「エクソシスト2―リーガンまたは人類の覚醒」エクソシスト2 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
エクソシスト2―リーガンまたは人類の覚醒
この映画は、第1作が悪魔祓いそのものを描いた作品で、観客は第2作もそうだろうと思い込んで見始めるのだが…どうも感じが違う。
例えば、怪しげなシンクロ器械で見るとリーガンにはまだ悪魔が取り憑いているようだが、彼女が再三発揮する予知能力やテレパシーはそれとどんな関係があるのか、はじめはわからない。まあ、わからないなりに見ていくと、次のような話が展開されていく。
リーガンの救いの手掛かりとしてメリンの足跡を辿るラモントには、キリストの荒野の誘惑よろしく悪魔パズズが信仰を試す難問を突き付ける。イナゴの大群を退治したコクモを探そうとすると、悪魔の翼に触れざるを得なくされたり、コクモに会えたら会えたで、針の密生した池を歩むよう命じられ挫折したり、かと思うとそれは幻影で、生物学者である現実のコクモから、悪の連鎖を断つ「よいイナゴ」を紹介されたりする。
少年時代のコクモは超能力ゆえにパズズに憑依されて、メリンのエクソシズムを受けることになった。ならば、超能力を獲得したリーガンも同じ運命を辿らねばならないのではないか。
いずれにしろ憑依されたままのリーガンを完全に解放するには、かつての住まいにとどまっているパズズと対決せねばならないことをラモントは悟る。そこでリーガンとともにパズズとの闘いに臨むのだが、これが第1作と異なり、聖水やキリスト教典礼書などは出てこず、過去のリーガンに化身したパズズと神父との肉弾戦に終始するのである。どうにも悪魔祓いらしくないなあ。
その過程で、神父はパズズに憑依されかかり、現在のリーガンに襲い掛かったりするが、悪の連鎖の「よいイナゴ」による切断が効果を及ぼし、ついにパズズの化身を地獄に落とす。現在のリーガンにはさらに、イナゴの大群が押し寄せるのだが、ここで彼女は少年コクモとは異なり、悪魔に憑依されないで大群を退治することに成功する。
ここまでくると、どうやらこの映画は<悪魔対キリスト教>の戦いから、知らぬ間に<悪魔対超能力に目覚めた人間の戦い>に変質してしまったようだと、ようやく観客も気づかされるのである。
変質のカギは監督ブアマンの思想にある。ブアマンの作品をいくつか見てみると、基本的に反近代で、人間に眠る原初的なエネルギーに価値を見出していることがわかる。ドラッグで人間の能力拡張を図ったヒッピー・ムーブメントを想起すればいい。その”犠牲”になったのが本作で、本来宗教世界の物語だったのを、この原初的思想により人類進化の覚醒譚に変化させてしまったというわけだ。
本作では近代化された宗教であるキリスト教にはもはや悪魔に打ち克つ力はなく、むしろ人間の根底に眠る能力を覚醒させたリーガンこそ、その力を持っているとされる。彼女を手始めに、人類は進化の新たなステップに踏み込んでいくのである。最後にタスキン女医の促しに応えるように、ラモントとレーガンが二人そろって何処かに去っていくのは、ともに人類を進化させる旅にでたという意味だ。
以上が本作のストーリーと背景思想で、エクソシズムのおどろおどろしい世界を予想したファンの期待は見事に裏切られた。当然に、世評はかなり芳しくなく、このサイトでもボロクソに叩かれまくっている次第である。
しかし、成熟しかけたリンダ・ブレアの溢れんばかりのフェロモンや、高層マンションでの夢遊病による彷徨いシーン、アフリカの茶色くくすんだ大地を巡る映像、怪しいシンクロ機器、イナゴの大群退治のシーン、最後の楽曲の美しさ等々、印象的な要素に満ちており、本作は傑作というべきではないかと思う。
ただ「エクソシスト2―リーガンまたは人類の覚醒」とでも、サブタイトルを入れておく親切さが必要だったろう。