いちご白書のレビュー・感想・評価
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今の、イスラエルに抗議する世界の学生の抗議行動をシンクロ
NHK-BSのを録画で見ました。当時の学生運動の熱気が伝わってきます。この学生たちとはほぼ同世代なのですが、リアルタイムでは見ていませんでした。映画にはよく行っていたのですが・・いや、それもそのはず、そもそも日本公開は、40年以上も後の、2011年のようです。
折から、イスラレルによるガザ市民大量虐殺に抗議して、世界中の市民が、そしてキャンパスでは学生たちが立ち上がっていますが、そのタイミングをとらえて、よく放映してくれたと思います。どなたかの言葉を借りれば、NHKの誰かさん、ありがとう!
タイトルの「いちご」は、コロンビア大学大学院の副学部長が実際に発したの実際の言葉に由来するようですが、映画の中ではこの言葉がヒネられて、冒頭付近の学生二人の会話の中で、いわば汚名を美名に転換するという「言葉の柔術」が行われています(私の解釈)。なお、題名の「いちご白書」は「いちご発言」が正確でしょうが、「白書」の方がいろいろ想像力を掻き立てる、ということであえて「誤訳」されたと思われます。
冒頭の字幕では、この映画のロケ地を引き受けてくれるところが見つからず苦労したことが語られ、そして、「彼らにとっていちごなどどうでもよかったのだろう」という言葉が投げ付けられる。やはり「いちご」は重要なキーワードなのである。
後半部分は、副学部長室に籠城する学生と、これを排除しようとする警官・州兵とのバトル。非暴力の学生に警棒や催涙ガスが襲いかかる。学生たちは、軍事予算に頼って研究を曲げる大学に、軍事研究から手を引くことを求めている。まさに今、イスラエルに兵器や軍事技術を提供する米国の大学に学生が抗議しているが、50数年前と同じである。
実はこの映画と同時代の米国の理系トップ2大学ーMITとスタンフォード大学ーの軍事研究の実態を描いたルポルタージュ""The Cold War and American Science"(邦題:米国の科学と軍産学複合体 ―米ソ冷戦下のMITとスタンフォード)を3年前に翻訳出版していました[1]。この本の最終章「審判の日」がまさに、学生の抗議行動を扱っています。物語の舞台は映画のコロンビア大学ではなく、タイトルのようにMITとスタンフォードですが、しかしコロンビア大学のことも頻繁に引用されています。(右の写真は同署274ページから)
映画の冒頭で、先輩格の女子学生アーマが、ストの背景などについて新入りに説明するシーンがあります。その約2分半を紹介します。「皆で座り込みすれば普察の手間が増えるでしょ」とも。
同じことをブログにも書いています。画像や映画の一部切り取りも掲載。
大学生のスト
チェ•ゲバラの写真、長髪、
食品店に行き、大学でストで食料調達と言うと、商店主は言い終わる前から手を挙げ、何でも持って行け、と言う。
原水爆禁止も言っていた。
まだまだ純粋さの残る心の学生たちだからだろうか。
こういうのをきちんと大人が取り上げてくれていたらと思ってしまう。
わが国の東大紛争にしても。
戦争の為の研究やめろ、黒人差別やめろ、
も掲げていた。
アカも嫌ってた。これは国と同じ。
学長が演説で警察に逮捕してもらうしかない。停学になるだろう、と。
サイモンが犠牲者は多い方がいい、と言っていた。?????
構内で "平和を手に" 大合唱❗️
外では、聴衆が手にロウソクを持ち応援か。
警察が突入して催涙弾を放ち、学生たちを捕まえる。
なぜだかエンディングに明るい歌が流れる。
すみません、はっきり言ってわかりません。
「ロンデンランデンインザサクルゲーム」
「And go round and round and round
In the circle game」
「ロンデンランデンインザサクルゲーム」って歌っていた。
いきなり、ロバート・ケネディとピースマーク
「ベトコン」って差別用語とこの映画ではっきり知る。高校生になってその話をしたら、世界史の教師になぜか褒められた。
「平和を我等に」
「サークル・ゲーム」
「いちご白書をもう一度」
と僕のメインストリームなんだけど、僕をノンポリにしてしまった原点の様な映画。でも、それで良かったと思っている。
この映画は大学の「ロックアウト」の様子だが、僕の時代(70年代後半)でも「ロックアウト」を正当化するセクトは沢山あって、無理矢理参加させられた。しかし、あの時のはっきりした目的がなんであったかはもう忘れた。
結局、振り返って考えると、こう言った表現内容では「もう一度」と希望を願っても「サークル」の様に輪廻転生するだけである。今では本来の根本的希望にならなければならない「平和を我等に」なんて考えて、行動を起こす者が少なくなった。20世紀の平和活動の終焉の様な映画にしちゃっている。白書をもう一度なんて願っては駄目なのだ。
こう言った軽佻浮薄なストーリーが、運動の観念だけを伝え、その後の重大な運動を骨抜きにしてしまっている。つまり、僕の世代が悪いのかもしれない。真剣に運動していた者は団塊の世代で、僕らはこう言った運動を否定するか、ノンポリにしてしまった。
まぁ、もうすぐこの世ともおさらば。本音を言えば、どうでも良いと密かに思っている。
ここに登場する者達は、アメリカの団塊の世代達だろうが、こう言った事に参加した者もしなかった者も、この後に起こる経済危機や大事故や戦争を防げなかったし、寧ろ、アメリカの指導者として、イニシアチブを取る立場であると思う。従って、サークル・ゲームは我等に平和をもたらすのでは無く、悪循環のゲームと言うことだ。
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