「毎日が忙しないのに極めて退屈、どこまで進んでも希望がない」甘い生活 冥土幽太楼さんの映画レビュー(感想・評価)
毎日が忙しないのに極めて退屈、どこまで進んでも希望がない
おそらく、前知識一切なしで映画に詳しくもない人間にこの作品を見せたなら、長くて退屈で中身がない映画だ、と一蹴してしまうことだろう。
一方では、何十回も観続ける人間もいるだろう。
そのくらいに映画リテラシーが試される作品ではなかろうか?
しかしある意味、それで正解でもある。
ようは資本主義社会の栄華を突き進む新聞記者の日常から、なけなしの夢と希望が失われる、
それだけの話である。
彼の日常は華やかながらも愛がなく、ゆとりもなく、
信念もなく、退廃的な雰囲気に満ち満ちている。
彼は沢山の人と触れ合うが、誰とも絆を確かめられない。彼の唯一の善良さは、小説家への夢である。
それが話が進むに連れて完膚なきまで打ち砕かれる。
信頼していた小説家の不穏すぎる自殺によって、
あらゆる希望を見失う。
この資本主義社会のどこまでいっても満たされないという病理からは、どれほど満たされているように見える人間の奥底からも拭いさることはできない。
どこまでいっても横滑りで、円の周りをぐるぐる回り続ける。
実はこの世こそが地獄で、神曲の如く各シークエンス毎に地獄を巡っていただけなのだと、彼は気がつく。
最後の救いとなる、神曲でいうところの
「ベアトリーチェ」としての海の家の少女。
無垢の象徴である彼女が最後に対岸越しに彼に呼びかけるが、もう彼の耳に少女の声は届かない。
結局彼は最後の救いの手を振り払い、
もといた地獄の中に戻っていく。
主人公が最終的に救われないので、
正直びっくりした。
しかしよく考えれば代表作「道」でも主人公は選択を誤り取り返しのつかなさを噛み締めることになるし、「崖」などでもそうだ、メロドラマとしてのフェリーニに通ずる、そうこれも一種の作家性である。
刹那主義の行末の絶望、圧倒的孤独感、胸が痛くなるような人生の見たくない部分を描き、しかも主人公がそれを見過ごしてしまう。
それは成長譚では決してなく、寓話としての物語である。しかも救いはなにもない。
そんな、フェリーニ的退廃美の究極に位置する作品であるかもしれない。
個人的には、「8 1/2」的なカオティックでシュルリアリスティックだがどこか温かみのあるフェリーニが好みではあるのだが、まぁ本作を経ての行き詰まりから「8 1/2」が誕生し新境地に達する訳であるし、この圧倒的な冷徹さと芸術性、さまざまな象徴を多用する映画作家としてのインテリジェンスは本作が頂点に位置するのではないだろうか?
しかし様々な顔を持つ映画作家である。