大人は判ってくれないのレビュー・感想・評価
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現在進行形の姿を映像に留めた奇跡
トリュフォー監督による初長編作。今の時代、改めて本作を見直してもなお、その決して感傷的な描写に流されない子供たちの表現力、それを可能としたトリュフォーの演出力に圧倒される。教室で生徒全員が一つの生命体になったかのようにざわめく姿だったり、パリの街並みを闊歩する時の生き生きとした動線、遊園地の遊具に身を晒す時の子供らしい緊張と興奮が入り混じった表情など、すべてのシーンが魅力的。そのナチュラルな感情表現が観る者の目を惹きつけてやまない。
やがて更生施設を逃げ出した直後に訪れる、伝説的な海。モノクロームの映像だとその孤独さ、冷たさ、広大さがひとしおに思えるのはなぜだろうか。静止する世界で画面のこちら側を見つめる少年の表情は、我々が歳を経るごとに刻々と色を変え、鑑賞するたびにまったく違った印象を投げかけてくるかのようだ。現在進行形の姿を映像に留めているので、いつまでも色褪せない。それゆえこの映画の豊かさはいつの時代にも感動を与え続けるのだ。
自叙伝的映画
やっと見た。ヌーベルヴァーグで有名なトリュフォーの映画。
1959年に作ったトリュフォーの長編デビュー作らしいです。
といっても、ヌーベルヴァーグが何なのかもよくわかっていない自分ですが。
モノクロ映画ですが、パリの街並みが情緒あって美しいです。
映画の内容はといえば、少年アントワーヌの心象風景とともに物語が進むのですが、トリュフォー自身のことを描いた作品でもあるそうです。
主人公アントワーヌ君、環境に恵まれず、悪いことづくめで不良化していくのですが、見た感じ全然、いい子でした。寝る前には母の言いつけどおり、ゴミを捨てに行くし、ボロボロにやぶれたパジャマも文句なく着ているし。感化院に送られるバスの中で流す涙で、少年が深く傷付いていることに気づきます。
少年の母親は超自己中心的な女性として描かれています。父親(どうも少年とは義理のつながり)が、「いとこに子供ができてね」というと、母親が「4人目でしょ。ぞっとするわ」という台詞が極め付けで、子供なんか邪魔な存在でしかないといった感じでした。
ラスト、少年が施設を抜け出して、海辺を駆け抜けるシーン。表情のアップで終わっていますが、その陰に苦悶が隠れているように感じました。でも、世界に向かって挑んでいるようでもありました。
決して明るい映画ではありませんが、見てよかったです。
鑑別所に入れるのは、非行の根本的な対策になっていない
アントワーヌは非行を重ねた結果、両親によって鑑別所に入れられる。だが、これは彼の更生のための根本的な対策になっていない。根っからの不良というタイプにも見えない彼が非行を繰り返すのは、両親が彼に向き合わないからだ。母親は浮気していて夫婦仲が悪いし、アントワーヌに辛くあたる。父親も週末は出かけてばかり。家庭にも学校にも居場所の無い彼が、その虚しさや寂しさを解消するために非行に走る。だが母親は自分のせいだとは思っておらず「鑑別所で性根を叩き直して欲しい」と頭ごなしに怒る。以上のように考えると、アントワーヌの更生のために本当に必要なのは、つまるところ『愛』なのだと思う。愛が無いと鑑別所を出ても何も変わらないだろう。
今作は子どもの鬱屈とした気持ちを、両親や教師といった周囲の大人との関係から描けていて秀逸だった。
【アントワーヌ・ドワネル君が、悪い子には見えない作品。あんな両親だったら家出したくなるよなあ。ラスト、ドワネル君が少年鑑別所を脱走して海岸に着いて、振り返った時の表情を捕らえたショットは見事だな。】
■両親と暮らす12歳のアントワーヌ・ドワネル君。
学校では、毎日先生に叱られ、家に帰ればマタマタ叱られる。
母親は、浮気をしているし、父親も頼りない。
やがて、彼は家出をし、親友のルネ君の家に隠れて住むようになるが、お金が無くなって、父の会社のタイプライターを盗んでしまう。
◆感想
・アントワーヌ・ドワネル君を演じた小さいジャン=ピエール・レオの顔が、純朴で、悪戯っぽくて、とても可愛い。
故に、私にはアントワーヌ・ドワネル君が、悪い子には見えないんだなあ。
・それよりも、彼の両親、特に母親が彼を可愛がってはいるのだが、心の底から愛しているようには、見えないんだよね。
・大体、アントワーヌ・ドワネル君が叱られる原因は、学校の壁に落書きしたり、バルザックの文章を丸写しした作文を提出したり、悪戯の範疇だと思うのだけれどなあ。
・それに対し、タイプライターを盗んだ事で、少年鑑別所にホイホイ入れてしまう両親の方が、罪があるのではないかな。
<今作は、それでもどこか明るく、コミカルなトーンで描かれているのが、良いのだな。
そして、個人的なベストショットは、アントワーヌ・ドワネル君がまるで自由を求める様に、少年鑑別所を脱走して、只管に走って、海岸に漸く着いた時に振り返るシーンである。
あの、振り返った顔がアップになって、静止画になるラストは見事だと思うし、アントワーヌ・ドワネル君の表情も”漸く解放された!”とでも言いたげに、爽やかなんだよね。
今作は”ヌーベル・バーグ”の逸品とされているようだけれども、成程、1960年当時では、作りが斬新だった事が良く分かるよね。>
開放感と強さ
主人公アントワープを演じたジャン・ピエール・レオは当時14歳だったとのこと。凄みがあるというか大人っぽいというか…男っぽくみえる。
観劇する幼い子どもたちの場面が出てきた。こどもたちの反応はそれぞれ違っていて、もうこの頃からすでに個がある。でも、あどけない罪のない可愛さはみなに共通。わたしたち、スタートはみなこんな感じなのだ…。それが、環境や経験により良きものも悪しきものもプラスされていく。そしてアントワープの凄みもそう、ということなのか。
この子どもたちの描写は飽きなくておもしろかった。
彼に心身ともに行き場がないということは見ていれば自然に納得されてくる。腰の座った落ち着いた描写がなければなかなかこうはいかない。
いよいよ少年院送りになった時、ああ、ついにこんなことになってしまった…と思った。と同時に開放感も感じた。彼は、大人のつまらない気まぐれにもう縛られずにすむから。彼はそんなものから離れて強く生きたほうがいい、と。
その開放は脱走により、ひとまず現実のものになる。海の広がりが彼の眼の前にあった。どれほど不安で、同時にどれほど強い心持ちだったのだろう…。
この映画は監督の 自伝的映画だという。もしもっと違う良き環境に置かれていたならば、この監督さんはこの形では成功しなかったのだろうか。何も不具合な環境でなければ良い芸術家が生まれないということはないだろうけれど、大人や社会に対する反発やら洞察やらが活動に影響を与えた面はあったのだろう。
そして社会は気まぐれに、今度は彼への称賛にまわる。おかしな構図だこと。
忘れるだろう
とても面白く共感した
子供は誰だってこんな風に思ってしまうと感じた。そして、大人になると自分が感じた息苦しさを忘れて無感覚になる。
この作品は大人が子供に対する理解のなさを鮮明に描いてる。原題の意味は違うそうだが、今作に関しては邦題の方がしっくりくる。
トリュフォーのデビュー作
主人公は学校に通う少年、先生は訳のわからないことばかり言うし、家では夫婦喧嘩が絶えず、母親の不倫まで目撃してしまう。
嘘つきの常習者となり、叱られるのに嫌気が差し家出、父の会社でタイプライターを盗み、質屋で金に替えようとするが失敗、返しに行ったところ・・・。
主人公の周りにいる大人たちは、判ろうともしないのだ。
護送車から見るパリの風景
冒頭のパリの風景と護送車から見るパリの風景との対比が面白かった。時々、伴奏が流れる場面では、少年の生き生きした心情を表現していた。
少年鑑別所を脱走し、海辺まで逃れた少年のアップで終わる。今後、この少年はどうなってしまうのか、秀逸な終わりかただった。
トリュフォーは主人公と同じ環境でどう立ち直ったのか…
この映画は監督の自伝的要素が
込められているとのことだが、
作品の中の両親の、家族のことよりは
自分のことを優先する生活にまず閉口した。
その後、子供の学校での
トラブルを切っ掛けに一度は
家族らしさを持ち得たものの、
後段での、両親共に
子供を少年鑑別所に入れることを積極的に
進める性根には更に驚かされた。
そんな大人への子供の反抗心を
みずみずしく描いた作品ではあるものの、
しかし、犯罪レベルの
とても正しいとは言えない行動に
なかなか共感を得ることは出来なかった。
私が育ったのは、この映画と
時代的にはそれほど変わらないものの、
まだ保守的な日本社会での田舎の環境。
だから、私の子供の頃なんて大人が怖くて
反抗なんて出来なかったが、
幸いにも、今振り返ってみると、
叱られたことでもそれなりに正しいことを
教えられていたように思う。
だから、なかなか実感出来ない世界を
覗かさせていただいた印象の作品だった。
それにしても、トリュフォーも
彼から影響を受けたというスピルバーグも
家庭環境は決して好ましいものでは
なかったとのこと。
そんな中で彼らは世界的な映画作家に。
家庭問題で苦しんでいる若人にとっては、
そんな観点からも勇気を得られる
偉大な2監督と言えるのではないだろうか。
逃げ場もない
ジャンピエールレオ扮するアントワーヌドワネルは、教室でやり玉に上がっていた。クラスの他の者がきっかけなのにドワネルが立たされた。先生は怒ってばかり。たとえよい子であってもやる気をなくすバターンだな。家でも買い物を忘れてママに怒られた。宿題やる暇もなく、逃げ場がないね。
「居場所」を作ってあげることの大切さ。
その方面の事情に詳しいわけではありませんが、評論子は。
しかし、子供の非行の大部分は、その子に「居場所」を作ってやれない大人の側にも大きな要因があるように思えてなりません。本作のアントワーヌの両親のように。評論子には。
曲がりなりにも、二人の子供を育ててきた評論子にも、わが身がどうだったのか、ずっしりと重たい気分が残ります。
観終わって、胸が痛い一本でもありました。
主人公の表情が何とも言えない
子供にとって、家庭と学校が社会のほとんどを占める。そんな中で、複雑な生い立ちからか親や教師と上手く付き合えない不器用な主人公。
盗みを働き護送車に乗せられパリの街中を行く際、鉄格子で日常から切り離された側に来てしまったことを自覚したのか、主人公が流す一筋の涙。なんとも言えない表情をしている。
面会に来た母親から絶縁を言い渡されたあと、鑑別所から逃亡する主人公。走って着いた先は誰もいない海。オープニングのエッフェル塔と全く異なる光景。
最後、浜辺に佇む主人公の表情のアップの静止画で終わるその表情は、護送車のシーンと違い、子供っぽさのないとても冷めた表情に見えた。
大人をナメまくる
トリュフォーの自叙伝的性格が強いと言われる映画。個々のエピソードの単発感は凄いけど、少年は徐々にタガが外れて行き、母親の愛情も徐々に薄れて行く。最後は親にも見捨てられ、鑑別所から脱走し、浜辺へ辿り着く。
ヌーベルバーグの作品の中では、エピソードが豊富だと言う点、映像表現の中にみる遊び心、が際立ってる様な印象ですが。
なんせ。
それほど、この時期のフランス映画を見てないw
ガツーンと来るものは無かったけれど、引きずり込まれたし、目を皿の様にしてスクリーンを眺めている自分がいました。
少年は海に何を見た?
ず〜っと、映画館で観なきゃダメと思っていた本作、やっと観ることが出来た。
オーディションで、ジャン=ピエール・レオを見つけた時点で、トリュフォーは相当な手応えを覚えたに違いない。
まさに彼なしでは有り得ない作品。
撮られていた時代はともかく、作品それ自体に退屈な古臭さなど殆ど見当たらない。
59年で、これを見せられたら、そりゃあ新鮮に映っただろう。
アンリ・ドカエのカメラワークもオープニングから流石。
あのオープニングだけでも何度も観てみたい。
あと何気に音楽が素晴らしかった。あの音楽が無かったら、もうちょっと退屈になってた気もする。
しかし、最後の生々しいストップモーション、まるでパンクを彷彿とさせるユース特有の痛々しさだが、アレ今観るとチョットばかり古臭いかな。
たぶん、他の連中が散々マネした結果かもしれんけど。
意味がないと思っていたシーンはラストにつながっていた
この映画は、若いころに一度観ている。
正直、ピンとこなかったし、「ああ、この解らなさがヌーヴェルヴァーグなんだな」と強引に結論付けていた。
当時、意味がないと思っていたシーンは、例えば遊園地のシーン。
これはストーリーにどうつながるんだろうと疑問だった。
何十年かぶりに観て、ようやく分かった。
ラスト、主人公ドワネルは少年院(更生施設)を脱走し、走り続け、海にたどり着いた。カメラはドワネルの顔を大写しに捉えたところで静止画になって、この映画は終わる。
ドワネルの表情は険しく、とても子どものものとは思えない。
それは彼の生活環境は過酷だからだ。
大人たちはドワネルの言葉に耳を貸そうとしない。
彼が信奉する作家バルザックに憧れて作文を書けば先生は盗作だと切って捨てるし、ロウソクの火を捧げれば両親は火事の元だと頭ごなしに叱る。
両親はドワネルの前でケンカでお互いを罵り合う。
ドワネルは父親の実子ではなく、母親の連れ子という背景もあるだろう。
親子3人が暖かく交流するシーンは、一緒に映画を観に行くときぐらいしか登場しない。
上に書いた遊園地のシーンのように子どもらしい笑顔を見せる場面もある。もちろん、ドワネルはまだ子どもだからだ。
だが、環境は彼を無邪気なだけにはさせてくれない。更生施設に入ったドワネルを、両親は見捨てようとしている。
子どもらしい笑顔と、彼の苦しみや悲しみの表情が交互に表れる。それこそが、ドワネルの悲しい現実を反映していたのだ。
そして、映画はラストシーンに向かう。バックには荒涼とした海景、ドワネルの険しい表情。そして静止画になる。つまり、映画の時間は止まる。
すべては、このラストシーンへの疾走なのだ。
なお、本作は監督トリュフォーの自伝的な内容になっているとのこと。トリュフォーの生育環境もまた過酷だったが、本作同様、映画だけが救いだった。この映画は、トリュフォーの初長編作品。そう、この作品自体が、トリュフォーの子ども時代そのものなのである。
大人に翻弄されるドワネルの境遇と心情。それを捉える映像は、手を触れれば切れそうなほどシャープだ。子どもの感性そのままに作られたような画面が素晴らしい。
狭さと広さの空間の対比
実はこの名作は初見なのです。
今までに観る機会(TV、DVD等で)は何度もありましたが、流石にこれ程の名作はスクリーンで観たいと思っていると、何故かこの歳まで観る機会を逃してきましたが、今回はそれこそ千載一遇のチャンスと思い観てきました。
そして、鑑賞後なるほど今の私の目で観ても見事と思える傑作でした。
元々トリュフォー作品は個人的に、ゴダールに比べ「何処が“ヌーヴェルヴァーグの旗手”やねん!」と思えるほどに古典的な作風だと感じていて、本作も『自転泥棒』や『靴みがき』『鉄道員』などのイタリアのネオレアリズモ作品の影響を強く感じてしまいましたが、今回の映像の美しさから改めて“ヌーヴェルヴァーグの旗手”と呼ばれる事の意味を見つけた様な気がしました。
私が4歳の頃に作られた作品なので、パリであろうが大阪の西成であろうが、時代的な空気感と言うのは同時代にリアルタイムで生きていた記憶としての懐かしさが感じられ、当時のパリの街並みの美しさを感じると同時に、当時のパリの安アパートメントの狭苦しさや汚さの中に、私が産まれた当時住んでいた日本の貧しい長屋を思い出していました。
本作の中のアパートの中の狭さや、狭苦しい警察の留置所(あの有名な本作ボスターのカットがあの場所なのかと驚いた)とか、寝場所としての友達の工場の隅や遊園地の遠心力を使った遊具等々の閉塞感と、彼が歩き走り続けたパリの街並みと郊外の鑑別所から海辺までの道のりまでの開放感、そして海へと辿り着きストップモーションの表情でのエンディング等々の、狭さと広さの対比、静止と運動との対比の見事さ。ああ、これこそがヌーヴェルヴァーグたる所以だと感じ入りました。
劇場で観る事が出来て本当に良かった!!
追記.
・最後のシーン海岸だけど、今まで色々な映画で“ノルマンディー上陸作戦”を観た記憶から、まるであの場所が15年後のその場所に見えて仕方なかった。
・ヌーヴェルヴァーグとは?を聞かれて、説明する時に個人的には印象派絵画の誕生と比較するのが凄く分かりやすく感じてしまう。
発生の要因からその後の映画界への影響などもとても似ているし、そこにいた作家の個性の違いに関しても良く似ている。まさにカンバス(カメラ)を持って屋外に出ようである。
そして、ゴダールをモネとするならば、個人的にトリュフォーはセザンヌの様な気がする。
家が狭い
角川シネマ有楽町でアントワーヌドワネル5部作一気見しました。初の長編とのことで、通してみると本作のみずみずしさを感じる。
まだあどけないジャンピエールルオーの表情もいいし。
母性が神格化されてないのはいいなあと思ったけど、もうちょっと愛されたかったよね。
学校の先生たちは理不尽で、フランスでも60年代はこんなだったのに、なぜ日本は同じように変わっていかなかったのかなと思った。
おれも判らない
アントワーヌとルネ(パトリック・オーフェー)は悪ガキ仲間。悪いことをしてもいつもかくまってくれる。それでも作文によって改心しようとしていたのに、担任教師からはバルザックの盗作だとののしられ停学処分になってしまう。そこから、家出、独立を目指すのだが、無計画であり悪いことをしても微笑ましい。
完全に子供目線から描いた映像はヌーヴェル・ヴァーグを切り開いたと言われる素晴らしい感性で表現される。しかし、ストーリーと少年の表情が上手く噛みあっていなく、心情を把握するのが難しい。そして、コミカルなシーンに惑わされ、素直に感情移入できないところが残念であった。
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