アラバマ物語のレビュー・感想・評価
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【”無害なツグミを撃ってはいけない。”今作は、1930年代のアラバマで起きた黒人男性の白人女性暴行事件の顛末を、黒人の弁護に立った清廉な弁護士の男の子供の目線で描いた逸品である。】
■1930年代のアメリカ南部アラバマ州が舞台。
幼い息子ジェムと娘スカウトと暮らす弁護士・アティカス・フィンチ(グレゴリー・ペック)は、白人女性暴行の罪で訴えられた黒人青年・トムの弁護を依頼される。
人種偏見の強い町の人々は冷たく当たるようになるが、アティカスは正義を重んじ、弁護を引き受け、陪審員が全員白人であるという絶望的な裁判に臨む。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・誰が見ても、白人女性マイエラ・ユーエルを殴りつけたのは、愚かしき父親ボブ・ユーエルであり、その証拠を裁判で見事に証明するアティカスだが、黒人差別意識の激しい南部アラバマでは、トムに対し、有罪判決が出る。
そして、アティカスは肩を落とすトムに”上告するから。”と告げるシーンの、黒人牧師に促され、2階で裁判の遣り取りを聞いていた黒人たちが、アティカスの背に向かって起立するシーンの崇高さよ。
けれども、トムは”勾留場所から逃げ出して”射殺されたという報が届く。
それを聞いている幼い息子ジェムと娘スカウト。
・ボブは勝訴したにも関わらず、アティカス・フィンチへの嫌悪を隠さない。
トムの死を肉親に告げに行ったアティカス・フィンチの後を追い、彼に唾を吐きかけるが、フィンチは冷静に対応するのである。
・しばらくたって、幼い息子ジェムと娘スカウトはハロインパーティーに出掛ける時に、何者かに襲われる。
だが、別の者がその男からジェムを救い出す。
そこに保安官がやって来て襲ったのはボブ・ユーエルで、彼はナイフが胸に刺さって死んだという。
スカウトは、自分達を助けてくれたのは、極度の恥ずかしがり屋であるために、様々な噂を立てられていたアーサー・”プー”ラドリー(若き、ロバート・デュヴァル)という事を知っていた。
そして、保安官も”ボブ・ユーエルは、自業自得の死”と言い、恥ずかしそうに戸の陰に立っていたアーサー・”プー”ラドリーを、英雄と言って人前に出すのは”罪”であると言うのである。
<今作は、1930年代のアメリカ南部アラバマ州の黒人蔑視の状況を知らない子供、アティカス・フィンチ弁護士の娘スカウトの目線で描かれた、”相手を理解する大切さ。””。”人種、地位、思想が違ってもお互いに歩み寄る大切さ。”を描いた逸品である。
ラスト、そのスカウトが言う”無害なツグミを撃ってはいけない。”という言葉も染み入る作品である。>
アメリカ南部の人種差別は根強い
1930年代のアメリカと言えば、ニューディール政策で黒人やヒスパニックといった有色人種が支援の対象外となるなど、人種差別もまだまだ根強かった時代。とりわけ、今作の舞台であり、南北戦争以前は黒人の奴隷制を認めていたアメリカ南部は、差別も強烈なものだったはずだ。作中でも、証人の証言の矛盾を明確に暴いているのにもかかわらず、被告人を有罪とする理不尽さが描かれている。また、障害者に対する差別も根強かったことが窺える。
そのような黒人や障害者に対する差別を、純粋な子供の視点を通じて描く。差別に関して子供らしい無邪気さを発揮する子どもたちを、父親であるグレゴリー・ペック演じる弁護士アティカスが、教え諭すという構成を取ることで、差別を批判するメッセージが込められている作品。
アティカスの人物描写がよくできているのも、この作品を魅力的にしている。子どもたちを叱る際も声を荒げることなく、優しく教え諭している良い父親だ。彼の弁護士業が原因で学校で揉め事を起こす娘に対して「差別を受けている被告人の弁護を止めてしまったら、お前を叱る資格が無い」と言うところが、筋が通っていて魅力的だ。
ストーリーは、アティカスの熱心な弁護にもかかわらず裁判が有罪で終わることでリアリティが出せている。しかし、最後に隣人のブーが子どもたちを助けてくれる結末にすることで、後味の良い構成にできていたのが良かった。
子どもたちにとって、
裁判では勝てなかったけど妨害に立ち向かい正義のために法廷で戦った父の姿は、子どもたちにとってなにもよりもの教育や道標になったに違いないですね。ブーの伏線もとても良かった。
余韻の残る作品でした。
グッド•ワイフで弁護士のバイブルと言われていた
冒頭、主人公のアティカス•フィンチ弁護士に質問する幼い娘スカウトとの会話。
今の人貧乏? そうだよ。
うちは? うちもそうだよ。
カニングハムさんぐらい? いや。
なぜ? カニングハムさんは農業だから、恐慌をモロに被ったんだ。
なぜ野菜をくれるの? 相続手数料さ。
このやりとりで父のアティカスは、娘に来客のことを貧乏かと聞かれて躊躇なく頷く。
貧乏を差別的に認めているのではなく、
事実として認めているので蔑みの気持ちは微塵も無い。さらには娘にうちは?と聞かれてうちもだと答えている。
このシーンで弁護士アティカスの公正誠実を感じ取れた。
1932年頃、アメリカ南部まだ黒人に対しての差別意識が根強く残っているアラバマ州での話。
のどかな風景が広がり兄ジェムと妹スカウトは自然の中で遊び楽しく日々を過ごしている。子供達に勝手にブーと呼ばれている男や少し気難しいデュボースさんが隣人である。
アティカスの妻、子供達の母親は、亡くなっており、家政婦のギャルが家のことをしてくれている。
夜に、判事が来てトム•ロビンソンの裁判の弁護を頼みに来て引き受ける。
突然、アティカスになじって来る男が現れる。
夜にジェムとスカウト、ブーの家の周り沼地にはまり探検中に銃声。
翌朝学校でスカウトがウォルターと喧嘩して兄ジェムがとりなす。
家で父の膝に抱かれながらくつろぐスカウトに自分を抑えるように諭す。相手を知るには相手の身になって考えるんだ。妥協という言葉を知っているか。お互いが譲り合うんだ。父の説明に感心するスカウト。父に説明できないことは無い。
父の凄いのはそれだけではなく、狂犬病の犬が近くに現れた時、保安官と父が様子を見て見事父が一発でし止める。13,4歳頃から銃を触っていたそうだ。
夜、トムの家へ妻に会いに行くと、ついて来たジェムが車に乗っているところに以前アティカスをなじった男が現れ、
「黒人びいきめ❗️」と吐き捨て立ち去る。
遅くまで家にいてくれたギャルを車で送って行く父。
またもや、学校でセシルとケンカするスカウト。
スカウトは弁明する。
「セシルが、黒人野郎を弁護するのか?と先に言って来たの、だからよ。」と。
父は、どんな事があってもケンカをするなと何度も繰り返して諭した。
アポッツビル拘置所に収監されていたトムを連れ出したのを見たアティカスは、留守をギャルに頼み入り口の番をしに事務所に赴く。
セーレムが募ったのか、20人ほどの男たちが、棒を携えて怒りながらやって来て、
トムを出せ、と口々に喚く。
相手にしないアティカスの横にしゃしゃり出たスカウトは、集団の中にいるカニングハムに向かって、
息子と同級生だね、とか、相続のこと上手く行った?と話しかける。
バツの悪そうなカニングハム。
しらけて戦意消失の男たち。皆帰って行った。
だが、アティカスは、寝ずの番をする。
いよいよ公判だが超満員、2階の傍聴席には黒人が席を占める。そこに混じるジェムとスカウト。
ユーエルは娘のメイエラが、トムにレイプされ殴られたと主張。しかし、メイエラは、殴られたことを初め忘れていた。
なぜいつも手伝っていたのかと検事の質問にトムが
かわいそうだったから、と言った途端、
黒人が白人をかわいそうだと?と聞き返す検事。
さらにトムは、メイエラにキスされ逃げ帰ったと証言。
白人が黒人を誘惑した罪、と言われると、
メイエラは、金切り声で自分を信じないなんて男は皆ダメだダメだと叫び続ける。
レイプされたらこんな事言わない、言えないと思う。
メイエラの顔の傷は左利きの仕業でトムは左手を使えない身体だとアティカスは皆の前で証明もしたが、
陪審員の評決は?
アティカスが裁判所を出て行く時、2階の黒人たち皆が次々と立って、アティカスを見送るシーンが印象的だった。立たないジェムやスカウトに黒人の牧師が立つように促す。
アティカスの弁護は立派なものだと認めていたからだろう。
しかし、再審請求しようと考えるアティカスの元へ保安官からの知らせ。
すぐにトムの家に訃報を告げに行くと、
ユーエルがやって来てアティカスを呼び出し唾を吐きかける。
ハロウィン、夜遅く森の中帰途につくジェムとスカウトが襲われるが、誰かに助けられる。
ジェムを家まで運んで行く者。
スカウトは、ブーだと言う。
いつもこの兄妹のことを陰ながら見守り木の洞に
プレゼントの人形や時計を入れていたブー。
ブー、つまりアーサー•ラドレーに
子供たちの命の恩人だと礼を言うアティカス。
家族愛にジーンときた
「おもいでの夏」のロバート・マリガンがこのような社会派映画を撮っていたとは意外な感じがする。
舞台は1932年、この映画は1962年製作、いま(2021年)でも人種問題が起こっている現状は悲しい。
人種問題が主たるテーマになっているものの、一部サスペンスタッチの部分と家族愛の部分で、映画全体の出来をエンターテイメントとしてもすばらしい作品にしている。個人的には父と娘の交流(会話が面白い)のほうがすごく気に入っているが。
敢えて気になった点をあげれば(映画の出来を損なう程ではない)
・被告の黒人青年が拘置所から脱走したこと・・・主人公が上訴すると言っていたのになぜ?主人を裏切るような行為じゃない?彼の性格から脱走するのは不自然、脱走が成功する訳ないのになぜ?もしかして、一種の自殺行為だったのか(撃たれることを想定して)?
・最後のほうで子供が襲われるが、暗くて誰が何をしているのかよくわからない。
・娘の回想であるが、何年後の回想なのか、今の彼女が何をしているのか(父のように弁護士になったのか)、わからない。
・子供たちを救った男を裁判にかけなくてよいのか?真実を追求する主人公の性格から矛盾するようにも思える。ただ、実際に警官の言う通りに従ったのか否かはわからないエンディングであるが。
<印象に残ったセリフ>
ー裁判に負けた後、おばさんが兄にかけた言葉ー
「世の中にはイヤな仕事をしなきゃならない人がいるの、お父様がそうよ」
ーラストシーン、娘が父に言ったセリフ(子供たちを救った男を逮捕する必要ある?という意味、原題の真意がわかる)ー
「無害なツグミを撃つことと同じこととでしょ?」
考えの違いから生じる相克
Blu-rayで2回目の鑑賞(吹替)。
原作は未読です。
家族のドラマであり、法廷ドラマでもあった本作。フィンチの娘スカウトの回想の形を取った物語は、どこか懐かしさを覚えるノスタルジックな描写と、少年少女の目線から見た大人社会の描写が絡み合って、ほろ苦さを感じました。
中盤から黒人青年の裁判が始まり、重い展開が続く。法廷で青年の無実を訴えるフィンチの演説に涙が溢れました。
しかし、個の想いが大勢の考えを覆すまでには時代の雰囲気が成熟しておらず、裁判は悲しい結末を迎えることに…
退廷するフィンチを見送る人々の多くは黒人。裁判に破れたものの、差別に真っ向から対立し、青年の尊厳のために戦ったフィンチへの敬意が、その視線から滲み出ていました。
その背中は、子供たちの目に誇らしく映ったことでしょう。視線に気づかず行くフィンチの姿にも、称賛のためでは無く、信念に従って戦っただけであると云う真の強さがありました。
いつの時代も、信念を貫くことの難しさは変わらない。個と大勢の違いから生じる相克ほど厄介なものは無く、従来通りの考えに縛られた人々からすれば、それに反する者は異質な存在でしかないわけで、戸惑いながら排除し、否定したくなる。
フィンチ弁護士たちも理不尽な目に合いました。それでも信念を曲げない父親の姿を通して成長した子供たち。真実だけが人を幸せにするわけではないけれど、どんなことがあろうと捨ててはいけないものがある。尊い勇気に感動しました。
※修正(2023/08/24)
ものまね鳥を殺すには
正義とは何か?という永遠の問いに対し、ある解答を含んだエピソードとして作られたような映画だった。男勝りの少女とその兄の目を通して語られる弁護士たる父親の姿は威厳があり、これぞ正義の人と感じさせる。同時に、ブーの正体が謎のまま、サスペンスドラマよろしくドキドキさせる演出も素晴らしい。根強い黒人差別と、司法制度によってどのように合法的に無実の人が殺されるかを端的に描いていて、そのメッセージ性は凄まじいものがある。現代でも、多くの場面でこの映画の意図するところを伝える必要があるように思う。
このレビュー、開封禁止
ブーが初めて姿を表したとき
「あーっ、こ、これは、
この映画は《となりのトトロ》だー!」と気づいた。
これはすでにどこかで語られているのだろうか?
宮崎駿氏はこの事を明かしておられるのだろうか?
1963年のアラバマ物語はトトロの下敷きですね、まぎれもなく。
舞台は、
学者肌の父と暮らす母親を亡くした幼い兄と妹の物語。
「お母さんきれいだった?」
「うん」
「お母さんに会いたい?」
「うん」
寂しさに誘われて森をさまようこの二人に森の精「ブー」が現れて静かに手を繋ぎ、子らを抱き上げて危機から救うファンタジー。
ドアの影に隠れてまっすぐ立つブーの立ち姿や、
手をつなぐブーと妹はトトロの絵コンテそのものでしたよ♪
そして、亡くなった妻の写真がいつも画面の片隅に映っています。
父グレゴリー・ペックは、最愛の妻を失った悲しみを救うためにトトロがこの家に来てくれたことを理解している。
だからブーを拒絶せずに受け入れたんだなー
映画の構成としては裁判のチャプターが重いけれど、あくまで主題は幼い兄妹のこころに宿ったトトロ=ブーの物語でした。
この大発見を誰かに伝えたくて仕方ないです(笑)
子供に見せたい
邦題に疑問は覚えたが観てみると後世に語り継ぎたい素晴らしい映画だと気づきます。
グレゴリーペックは私が大好きな俳優さんであり、この役は本当に板についていた。
父親として、弁護士として、射撃王として何より人として素晴らしい真似すべき大人。
出てくる子供たちはおてんばで観た人が皆何かしら自分の子供時代を思い出して重ねられるシーン満載。
大人も子供もドキドキハラハラさせられる映画です。
貧困、階層、ご近所づきあい、友達、学校、喧嘩、銃、ご飯のシーン、法廷でのシーン、全て心温まる映画です。
グレゴリーペック生きてたらなぁ…
すごくよかった
子どもがすごく活き活きとしていて、うちの子ももうちょっとしたらあんな感じで腕白になるのかなと思うと楽しくなった。誰かが死ぬのではないかとずっとハラハラしていた。
シングル・ファーザーのグレゴリー・ペックがとてもかっこよくて、特に、狂犬をライフルで撃ち殺す時にメガネを外した時のイケメン振りが尋常じゃなかった。法廷でもかっこよかった。子どもがなつくのも当然なほど、正義感にあふれ、勇敢であった。
白人女性が黒人に対して欲情していることを描くなど、攻めの姿勢がすばらしかった。
ホームドラマの名作
深刻な黒人差別を扱った重厚な裁判劇。バリバリの社会派映画。この作品を見る前の私の認識である。だから見るのにいささかの覚悟を決めなければならなかった。重いテーマの作品を見るときにはいつものこと。
しかし、物語が進むにつれ、この私の認識は完全にくつがえされた。重厚な裁判劇でもなければ、バリバリの社会派でもない。この映画をもしジャンル分けするのなら、誠実なホームドラマ、あるいは子供たちの成長の物語だ。
たしかに、物語の主軸は、黒人差別問題だし、クライマックスは緊迫した裁判シーンである。しかし、この重いテーマを前面に押し出すのではなく、子供たちの生活の中の大人たちの社会の物語である。
お化け屋敷に住む怪物、木の穴に入っている宝物、初めての学校生活、ケンカ、ハロウィン・パーティー。子供たちには毎日が冒険や発見の日々。
夏休みに別の町からやってきた少年とお化け屋敷に冒険に行くシーンは、ドキドキ・ワクワクする。(実際は、中へ入る前に逃げちゃうんだけどね。)子供はいつ大人になるのだろう?……気づかないうちに。
子供たちは子供たちの世界を持っている。それは決して大人達には解らない。しかし子供たちは大人達の世界をいつでも見つめている、まっすぐな瞳で…。冒頭では、父親に叱られて木に登って降りてこなかった兄も、窮地に立たされても誠実さと正義で対応していく父を見て、ほんの少し大人になった。正しいことをしている父が、裁判で負けたのだ。大人の社会は真実がいつも正しいことにはならないのだ。子供の自分には、父を助けることは出来ない、しかし父がどう戦うのか最後まで見つめることは出来る。この少年のまっすぐな瞳に心が少し痛んだ、自分の汚れ具合を認めさせる瞳に…。あきらかに無罪とわかる被告が、黒人というだけで有罪になってしまう不条理。裁判所でも、白人の傍聴人は1階の椅子席、黒人は桟敷席とすでに裁判が始まる前からその結果を暗示させる地域に根付いた差別問題。しかし、白人の父は黒人の被告ために戦った、たとえ負けても、黒人たちにはその誠意が伝わった。有罪の判決が下り、退屈げにさっさと出て行く白人達の後に残った黒人たちは、法廷を去る父を、起立と拍手で見送った。黒人の牧師は幼い兄妹に促す、「さあ、お父様が出て行かれるよ…。」このシーンで私は涙が止まらなかった。
アラバマ物語は、黒人差別だけの物語ではない。裁判は終わり、被告も死亡したが、事件は終わらなかった。黒人に味方した白人を許せない白人が、幼い兄妹にも刃を向けたのだ。しかしそこを救ったのは誰あろう、あのお化け屋敷に住む怪物ブーだった。彼は怪物ではなく、知能傷害のある心優しい青年だったのだ。黒人差別と同様に、知的障害者に対する差別も、さりげなく盛り込んでいたのだ。ブーは、兄妹たちと友達になりたかったのだ、しかしブーの父親が、普通ではない息子を家に閉じ込めていたのだ。しかし案ずるなかれ、『エレファント・マン』のような悲劇は起こらず、兄妹、その父親、そして保安官らに愛され、守られる彼がいる。ラスト・シーンで、ブーとスカウトが手をつないで歩くシーンが、見ている総ての者たちに温かい心を呼び覚ますだろう。
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