「なにが貴族の森だよ」下妻物語 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
なにが貴族の森だよ
翔んで埼玉は魔夜峰央の1983年の漫画である。
2020年現在、37年前ということになる。
あまり記憶していないが、その当時、東京人たちは、本気で近県、埼玉・茨城・千葉などをばかにしていた。かもしれない。
それが、あまりにもうるさすぎるので、自虐ねたをつくって、嘲弄をかわすようになった。──のかどうか、ほんとのところは知らないが魔夜峰央や江口寿史のような、ダサさを反転武器にした創作物によって、地方人が生きやすくなったのは事実である。
つまり、誰もがあらかじめ「おれダサいんですよ」と前置きしてしまうので、東京人もあざけりを楽しむことができなくなった、わけである。
この原作にも同種の諧謔があった。
冒頭、桃子が「できれば私はロココ時代のおフランスに生まれたかった」と吐露するが、そこは茨城で、田んぼに囲まれている。
登場人物たちは、自意識と自虐が表裏だった。
それを端的にあらわした台詞は、いちこ(イチゴ)役の土屋アンナの「なにが貴族の森だよ」だと思う。
貴族の森とは現実に存在した(している)スパゲッティのフランチャイズタイトルである。
そのネーミングセンスをいちこは冷やかしたのだが、同時に、貴族の森で時間とお金を潰している自分自身も自嘲した。
さらに、そこで時間とお金を潰すほかに、さして選択肢があるわけでもない、日本の地方も冷やかした。
そしてさらに、田んぼに囲まれた関東平野のロードサイドの飲食店が貴族の森という名前をつけている日本の矛盾に、至極まっとうな見解を述べたのであった。
かたやフリフリのベイビーを着て、かたや紫の特攻服を着て、そんな二人が茨城の田んぼを疾走し、「貴族の森」なる飲食店に入り浸り、代官山を闊歩する。
「だいたい日本なんてそんなものでしょ」とか「日本ていったいどんな国なんだよ」とか──の諦観と哄笑をはらんでいた。すなわち自意識と自虐が表裏だった。
ただし、諧謔的なのは枝であって、映画の根幹は、お互いの過剰な自意識を乗り越えて、友情を育んだ二人のドラマにあった。
自虐ねたで彩りつつも、底には人と人の思いやりが脈々していたことが下妻物語の凄みだった。
コメディの体裁をとりながら、心象が丁寧に描かれた、人間ドラマになっている。見たときはほんとにびっくりした。
龍二とあきみさんが結婚することになり、密かな片思いが終焉して、河原でさめざめ泣くいちこに寄り添ってあげたくなったのをよく憶えている。