リアリズムの宿のレビュー・感想・評価
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監督の演出力には説明しにくい何か独特の力があるのです 思いつくのは映像のテンポに独特の味があることです
ドラマはありません
あるような無いような
結局はなにもない
ただただ山陰鳥取辺りの田舎を金の無い男二人が旅するだけなのです
敦子の登場がなければ丸ごとなにもない映画です
その淳子もそれが何のドラマであるのか、意味があるのか希薄なのです
一本の映画に仕上げられるドラマ的な中身がまるでないのです
クライマックスが、ひどい安宿で笑うしかないというシーンであるほどです
それなのに、それが83分の映画として成立しているのです
コメディではありません
だからギャグもありません
普通におこる物事のおかしみだけがあるだけなのです
原作のとおり「リアリズム」なのです
それでおもしろい映画と言えるのでしょうか?
つまらなくないのだろうか?
それなのに観終わると何か意味があったように思えてくる不思議さ
監督の演出力には説明しにくい何か独特の力があるのです
思いつくのは映像のテンポに独特の味があることです
一つ一つのカットが長いのです
かといって長回しと言うほどでもない
それでもかなり長いのです
それが恐るべき粘り気をもって積み重ねられているのです
それが独特の間の味わいを作り出しているのだと思います
簡単なようで恐るべき胆力がないとまず撮れないと思います
山下敦弘監督は本作公開時わずかに28歳
リンダ リンダ リンダ
天然コケッコー
味園ユニバース
その後の傑作の数々がその才能を証明しています
2023年現在46歳
まだまだ傑作を送り出されることと思います
楽しみです
【つげ義春の「リアリズムの宿」を再後半でキッチリと描きつつ、顔見知り程度の男二人のクスクス笑えるロードムービーに仕立て上げた山下敦弘監督のセンスに驚いた可笑しみある作品。】
■駆け出しの脚本家・坪井(長塚圭史)と映画監督の木下(山本浩司)は顔見知り程度でしかないが、なりゆきでひなびた温泉街を一緒に訪問。
ふたりが海を眺めていると、若い女性(尾野真千子)が半裸で駆けてくる。「一切合財を波にさらわれた」という彼女を加え、ちぐはぐな旅を続けるが…。
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・山下敦弘監督作品は、好きでほぼ観ているが、この初期作品は未鑑賞であった。だが、その後の「もらとりあむタマ子」や、「ぼくのおじさん」で、感じた緩い笑いが横溢している作品である。
・クスクス笑えるシーンは随所に描かれている。
川で魚を釣っていた二人の所に、外国人のおじさんが現れ、アマゴを強引に売りつけ、二人が宿に戻ったら、そのおじさんは宿の主人だったシーンなど、ナンセンスコメディともとれるオカシナシーンがテンポよく描かれている。
・海岸に居た二人の所に全裸の女性(尾野真千子)が突然、砂浜を走ってやって来るシーンや、その後彼女も一緒に温泉街に泊まり、彼女だけ突然バスで帰ってしまうシーンからの、ラスト女子高生の彼女と二人が出会うシーンなども、何か可笑しい。
ー 全然関係ないが、若き尾野真千子さんが登場したのは、嬉しい・・。-
<山下敦弘監督が得意とする、ワンテンポ遅れた独特の間が絶妙に可笑しい作品。「ハード・コア」以降新作を公開していないが、俄然新作を見たくなってしまったぞ。>
田舎/田舎者という地獄
遠藤憲一、光石研、大杉漣、田口トモロヲ、寺島進、松重豊が出演するバイプレイヤーズというドラマがあったが、たしかに脇役(byplay)で鳴らしてきた人たちの集まりだったが、かれらはすでに大御所でもあった。それぞれ主役をはったことがあり、脇役だったとしてもぞんざいな使われ方はしなかった。知名度と露出頻度が高いため、役どころに一定の品格が保障されていた。
すなわち真意ではバイプレイヤーではなかった──といえる。
そこへくると山本浩司はほんとのバイプレイヤーだった。どこに出ていても(いい意味で)ぜんぜん目立たない。キャリアのわりに諏訪太郎のように下劣な役でもやる。
ほんとの名脇役とは誰からも気にされないような存在で居ながら、知らずのうちに主演者を持ち上げている、文字通りの縁の下の力持ちな役者を言うのではなかろうか。
(いささか古いデータだが──)
『『日経エンタテインメント!』調べ、2007年邦画助演での出演数ランキングで3位(11本)となった。これは遠藤憲一と並ぶ記録で、光石研の12本に次ぐ記録で、若くして名脇役としての地位を固めつつある。別記のとおり、主演作品も多い。』
(ウィキペディア、山本浩司 (俳優)より)
──
つげ義春のマンガが原作。
野暮ったい男の二人組、寂れた寒村、落ちない会話、ビミョウな赤マフラー、シンメトリカルと(なんとなく)こだわりがありそうな長回し。
どのシーンでも、何かが欠落した、違和と生理的な痒さ(かゆさ)のあるアンチクライマックスな会話が繰り返される。
笑いに落としてくれるわけでもなく、ひたすら気まずい。30分ほどで、お腹がいっぱいになる。
が、この違和感は、意図されたもの。解釈するには、耐えねばならない。
坪井(長塚圭史)が風呂を借りたときの、あの得体のしれない感じ。他人というもののおぞましさ。
臆病、虚栄、いじましさ、童貞の姑息さ、優越感と劣等感、どうしようもない田舎と田舎者の救いのないいかがわしさ。・・・。
ああ、嫌だ嫌だ。
──と思いながら見つつ、ふと顧みると、(かれらが)かつて自分が属性としてきたことと大差ないことに気付く。
わたしも田舎者だった。かれらとたいして変わりはなかった。
一瞬だけ出てくる“フナキ”は、田舎者のいやらしさがない。したがって対比が成り立つゆえに、ラスト近く、彼が国英駅に降り立つ絵は、ちょっと清涼を感じた。
好きになれる映画ではないが、確かにどうしようもなく嫌なリアルさがあった。
このリアルを体現していたのは(いい意味で)ぜんぜんときめかない長塚圭史と山本浩司の二人。
それは言わば(ものすごくしつれいながら)女が合コンでこのふたりと体面したときのがっかり感のようなどうしようもないリアル度だった。
今は丸みを帯びているが、この頃の山本浩司は痩せこけて、ふてぶてしく、田舎くさい。ふたりとも映画の主題にぴったりの面構えだった。
リアリズムの宿のウィキに「オフビートな笑い」との形容があったが、ご存知の方は解るはずだが、つげ義春は「オフビートな笑い」ではない。オフビートとは三木聡やジムジャームッシュのように“斜め上”や間合いを使ったコメディを言う。そもそもつげ義春は笑いではなく(あえて形容するなら)寂寥や絶望や因業や恐怖の作家だった。
結局つげ義春を映画化するなんてとうてい無理な話だが映画リアリズムの宿はかなりあの特異な空間に寄せていた──と今でも思う。
山下敦弘監督はすごいと感じた
脱力系漫才コンビかと思ってしまった。二人のクスクスと笑えるエピソードが満載のため、ついつい引き込まれてしまうのです。童貞ネタや乳首ネタで一人下品な笑い声を立ててしまったことに少し反省しながら、後半の絶対に泊まりたくない宿のシーンでまた笑ってしまいました。冬の日本海の映像もさることながら、町の古びた建物をそのまま生かした映像のおかげで、どこかで見たことがあるかのような錯覚にまで陥ってしまった。
貧乏臭いのはなぜか大好き。オタマなんか要らない!茶碗をそのまま鍋につっこめばいいんだ・・・って、やったことがあるだけにリアルだった(笑)。しかし、あの風呂だけは入りたくないヨ!
【2004年8月映画館にて】
ケチャップ
年下と安堵しながらも、ガタイの大きい長塚に引っ張られるようについて行く小男ぶりが目立つ山本浩司。
尾野真千子登場のシーンがやけに壮観な絵でたまげる。怪訝な表情で山本の話に付き合う表情が良い。
くさい布団にくるまりながら馬鹿笑いする長塚圭司の表情につられて笑う。
いつの間にか完全に他人の家庭の団欒の渦中に。じんわりと笑える一本。
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