木靴の樹のレビュー・感想・評価
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19世紀を再現
19世紀の農村に暮らす小作農の日常。それは絵画のような美しさだが、現代人には計り知れない感覚もある。特にキリストへの祈りは印象的で、それによって日々が救われもするのだが、貧しいのに学校に遣る羽目になったり(それである一家は破滅に)、新婚早々養子を取らされたり、今の日本に生きるものからすると、教会による搾取のように見えてしまう。/新婚旅行で行ったミラノの光景も印象的。当時、田舎の農村から都会に出るとは、単なる場所の移動ではなく時代の移動でもあったのだ。あの場面だけ、急に時空がねじれて変なところに転送されたSFのようであった。
絵画を眺める様な3時間
1978年製作のイタリア映画で「パルムドール」。日本公開が1979年なんで、観たのは大学入学前後ですかね?もう、よく覚えてないけど。とにかく、これが、ワタクシにとっての「カンヌ」の、「パルムドール」のハードルになってるんですよ、間違いなく。
19世紀のイタリア。4つの小作人家族。各々の家族に起きる出来事。協力して農作業にあたり、一つの家族の様に集まって過ごす人々。他の家族には明かせない秘密もあり。追い出される家族に差し伸べる手も無く。ただ息を潜めて、目の前から消え去るのを待つだけの人々。一家が立ち去った後に、家から出てくる人々の怖れな悲しみや安堵感。
絵画を眺めている様な映画です。徹底したリアリズムです。控えめなプロレタリア文学。私たちは、こうやって生きて来たのだと言う記録。ただただ、描く。人々の生活を、ただ描く。ただただ、それを眺める私たちは、人間の本質に思いを馳せたり、考えたりするのだけれど、結論じみたものは無く、残された3家族と若夫婦と一緒になって、農道をゆらりゆらりと揺れながら遠ざかっていく灯りを見送るだけだと言う。
やっぱりパルムドールのハードルは、たけぇぞ。って事で。
良かった。
レベチだった。
何もかもが。
(広島市映像文化ライブラリーにて劇場鑑賞)
ネオレアリズモの継承者エルマンノ・オルミ監督の19世紀の自然と人を見詰めた映像詩
ネオレアリズモの伝統を受け継いだエルマンノ・オルミ監督のこの作品は、今では誰もが気にも留めない、凡そ商業映画では題材に挙げられることのないであろう、19世紀末イタリアのアルプスの麓に位置するベルガモに生きる貧しい農民の日常を詩情豊かに描いていて、却ってそれが今日失われている人間の根源的な生命観を提示して感動させるものがある。ここには、映画制作を行う前提において、純粋な映像表現に対する強かな意図がオルミ監督にあったはずである。つまり、社会主義が浸透し始めた時代背景の、まだ資本主義の恩恵を受けることのない、領主たる地主の支配下で貧しいながらも大地と共に生きる人々の喜怒哀楽を静かに見詰めた、民主主義以前の社会批評の視点が、背後に意識されている。地主の強権を揶揄したり過剰に批判せず、小作人たちの虐げられた苦しみや悲しみもドラマティックに描かずに、当時のあるがままのエピソードを積み重ねる冷静なオルミ監督の観察者としての立場が明確である。
唯一の劇的なエピソードは、題名にもなっている木靴に纏わる挿話くらいで物語を閉じる。バディスティ家の長男ミネク少年が村で初めて小学校に通うことになったが、彼の二番目の弟が誕生した日に一足しかない木靴を割ってしまい、それで父親が地主所有のポプラの樹と知りながら伐って息子の為に木靴を作る。だが、そのことが地主に知れ、たったそれだけのことでバディスティ一家は共同農場を追われてしまう悲劇である。そこに農民たちの怒りは表現されていない。僅かな抵抗も許されない身分に甘んじるしかない小作人の立場が何とも痛々しい。そんな農民たちの生き生きと働く姿や静かに眠る姿、時にはお祭りで騒ぎ楽しむ姿、家族団欒の食事風景と、質素でも生命力ある人間の営みが丁寧に克明に描かれている。また、ブレナ家の娘マッダレーナが新婚旅行でミラノへ行く船出のシーンが美しい。そのミラノでは偶然にも労働者のストライキに出くわすのだが、彼らには別次元の事の様に思われるだけだった。ここにオルミ監督の意図した時代背景が象徴的に表現されている。
北イタリアの四季折々の変化、紡績工場や畜舎などを捉えたカメラワークは、オールロケの自然な美しさに満ち、自然光と蝋燭の炎に彩色された絵画の如き映像美として見事に再現されている。1978年に制作された価値も、3時間を超える上映時間の意味もあるイタリア・ネオレアリズモ映画として記録されるべき作品。そして、この映像美に溶け込むバッハのバロック音楽が素晴らしい。地上から垂直に高鳴り天から降り注ぐ慈しみのバッハの音楽が、この19世紀の人々を温かく包み込んでいる。
1979年 6月24日 岩波ホール
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