるのを二人がじっと見るシーンは、彼が生きる意欲を喪失していることを象徴するものでした
小説家は言います
あなたはこれまで人生の下男だった
人生を楽しむことは人間の義務だと
ゾンビが生きていることを実感するには、これもまた真理です
彼は渡辺課長に人生の快楽を教える代わりに、代償に魂を要求しない善良なるメフィストの役を務めると言います
つまり悪魔の誘惑と言うわけです
メフィストフェレスの化身は黒い犬です
だから彼はおあつらえ向きに黒い犬がいる、早く案内しろというのです
渡辺課長が新しい帽子を被って行く静かなカウンターのバーは文豪が通う店で有名な銀座5丁目のルパンがモデルでしょう
店の雰囲気とカウンターの上のランタンが似ています
きっとそれ以外の彼が連れ回すお店は全部モデルがありそうですが残念ながら浅学で分かりません
新しい帽子は、彼の新しいマインドセットを象徴する記号として全く見事な演出です
しかし引き連れわました果ての娼婦と一緒のタクシーの中で、渡辺課長の余りの哀れさに、自分は悪魔足り得ないと片手で顔を覆い伏せるのです
彼が教えたような快楽では、最早生きている意味を感じこともできず、魂が満たされないほどに、渡辺課長が冷たく死んでいるミイラだと知ったのです
ゾンビになってさ迷う渡辺課長は、結局とよから自分の魂が満たされうる本当の喜びとは一体自分に取って何なのかを掴むのです
ウサギのオモチャの象徴する、シンプルなことでも魂が充足する喜び
そしてハッピーバースデーの歌
本当に素晴らしい感動的な演出でした
特にハッピーバースデーはエヴァンゲリオンの最終回のおめでとうのシーンはこのシーンのオマージュだったのかも知れません
それこそ胃癌という十字架を背負ったキリストが復活した瞬間でした
そしてグダグタの通夜のシーンこそ、エクセホモなのです
この人を見よ!のシーンだったわけです
回想のシーンとは鞭打たれるキリストの光景なのです
そして彼は奇跡を成し天に召されたのです
私達もミイラかもしれません
大野係長は課長に昇進するとたちまちかっての渡辺課長と瓜二つになっています
糸こんにゃくの木村も結局椅子を蹴って立ち上がったものの書類の山に顔を隠すのです
橋の上から背中を丸めて新公園を見下ろしてとぼとぼと去る姿は、彼もまたかっての渡辺課長そっくりです
何の為に生きているのか?
渡辺課長のように新公園を残すような立派なことをなすことでなくてもよいのです
とよのようにオモチャの製品を作ることに喜びを見いだすことでも良いのです
それこそ小説家の言うように快楽の為であっても良いのだと思います
日々を無感動に生きること
それはミイラなのです
死を宣告されたひとや老人だけが渡辺課長ではないのです
中高生でも、大学生でも、新入社員であってもミイラになりえるのです
あなたはミイラになっていませんか?
渡辺課長になっていませんか?
それこそが本作のテーマなのだと思います
死期がせまったからの話ではありません
人間はいつかは必ず死ぬものです
必ず老いるものです
生きているという実感を味わうように貪欲になるべきなのです
ブランコに乗って主人公が歌う有名シーン
「♪いのち短し 恋せよ乙女」の歌い出しで始まるゴンドラの唄です
その歌詞こそ本作のメッセージそのものです
死に直面した時の人間の在りようの難しさをひしひしと感じた。鬼気迫る...
死に直面した時の人間の在りようの難しさをひしひしと感じた。鬼気迫る志村喬の目つきが怖かった。所詮死んでいく気持ちは自分自身でしか分からないものであり取り巻く人々は自分の都合のよい解釈を後づけで語る。時間の経過とともに存在していたことはいずれ消え去ると思うと「生きる」という切なさが募った。
人が真に生きるとは?
DVDで2回目の鑑賞。
原案(イワン・イリイチの死)は未読。
これまで堅実に仕事をこなして来たが、「何も成していない人生だったのでは?」と気づいた時、苦悩する真面目気質の主人公・渡辺氏の姿はあまりにも悲惨で、これまでやったことの無い夜遊びに手を出すなど、その迷走に心が痛みました。
息子夫婦にあらぬ疑いを掛けられて冷たい態度を取られるところも絶望を加速させていくようでした。
男手ひとつで育て上げた息子にそんなことを言われるだなんて、想像もしていなかったことでしょう。
悲嘆に暮れる中で出会った同僚の事務員・とよとの交流を通して、「何か出来ることがあるはずだ」と成すべきことを見出し、カフェを飛び出して行く場面が印象的でした。
階段を降りる渡辺氏に「ハッピーバースデー」が重なり、彼の新たな誕生を象徴する演出に唸りました。
人生の終わりに生き甲斐を見つけた渡辺氏のエネルギッシュに活動する姿に涙を禁じ得ませんでした。一切の忖度をせず活動した結果、公園整備は完成の運びとなりました。
その新公園のブランコで彼は生涯を閉じることに。
葬儀の席で同僚や上役の面々が渡辺氏の情熱的な活動ぶりを回想。ある者たちはいたたまれなくなって退席し、ある者たちはその働きを見習おうと心に誓っていました。
ですが翌日にはこれまで通りの「公務員」の姿が。
ひとりは怒りに立ち上がるも、雰囲気に呑み込まれてしまう始末。世の中そんなもんなのだろうかと、かなり世知辛さの残るエンディングに考えさせられました。
[余談]
お役所仕事への批判は納得出来るところが多く、実態は半世紀以上経っても変わらないのかと呆れるばかり。「真の公僕とはなんぞや?」。公務員のみなさんは渡辺氏を見習って!
※修正(2024/06/15)
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