ある日どこかでのレビュー・感想・評価
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かなり救いがない
モノクロ写真の女優に恋した青年が60年前にタイムスリップし、そこで女優と本当の恋に落ちる、という話。
メロドラマにしてはたいそう意地が悪い映画で、リチャード青年のタイムスリップが現実なのか空想なのか判別しにくくなっている。また過去の世界では映像がセピア色にぼやけ、否が応でもそこが現実ではないことを強調する。
というかそもそもタイムスリップの方法からして現実味がない。ベッドに横たわりながら自分が過去に戻るビジョンを強く思い浮かべるって何だよ。中学生かよ。タイムスリップしたい人間が哲学科の教授に指示を仰ぐのもわけわからんし。
過去の世界でリチャードは女優のマッケナに声をかける。初めこそぎこちなくはあったものの、あれよあれよという間にマッケナは恋心を募らせ、果てには舞台上からリチャードに向かってアドリブで愛の言葉を紡いでしまう始末。ようやく結ばれたかに思えたそのとき、リチャードのジャケットの内ポケットから「1979」と書かれたコインが。そして視界は暗転し、リチャードは元いた世界に引き戻される。
リチャードは狼狽えながらもマッケナとの思い出の跡地を巡る。しかしそこには何の変哲もない1980年代が広がっているだけ。リチャードは拒食症を引き起こし、生死の淵を彷徨う。そこで映画は幕を閉じる。
もう少し良心のある映画なら、序盤で老マッケナがリチャードに手渡した時計を登場させるとか、リチャードが恋に落ちる原因となったマッケナのモノクロ写真に何らかの変化が起きているとかいった描写を書き加えてもいいはずなのに、本作にはそういったものがまったくない。
リチャードは最後までセピア色の1910年代から抜け出せぬまま、窓から差し込む揺光の先にマッケナの幻影を思い浮かべるばかり。あまりにも救いがない。それ以外は概してご都合主義的で絢爛豪華なハリウッド映画という感じだから、かえって後味の悪さが際立った。
良くも悪くもこの「落差」が、本作のカルト映画としての地位を不動のものにしているのだろうと思った。どういうことが言いたいのかは結局よくわからなかったけど。
絵になるなぁ
主役の2人がとにかく絵になる。
タイムスリップものだけど、作られた当初1981年のアメリカの理想の男女ってこんな感じだったのかしら。
衣装もホテルのしつらえも素敵でとても目に美味しい映画でした。
あと、このラブストーリーの歯の浮く感じ。古い映画だからこそこれが良い。今と価値観の違った時代を感じながら浸って見たいしね。
ラストの演出は受取り方は見る人に委ねられてるのだろうけど、ここまで愛に生きて人生をかけたラブストーリーなら2人一緒に寿命を迎えたと思うのが運命的でロマンチックで良いのかなぁ
意味深なラスト
写真の女性に恋をして過去に戻る恋愛+SFのような作品
タイムスリップの方法は機械に頼るのではなく自己暗示によってと言うのがロマンチックと言うか、不思議な感じがした。
ラストの衰弱して失いゆく意識の中に見たのは愛する人だった・・・
主人公は果たして過去にタイムスリップしたのだろうか、それとも死にゆく天国で一緒になったのだろうか。
この作品はカルトな人気があるらしいが、考えさせられる終わり方にみんな惹かれるのだろうか
セピア色のポートレートに恋をして
クリストファー・リーブが若手劇作家リチャードを、
ジェーン・シーモアが美しい女優を演じていた。
当時の柔らかな色彩や、二人の胸の高鳴りと重なるラフマニノフのラプソディーの楽曲がいい。
遡って再会してみたいヒトに想いを馳せるなど、余韻が残る作品。
— グランド・ホテル —
「Come back to me」
BSテレ東を録画にて鑑賞
遅れて来た名作
原作者のリチャード・マシスンは旅先のオペラハウスに飾られていた女優(Maude Adams)の写真に魅了され、時空を超越したラブストーリー(Bid Time Return)を思いつきました。
ただ、片想いなら勝手でしょうが再会までの60年間彼女がどんな思いで生きて来たか、その残酷な年月を思うと結果償うにしても男目線の身勝手なストーリにも思えます。思い通りに行かないのが人生とすればせめて映画の中くらいは夢を叶えて欲しいという観客と悲しいときには悲しい映画の方が慰めになるとか、涙は心のデドックスという人もいるでしょう、評価は自身の時々の心の鏡のような気もします。
SF作家なのですが、興を削ぐのでマシン類は使いたくなかったし、魔法では子供だましになるので自己催眠法なるものを編み出したのでしょう、これとて無理があるのは百も承知、大学教授に言わせることで妙な箔をつけ、あとは映像、音楽のマジックで見事に物語に引きこんでくれました、余りほじくるのは野暮と言うものでしょう。
主人公がタイムトラベル前に古銭屋で両替する用意周到さと思ったらこれが伏線だったとは・・。お金で人生が変わるというのは大袈裟ですがコイントスで勝敗が別れることもあるというメタファーでしょうか。
主人公を虜にする一枚の写真、この物語が成立するか否かはこの写真にかかっていたと言っても過言ではないでしょう、エリーゼを演じたジェーン・シーモアはオーディションで選ばれたそうですが納得です。猫ちゃんのようなオッドアイ(茶と緑)を持つ神秘的な女優さんです。
プロデューサーのスティーブン・サイモンは原作に惚れ込んで映画化権を買ったものの脚本を読んだ幹部からこんなメロドラマ当たる訳がないと頓挫した、監督のヤノット・シュワルツが掛け合って許可が出たものの予算が半減させられたそうです。監督はジョーズ映画、主役はスーパーマン、彼女はボンドガールとこの種の映画には向きそうもない人達ですがそこが良かったのでしょう、芸域を広げるチャンス、チャレンジ魂に火が付いたのでしょう、007のテーマ曲でも有名な巨匠ジョン・バリーはジェーン・シーモアが頼み込んだようです。予算がないのでキャスト、スタッフはグランド・ホテルには泊まれず、近所の宗教団体の建物で寄宿舎生活を強いられたようですが脚本に惚れ込んだ仲間同士を中心に絆のようなものが高まったというから素晴らしい人達ですね。映画興行は不発だったようですがテレビ放映やビデオで火が付きコアなファンが大勢いるという遅れて来た名作になりました。
現実離れしている
ストーリーに付いて行けなかった。無理があるし、2人がそこまで惹かれあった理由も見つからない。ゴーストは泣けたし感動するのに、こちらは駄目。何故だろう? 音楽はどこかで聞いたことがあり懐かしい感じがした。
パガニーニの主題による狂詩曲
総合70点 ( ストーリー:65点|キャスト:70点|演出:70点|ビジュアル:70点|音楽:75点 )
ピアノの独奏による美しい透明な旋律から始まり、弦楽器が入り急速に広がって壮大に盛り上がり、そして最後に静かにゆっくりと消えていく。誰が作曲した何ていう名前かも知らないけれど美しい曲があって、十数年もたってからようやくその曲の題名がわかった。ラフマニノフ作曲、パガニーニの主題による狂詩曲。
そしてその曲が使われその曲をクラシック好き以外の人にも有名にした有名な映画があるとその後知って、それからずっと見たかった作品がこれ。
時代的に恋愛が時間をかけて自由にするものではないのかもしれないが、会って幾ばくもないのに恋ではなく思いつめた純愛になっているのは違和感があった。マッケナはロビンソンに束縛され苦労もしただろうし、だから自分を変えてくれる予言の人が現れる瞬間を長い間待ち望んでいたのだろう。コリアーも最初の学生時代の不思議な出会いからホテルの写真へと繋がる過程で彼女に興味を持っていた。二人は出会う前から互いの存在を待っていた。だがその後の純愛に発展するのが早急すぎて重みがなかった。
その後の彼女がどうやって現代に生きる彼を知りたどり着いたのか、時計は結局誰が手に入れてどこから現れたのかもわからない。
だけど物語上での矛盾や説明不足な部分があっても、作品の中にはそれ以上に二人の相手に対する想いがあった。時を越えて出会った二人が、時の狭間に阻まれた哀しさが伝わってきた。パガニーニの主題による狂詩曲がそんな二人を象徴していた。
現代と過去では過去の場面のほうが赤色が強くて懐古的な色合いになっている。わざと着色するように撮影していると思ったら、現代はコダック、過去は富士と感光材を変えたことによる効果だそうで、微妙な違いだが過去の場面は古い映画の色合いのようだった。
許されない恋愛は死
始まりから凝っていると思った。おしゃべりだけが先に始まる。観ながら書くスタイルなので、どうなるのかわからないが、運命というか、縁というほうが近いのか、時空を超えてもそういう人がいるのかなと思わせるようなファンタジーなのだろうか。タイムトラベルものと恋愛ものとを合わせているのだが、恋愛のために命がけで時空を超えてしまうのは恋愛という視点から見れば壮大なファンタジーではあるが、そのために現世から子孫を残さずに、後追いのように死んでしまうのがハッピーエンドでは、こんなカップルばかりでは現世が続かなくなってしまう。やはり現世に適齢期としてある異性とのタイミングは必須なのだ。時空を超えて愛してしまうと後が続かないのである。空想として恋愛の一途さを感じようとするには気分に浸れるかも知れないが。ウィキで調べたら、現代のシーンと過去のシーンでフィルムを変えて色の印象を変えているとの事だが、言われてみれば過去の映像になるとなんだか赤っぽくなっているような気もする。調べないと気付かなかった。知らないと気付かないが出現しているという事は何事にももっとあるのかも知れない。空気も重力も言われてみればだろう。運命とか成功などもそうなんだろうか。映画音楽にしても、出典を知っているのといないのとで違うことがあるのだろう。またその進展にしても。その後の活用にしても。意地悪な面を書くのが私の個性だが、というより、現代は自由すぎて混乱するので、こうして時空を超えてまで恋愛してしまいたいような感情を持つと、男女雇用機会均等でお金が入って、世界を幾つも旅してしまいながら、独身が長くなってしまう女のような気もした。世界のどこかにはその世界のどこかでの人の生活があるのだから、旅する異邦人はひと時の幻想までで、生活には至らないのではないだろうか。過去も未来も巡っているようなフィクションなのだからだと思いたいが、出会ってすぐのストリートナンパのように二人は惹かれあってしまうのだが、女優のほうのマネージャーがそれを阻もうとするのは、むしろ幻想的出会いを戒めるモチーフという視点で私は観たくなってしまう。出会ってすぐにふたりきりの部屋で濃厚なキスの最中にドアを叩くマネージャーに止められていなかったら、二人は最後まで行ってしまっただろう。ホテルに週4回も密会を重ねた政治家と弁護士にはマネージャーの静止は無かったのである。この映画のマネージャーは悪役ではないのである。悪役に感じてしまう現代人の感覚が世界を壊してきたのであろう。そこまで恋愛主義の洗脳は強いのだ。二人を引き離したマネージャーのドアを開けて出ていったすぐあとの不憫そうな表情は相手思いのモラルだったのだ。ただ、この映画にしても時空を超えていなければ、似合いの男女で済んだとは思うが、生活のためには、子孫のためには、許されない恋愛はあるのではないか。だからこそ、現実には出来ない、そういう面でこうしたファンタジーや旅行というのは傍観者的な憧れとしては存在するのかも知れない。そして帰ってきたところに、生活や現実がまた待っているのだろう。そうでなければ、この主人公の脚本家のように死まで追いかけてしまうのだから。それに結婚してから性行為というキリスト教に対する冒涜のように、この1980年上映という時代の自由さは、映像は直接的ではないにせよ、平気で起こしている。二人が楽しく愛し合っていれば罪はないじゃないかというのが、それから40年近くも経過した今の日本人の大勢のセンスかどうかはわからないが、しかしこの映画に関しては結局は悲劇的である。楽しく愛する相性なら悲劇には終わらないだろう。1979年のコイン。これは何かを象徴しているような気さえする。許されない恋愛は死に通じなければならないというのは、夏目漱石にしても、太宰治にしても、離れられない側面だった。現在はもう神仏というような得たいの知れないところからかけ離れてしまい、世間への風当たりからだけの隠し事にはしているが、平気でやっているのだろう。そこには愛欲と肉欲と性欲が優先した、みさかいない物体が二つ重なっているだけである。かろうじて梅毒などの性病が死を思い起こさせるが、HIVウイルスにしても、不治と言われたエイズの手前で、生きるだけの克服はできたような噂が医学の進歩だと言われるが、そこまでしてまで薄いゴムを売りたいのか、いったい子供という宝に対する意識はどこにあるのか、配偶者への裏切りを辛いと思わないかなど、得たいの知れない、モラルを逸脱するとひどい事になる何かは無いと思わせておいて実は有るのではないか。そうでなければ文学の優秀頭脳たちが許されない恋愛を死に向かう悲劇だとあれほどまで残してこなかったのではないのか。そして許されない事のない愛情はその二人の子供たちとともに、現世で祝福されて続くのであるから。
penny...
タイムスリップして恋を成就させるという物語。
大掛かりなタイムマシーンが登場する訳でもなく、潜在意識に行きたい時代を信じ込ませるという方法。
運命的な出逢いと夢のような奇跡。
愛する人と一緒に歳を取れない切なさ。
Eliseは最期にRichardに会えて良かった…。
美男美女がRenoirの絵画に現れたかのような美しい舞台@the Grand Hotel Mackinac Island, Michigan.
C. Plummerも渋くてかっこ良かったです。
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