「今、見直すとそれ程の感動は無いが、名画として観る価値はある」華麗なるギャツビー(1974) Ryuu topiann(リュウとぴあん)さんの映画レビュー(感想・評価)
今、見直すとそれ程の感動は無いが、名画として観る価値はある
74年に制作された「華麗なるギャツビー」は、今では「なつかしの名画」と言う部類の映画になってしまうのだろう。
その名作が今回、すっかり天才子役から、演技派俳優となりハリウッドには不可欠の実力派俳優に育ったディカプリオを主演に迎えて、リメイクされると言う事で、昔の作品の記憶があいまいなので、改めて見直してみる。
公開してから、数年の後に私は名画座でこの作品を観たのが、10代の時で、その当時観た印象と今回では全く違ったものだった。
この映画の脚本を担当していたのが、先ずコッポラであった事を私は忘れていた。
そして、このコッポラの描くジェイ・ギャツビーは原作の物語とちょっと違った作りになっていた事と、それに加えて、今回観て見ると、レッド・フォード演じるジェイよりも、彼の邸宅の隣に住むニックこそが、主役に見えてならない。
この作品を初めて観た当時はギャツビーを演じたロバートレッドフォードに意識の総てが集中してしまっていて、その他の事は全く印象に残っていなかったのだ。
彼は「裸足で散歩」68で一躍有名になり、娯楽映画の名作となった「明日に向かって撃て」「スティング」と話題作品を総ナメにして、今ではラブストーリーの古典的名作「追憶」にも出演していた。この「華麗なるギャツビー」の後には、あの問題作「大統領の陰謀」に出演した。
彼の笑顔が最高で、そのイケメンぶりが群を抜いていたので、日本でも既に多くのファンを獲得して、常に洋画では話題の中心だった。
特に私は彼の映画ファンではなかったが、今調べてみると80年の「ブルベイカー」までに
17作品を観ていた事になる。
これには、改めて驚いた。ハリウッド映画を中心に観ていた私は、ハリウッド映画を普通に観ていたのであり、彼の映画をマークしていた訳ではないのだが、彼の若い頃の殆んど作品を結果的に観ていたのだ。
彼の相手役のミア・ファーローが大人の女性の魅力があって、当時は憧れていて、その後のウディ・アレン作品に出演する彼女も楽しみにしていたものだ。
しかし、いくら昔のアメリカのブルジョワ階級の人々の人間模様を描いた古典文学作品の映画化とはいえ、貧しい育ちで、苦労して1代で莫大な富を築いたギャツビーが何故、贅沢な生活だけが出来れば幸せと、自己中に生きる、あのデイジーにあれ程まで、憧れ追い求めたのかが、全く理解出来ない。
貧しい育ちの彼には、デイジーとの結婚が、彼の人生の成功・勝利の象徴になったのだろうが、どん底から、這い上がり、成金王のようになったジェイ・ギャツビー程の人物であるのなら、本来あのようなデイジーを想い続ける事は出来ないはずだ。
しかし、この映画は、豪勢なパーティやら、邸宅と贅沢で華麗な世界ばかりを描いていて、今では退屈な作品に思えるのだが、美術などを始め、お金をかけて、良く制作したものだと感心した。CG合成出来ない、フィルム撮影の時代を考えると凄い作品である。