劇場公開日 2003年12月13日

「【「死んだようなもん」と、まぜこぜの感情と】」ジョゼと虎と魚たち(2003) ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5【「死んだようなもん」と、まぜこぜの感情と】

2020年12月26日
iPhoneアプリから投稿

田辺聖子原作の文庫本で30ページにも満たない短編「ジョゼと虎と魚たち」を読んだのは、ずいぶん昔に、この映画を観た後だった。

檻の中の虎はジョゼだと思った。
自由に外に出ることは出来ない。

好奇の目で見られるばかりだが、外の世界に向かって、何か怒りともつかない力強いエネルギーを蓄えている。

ジョゼは、作品中で、障碍者というより、ひとりの豊かな個性として描かれていて、そして、どこか逞しい。

恒夫によって、少しずつ外の世界に誘(いざな)われるジョゼ。
セックスも旅も。

映画には小説にはない登場人物も多い。
今改めて観ると、カナエ(上野樹里)だとか、息子(新井浩文)だとか出てて少し驚く。

そして、ストーリーは肉付けされていて、エンディングも異なる。

原作では、ジョゼが、他に誰もいない海底水族館の二人を、海底に取り残された「死んだようなもん」だと言う。

原作のジョゼの言葉は、独特で想像力に富み、とても暖かい。

「死んだようなもん」とは、二人きりで取り残されて、煩わしさなどなく、幸せという意味で言っているのだ。

足の不自由なジョゼは、幸福を天にも登るようなものではなく、海の底にいるようなものに喩えていたのだ。

原作で魚たちは、ジョゼと恒夫のことだと思った。

原作でジョゼは、いつか別れがあるかもというようなことを思い浮かべるが、そのまま、そう、「死んだようなもん」のままだった。

映画は、異なるエンディングだ。
映画は、現実も見つめるような物語だ。

どこか教科書的に社会福祉に意義を見出そうとするカナエと、流れの中でジョゼと生活を共にする恒夫の対比は、どこか僕達の生きる世界を冷静に見てるようでもある。

意義だけ突出してしまって、本当に望んでいるのか。

恒夫は、逃げたと言う。
恒夫は、確かにカナエのところに逃げた。

でも、ジョゼのことが本当に好きだったのだ。
実は、今でも好きなのだ。

まぜこぜの恒夫の感情は、恋愛について、どこに価値を見出すのか、分からなくなっしまったことがある僕自身に重なるところがある。
好きよりも安易な道をつい選んでしまう自分自身にも重なる。

台所の台から、勢いよく、ドンとお尻から降りるジョゼ。

下にドンと…。

一見、変わらぬジョゼ。
だが、ジョゼは、後ろ向きではない。
恒夫のSM趣味もユーモアに変えていた。
恒夫との別れを、前向きなエネルギーに変えようとしているかのようだ。
しかし、それも、なんか少し切なくもある。

映画には、別れのストーリーを加え、青春のほろ苦さや、甘酸っぱさも感じられる。
だが、原作も含めて根底に流れているのは、どちらかというと、偏見を受け流す若者たちの柔軟さや、強さや、優しさだ。
映画は、物語に別れを織り込むことによって、ジョゼを更にひとりの個性として見つめようとしていたのかもしれない。

原作も映画も、僕にとっては愛おしい作品だ。

アニメはどうなるのか、恐る恐るだが楽しみにしておきたい。

ワンコ