「フェルメールの名絵画「青いターバンの少女」(真珠の耳飾りの少女)が答え」軽蔑(1963) あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
フェルメールの名絵画「青いターバンの少女」(真珠の耳飾りの少女)が答え
英雄ユリシーズとその妻ペネロープとその求婚者
主人公とその妻とプロデューサー
この相似形を骨格に、なぜブリジットバルドー演じる妻が不機嫌になったのか、主人公を軽蔑するようになったのかについて展開する
映画が始まってすぐオデュッセウスを読んでいるなら、そんなことなんてすぐわかることだろう?とゴダールが判じかけてくる
彼女が軽蔑する理由なんて説明不要
読んだならもう自明のことなんだから
だから物語なんか不要だろう?と
さらに、そこに映画業界の内幕を舞台装置として選んで観客の興味を牽引しようとする
そして同時に映画製作に於ける自らの不満を訴えかけている
巨匠のラング監督を引っ張りだしてまでして
何故ならこんな連中が相手なんだぜと
連中とは、私達観客と映画産業の関係者のことだ
ラング監督の作品名を出してついてこれるのかをまず観客に問いただしている
Mは当然観ているよね?と
さらに映画産業の関係者に、そのMをラング監督の代表作の一番に挙げれないようなレベルで映画に関わっているのかよと軽蔑の視線を送るのだ
凝った作りだと思う、バルドーのまるで心が読めない不機嫌さの演技や演出、二人の状況を示すゴダール監督の演出の的確さは素晴らしい
しかし、この作りにこれが芸術だと感銘をうけるかどうかだ、本作を評価するかしないかはそこにあると思う
ラストシーンの事故に至るアクセル音と序盤のスポーツカーのアクセル音との対比と劇的幕切れでようやく物語性が思い出されて終わるのみだ
つまり物語の欠如と芸術との狭間にある作品で、どちら側に寄って立つかによるのだ
バルドーの有名な幅広のヘアバンドをしたヘアスタイルに注目しなければならない
明らかにフェルメールの名画「青いターバンの少女」(真珠の耳飾りの少女)をモチーフにしている
これは単にヘアメイクさんが適当にアレンジしたものではない
間違いなくゴダール自身による意志を持った演出なのだ
この絵はオランダのモナリザといわれている
有名なスチール写真をみれば顔の向きまでその絵に似せているではないか
つまり何を考えているかわからない表情を敢えてさせていることをゴダールは表現しているのだ
つまり本作のテーマはこのヘアスタイルに込められていたのだ
もっといえば、これが判らないようなら、俺の映画は理解できないからつまらないよ、ハリウッド映画でも観てなさいとも言っているのだ
ラストシーンは自らの映画作りへの信念を象徴する人物がハリウッドを象徴する人物と赤いスポーツカーに同乗して走り出したところで、大事故になり二人とも死んでしまうところで終わる
ハリウッドと俺が組んでも、ろくな結末にならないとゴダールは表明している
大惨事になるだけだと